月下の酒宴
障子越しに微かな月明りを感じて良治は目蓋をゆっくりと開いた。
厚手の布団の中は暖かく、まだまだ暗いこの時間なら寝直す以外の選択肢はない。――本来なら。
やや眠気の残る頭をなんとか起こし、良治は自分の体質に感謝した。
潰れるまで飲酒した翌朝は二日酔いの頭痛と吐き気に襲われて酷い状態になるが、適度であればむしろ深く眠ることが出来ずに夜中でも度々起きてしまう傾向にある。
それが今回は良い方に出てくれた。
深酒をしていたらこのタイミングで起きることは出来なかっただろう。
それにしてもよくもまぁイベントばかり発生するなと思いながら、寝巻の浴衣からハンガーに掛けてあった服に袖を通した。
襖一枚挟んだ向こう側は女性部屋になっている。
食べるもののなくなった皿を片付け、テーブルを端に置き二間続いていた間の襖で部屋を分けた。
我が儘を言いそうな誰かは既に眠っていたので、何の問題もなく男女別に決まったのは楽だった。
良治は同じ部屋で寝ている翔と正吾を起こさぬようにそっと障子を開いて廊下へ出る。
ちなみに正吾は彼らが寝る直前に、幸せそうな緩み切った表情で部屋に戻って来た。
良治たちは特に追求しなかったが、簡単に会えない恋人と会っていたことは容易に想像がつき、それをわざわざ指摘するほど彼らは野暮ではなかった。
廊下の向こう側は庭で、大きなガラス戸で遮られてはいるがその気温差は結構なものだ。床はひんやりを通り越して氷のように冷たい。
力を巡らせて体温を維持する術がなければすぐに布団に戻りたくなっただろう。
「……用件は?」
囁くような小さな声。しかし静まり切ったこの空間ではそれで十分に通る。
良治が起きた理由、それは廊下から誰かの気配のようなものを感じたからだ。
ほんの僅かな気配。気のせいで処理してもおかしくないような本当に欠片のような残滓。
もし本当に気のせいだったら恥ずかしいなと思いながら姿の見えない誰かに声を掛けた。
すると廊下の先の暗闇からすっと見覚えのある影が現れる。――小柄な女性だ。
誰かがいてくれて内心ほっとする。
「……彩菜?」
「うん……こうやってお話するの久し振りだね、にぃ」
小柄でショートカット、動きやすそうな黒装束。
昼間も大広間で見たので見間違えようがない。
廊下に現れたのは良治の義妹、柊彩菜だった。
「久し振りだな。元気なようで良かったよ」
「そっちも。でも無理しちゃ駄目」
「まぁ何処からか見てたみたいだしその心配はわかる。けど彩菜もな。黒影流の仕事はキツいし、彩菜はそれ以外にも仕事をしてるんだから」
「うん、ありがと」
柊彩菜、黒影流所属。
そしてその次席にして、今は実質的な白神会運営者の綾華の警護をしている。休む暇も寝る暇もないほどの激務だ。
そこで良治は気がつく。何故綾華警護の彩菜がこの場所にいるのかと。
もしかしたら綾華の身に何かあったのかもしれない。
「なぁなんでお前がこんな時間に、こんなところにいるんだ? もしかして」
「あ、大丈夫。綾華さまに何かあったわけじゃないの」
「じゃあ……?」
「うん、こっちに来て」
「……わかった」
予想は外れた。
だが良治個人に何か用件があるのは確かなようだ。
足音もなく背中を向けて廊下を歩きだした義妹の後を追う。
相変わらず小さい。中学生くらいから背は伸びていない気がする。
何かの罠という可能性はない。皆無だ。
彩菜なら殺そうと思えばそれこそ寝たまま起きれなかっただろう。黒影流はそういうことに特化した流派だ。
それに良治は養子だが、彩菜が産まれて間もない頃から彼女を知っている。そういう意味ではあまり義理の妹の感覚はない。
ただ一緒に暮らしていたのは彩菜が小学生に上がる頃までで、良治が東京支部の南雲家で暮らすようになってからは会うことは稀だった。
そのせいか、良治はともかく彩菜は少しぎこちない部分が時々ある気がする。しかしそれが彼を罠に嵌める理由にはならないだろう。
角を二つほど曲がった先の廊下の途中。ガラス戸を開けて座り、庭を臨む男の姿があった。
紺色の着流し姿の背格好に一瞬隼人を思い出したが別人だ。
「――よう。一杯どうだ?」
「……いただこう」
微笑みを浮かべる男の元へ行く前に、何かの予感がして振り返る。するとやはり予感は当たっていた。
「あ、待って」
「?」
仕事を終えたとばかりに闇に消えていく彩菜を呼び止める。
まだ一つだけ、これだけは言っておかないといけないことを言っていなかった。
「葬儀、出れなくてごめんな」
「……ううん、タイミングが悪かっただけだから。気にしてないよ」
「……ありがとう」
良治が組織を離れていた期間に引き取ってくれた柊の両親は亡くなっていた。
父は仕事中に、母はその半年後に病でと、それぞれ違う理由だったがこうも急にいなくなるとは思ってもいなかった。
本来なら悲しみを分かち合う存在だった良治は行方をくらましていて、残された彼女は何を思ったのか、それは良治にはわからない。
ただその場に居られなかったことを、彼は強く後悔していた。彼女に、謝りたかった。
「――またね」
「ああ」
それだけ言うと今度こそ彩菜の姿は闇に溶けた。
交わした言葉は少なく、家族としてではなく仕事としての再会だった。
だがそれでも心が満たさるのを感じることが出来た。きっと彩菜もそうだろう。去り際の微笑がそう思わせてくれた。
「悪いな待たせて」
「いいよ。せっかくの再会だ」
「会わないと、話をしないとなとは思ってたから助かったよ。ご配慮くださりありがとうございます」
「うわ、やめろよそういうの。リョージに言われるのだけは嫌だな、鳥肌が立つ」
「じゃあ今度は正式な席で言ってやるよ」
「勘弁してくれ」
お互いにおどけた態度。それは信頼の証。
笑顔でやり取りをしながら彼の隣へ座った。
「まぁ取り敢えず一杯どうだ」
「ああ、ありがとう」
そう言って用意されていた大き目のお猪口に酒が注がれる。
一升瓶の中身は開けたばかりなのかほぼ手つかずのように見えたが、彼はバランスを崩すことなく片手で行う。大した筋力とバランス感覚だ。
「そっちは?」
「貰おう」
良治も相手に片手で注ぐ。
なんとか注げたが右手が少しだけ震え、彼より下手だったことに悔しさを感じた。
「よし。明けましておめでとう、リョージ」
「ああ、明けましておめでとう、和弥」
月の良く見える庭で、二人は軽く器を合わせて中身を一気に煽った。
良治と和弥の間には一升瓶とこげ茶色をした陶器の酒盃、そして梅干しや漬物などの酒の当てが丸いお盆の上に置かれていた。
このチョイスは和弥のもので、霊媒師同盟の一件のあと訪れた彼の家でも出ていたことを覚えている。
なかなか渋いが良治もこういったものの方が好きだったりするので問題はない。なんなら塩や味噌でも日本酒を飲める人種だ。
「で、なんでこんな時間に」
「いやー色んな支部の挨拶終わったら疲れて寝ちまって。それでさっき起きたんだ」
支部の挨拶はかなり時間がかかったはずだ。
参加者は第七位階級以上に限られるがあちこちに支部はある。どんなに早く終わったとしても陽が落ちてしばらくはかかっていたに違いない。
「誘うなら普通に声をかけろと」
「熟睡してたら悪いだろ。起きなかったら一人で飲んでたさ」
「まったく。で、世間話か?」
「ああ、世間話だよ。最初の話題はそうだな……」
空を見上げて考える和弥。するとすぐに思いついたらしくにやりとこっちを見た。
「今一番ホットな話題といこうじゃないか」
「成孝さんあのままほっといていいのか問題だな」
「さすが」
「そりゃな」
今日一日の中で一番面倒くさかった出来事、腹が立った出来事だ。もう怒りは収まっているが、また会いたいなどとは到底思えない。
「はは、良治でも苦手な人はいるんだな」
心情を察した和弥が笑いながらまた一口酒を飲み、漬物に手を付ける。
「そらいるさ。隼人さまもその一人だしな」
「ああ、それはわかる。読めない人だからな」
和弥にとっては義兄にあたる人物だが彼もそう思うらしい。
白兼隼人は謎が多い。いや正しくはその行動が読めないことが多いのだ。
昔など何を思ったのかひょっとこのお面を被って戦場に現れたこともあった。今でもあれは謎だが、つまりそんなことを唐突にしていくるくらい読めない人間だということだ。
「隼人さまは結婚とかしないのか」
「そんな話は聞かないな。それっぽい行動もない。白神会の行く末的なこともわからん」
「それもまた一つ問題だよなぁ」
隼人は独身で子供もいない。少なくとも子供がいるような話は一度も聞いたことがない。
それで問題になるのはこれもまた後継者問題だ。
隼人の次、というか現状直系は隼人と綾華しか存在しない。
一応系図上は血の繋がりがあると伝え聞きしたレベルの遠い親類はまだ白神会にいるが、その親類たちも自分たちが継承権を持っていると思っていないだろう。五代以上前に結んでそのままの血縁などそんなものだ。
「ああ話題が逸れた。で、リョージ。祐奈さんどうすんだ」
「まぁそれはそれとして、和弥的には祐奈さんと成孝さんが結婚とかいう話はどうなんだ」
「こっちの質問はスルーか……。まぁ組織とすれば家格も合うし、年齢的に……は微妙だけどあり得ないほどじゃない。だけど個人的には祐奈さんはあいつのこと嫌いみたいだし、無理強いはしたくないな。今はそんな切羽詰まった状態でもないし」
「なるほど」
和弥も反対、とは言わないが急いで進める事柄ではないと考えているらしい。少しだけ安心する。
「というか凄いよなあの人。京都支部なんて黒影流が監視してるんだから何か起こしたらすぐにわかるってのに」
「それに考えが及ばないくらいのバ……いや大物なんだろ」
「違いないな」
和弥の印象も良治とそう変わることはないらしい。『あいつ』などと呼んでいるのがその証拠だ。
確かにそうそう成孝に好印象を持つ人間がいるとは思えない。
「まぁ祐奈さんのことは難しいよ。彼女には立場があるし、俺は少なくとも今はこの先誰とも結婚するつもりもないしな」
「三人と付き合ってるのにか?」
「あの三人はそれを含めて付き合ってくれてるから。じゃなきゃそもそも付き合うことになってない」
選べないし選ぶつもりもない。少なくとも今は。
そんな我が儘を三人が聞いてくれたこその今の関係だ。
「さすが恋愛ゲームの主人公。本当にハーレム展開になるとは」
「うるせぇ少年漫画の主人公」
「懐かしいなこのやり取り。……まぁでも今はいいけど十年後とかも同じ状態だと、祐奈さんのフォローは出来なくなるぞ」
「その時はきっと良い相手が見つかってるよ。もしくは加奈さまと祥太郎のとこから養子を入れよう。それで解決できる」
「……さっきは苦手って言ったけど、リョージあいつのこと嫌いだろ?」
「はっはっは。大嫌いだね」
「本音が聞けて何よりだよ」
「まぁなんだ。飲もうぜ。こんなに美味い酒は久し振りだ」
「はっちゃけたリョージを見るのもそうないからな。付き合おう」
お互いのお猪口になみなみと注いで口をつける。
――とても幸福で、良い時間だ。
「リョージ、最悪祐奈さんと子供だけでも」
「それはさすがにどうかと思うぞ。色んな意味でまずいだろ、それ。というか和弥、ずっと外の仕事ばっかりだったみたいだけど今年は控えろよ」
「ああ、そうだな。……やっぱりそうだよぁ」
「うむ。お前はこれからもっと綾華さんの傍にいるべきだ」
和弥は京都本部に移ってからずっと外の仕事、つまり魔獣討伐などの仕事をメインに行ってきていた。
それは白兼綾華の夫となるには必要な実績で、今もそれに相応しくなれるように努力を重ねている。
「……だな。産まれるまでは外の仕事は最低限にするよ」
「産まれてからもな。むしろ産まれてからが本番だろうに。もう少しちゃんと考えておけって」
「う……わかった」
「ならよし」
偉そうに言ってはいるが、良治にはそんな経験はない。
ただ以前もしもの時の為に調べた時のことを思い出しながら言っているだけだ。実際に自分が同じ立場になったら出来るかどうかはわからない。きっと頭がテンパってそれどころではないだろう。
「お前に子供が出来た時に言い返してやる」
「……それは怖いな」
「誰との間に出来るから一番気になるけどな」
「言うな」
「やーい《東京の女たらし》ー」
「そうだよ言い忘れてた! てめぇ和弥それはやめろぉ!」
「事実は事実だからな!」
「……言い返せん!」
時間も時間なので落ち着いた会話をしようと思っていたのだが、久し振りのゆっくりとした楽しい会話と酒の影響でついつい声が大きくなっていく。
そこで不意に良治はあることに気付いたが、それは別に気にしなくていいことだったので別の話題を振る。
「あぁそうだ、何か手頃な刀、もしくは小太刀とかってないか? ちょっとずっと使ってた得物を壊しちまって」
「あー、村雨折っちまったって言ってたっけ。あれ、小太刀は?」
「あれもこの間の仕事で使い物にならなくなってな。ということで新しいのを探してるんだ」
薫と二人で宇都宮支部の仕事をした際、退治した蜘蛛の魔獣の毒液によって、小太刀はもう使えるような状態ではなくなってしまっていた。
納刀して転魔石で送り返すことが出来たので大丈夫かと思っていたのだが、自宅に戻り確認すると刃の部分は腐食したようになっていて、素人目にももう駄目だと思える状態だった。
「うーん、じゃあ《信牙》でも持ってくか?」
「おいこら待て。それは白神会最高の神器だろ」
信牙とは永い間封印されていた、白神会に伝わっていた神具である。
その特性は力の増幅であり、増幅器として使おうものなら凄まじい威力を発揮する。もちろん使い手にもよるが、良治はこれ以上威力を放つものを知らない。
色々あった結果封印は解け、今はこの京都支部の何処かに置かれていると言われている。――和弥が《魔王殺し》の称号を得ることになった時に使用したものでもある。
「不満か?」
「不満とかそういう問題じゃない。持ち出したら大問題だ」
あれ以上の武器はないが、普段から使うようなものでもないし、隼人から許可を得たとしてもそれ以外の周囲からどう思われるか考えるととても受け取れるものでもない。敵は増やしたくないのだ。
「じゃあ木刀?」
「それはお前だけが使ってればいいんだよ」
「残念だ」
木刀は和弥が退魔士となってらずっと使っているものだ。
折れたり欠けたりをして物自体は変わっているが、それでも他の武器、刀などはあまり使いたくないらしい。
和弥は周囲と大切な人や物を守る為に退魔士になった人間だ。過度に相手を傷つける道具は手に取りたくないのだろう。
――復讐の為に退魔士になった良治とは真逆の理由だ。
「それにしても懐かしいな。木刀一本でここまで来るとはなぁ」
「リョージや綾華、まどかのお陰だよ。俺は周囲に恵まれた」
「俺自身も周囲に恵まれてると思ってるよ。まぁお互い恵まれてて良かったな」
「はは、だな。……そうだ。たぶん知らないだろうから言っておくけど」
「ん?」
「委員長、今から四年くらい前に結婚したよ。確か群馬か何処かの神社に嫁いだ」
「……そうか。幸せになってるならそれでいいよ」
「何か思うことは?」
「今言ったことだけだ。今が幸せならそれでいいさ」
「そっか」
和弥が言った『委員長』とは高校生時代のクラス委員長のことだ。
メガネにおさげという典型的な女子の委員長の風貌で、彼女は実家の神社で退魔士として活動していた。
実際に良治や和弥と一緒に仕事をしたこともあり、彼女の実力も相当なものだった。
だが今の話の根幹はそこではない。
当時彼女は良治のことが好きで、良治もその気持ちを知っていた。
だが結局良治はまどかと付き合うことになり、その後もちょくちょく顔を合わせる機会はあったのだがその気持ちに応えることはなかった。
そして、良治は突如失踪した。
四年前と言うと彼がいなくなって一年ほど経ってからだ。
その一年で彼女は何を思って嫁いでいったのかはわからない。
ただ、今を幸せに過ごしてくれていれば良いなと。そう良治は思った。
「――昔話はここまでかな」
「ん――ああ」
和弥の声に意識を戻す。そしてすぐに言葉の意味を理解した。
良治がやってきた方向の廊下から一人の少女の姿が浮かび上がってくる。
彩菜ではない。もう少しだけ背の高い、セミロングの――
「あ……」
「こんばんは、優綺。こんな時間に出歩くなんて悪い子だな」
「ご、ごめんなさいっ」
月明りに照らされた幻想的な美しさ。
寝巻の浴衣の上に自分のコートを羽織った良治の弟子が、そこにはいた。
【信牙】―しんが―
古代から伝わると言われている両刃の剣。幾つか存在する神器の一つとされ、江戸時代の始まる頃に白神会が封印したと言われていた。
とある魔族に封印を解かれて奪われるが取り戻すことに成功。第二次陰神戦では相手組織のボスを倒す決定打となった。更に魔王をも倒す一撃となるなどその力ははかり知れない。
増幅器という特殊機能故取り扱いは白神会総帥の許可が必要で、現在は京都本部の何処かに隠されているらしい。
余談だが、綾華は和弥がうっかり壊すのではないかと心配なようで、兄である隼人に許可を簡単に出さないように進言しているらしい。




