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ほんの少しの進展

「っ!」

「あ、おいっ!」


 がたいの良い男性――成孝に良治は涼やかな笑みを向けて話しかけると、佑奈が引き攣った顔の成孝の横をすり抜けて良治の背中に隠れる。

 成孝の伸ばした手は遅く、彼女を捕らえることは出来なかった。


 この状況でよく動けたものだ。以前だったら不可能だっただろう。

 あの件からやはり彼女は強くなったのだと実感する。――涙を目に溜めてはいたが。


「嫌がってますよ。やめませんか、こういうこと」

「は、何を出戻り風情が。好きな相手に振られて結婚も出来ない可哀想な女を引き取ってやろうという私の優しさですよ、優しさ。それが理解出来ないなんて、どれだけ頭が残念なんで――」

「黙れ」

「ひぃっ!?」


 こいつは小物も小物だ。弱いものにしか強く出られない、弱者をいたぶることしか出来ない、しない屑だ。

 そして、良治はそんな屑がとても嫌いだ。


「成孝さん。今貴方にある選択肢は二つです。

 まずこのまま黙ってここから去るか、それとも今ここで黙って殺されるかです。――どちらにしますか?」

「な、な……!? そんなことをすれば我が宮森家を敵に……!」

「黙って、という言葉が理解出来なかったんですかね。――三秒で決めろ。三、二――」

「ち、ちくしょうっ!」


 どたどたとみっともなく廊下を蹴るようにして走り出し、角を曲がって姿を消す。良治としても早く視界から消えて欲しかったので本当に助かった。

 きっと、お互いにとっても。


「大丈夫でしたか、佑奈さん」

「はい、はい……! 本当にありがとうございます!」

「っと」

「うぅ……!」


 ぎゅっと抱き付いて来る佑奈の頭をそっと撫でる。

 強くなったとは言え、あの状況はとても怖かっただろう。


 宮森成孝は自分のことしか考えていない、粗野で粗暴な男だ。

 良治が、というか誰かが気付かなかったら大変なことになっていたかもしれない。それはあまり考えたくないことだ。


 良治が成孝に言った言葉。それは全て本気だった。

 自分ではあまり直情的ではなく、色々な視点で物事を判断するタイプだと思っているが、それでも自身の倫理観に抵触するようなことを目撃してしまうと途端にそれが消えてしまう。


(カッとなりやすいのは悪い部分だとわかってはいるんだけどなぁ)


 自分の感情が悪いとは思わないが、それを実行した後にもっと他の手段があったのではとは思う。相手を殺すという手段は最終手段だ。


 きっと成孝が強引に伸ばした手が佑奈に届いていたなら、良治は躊躇いなくその腕を切り飛ばしてトドメまで刺しただろう。

 そうなったなら良治はそのまま白神会を抜けてまた旅に出たかもしれない。


「怖かったね。さ、部屋まで送るから」

「あ、ありが、ありがとうございます……!」

「……もうちょっと落ち着いてからにしようか」

「……はい」


 こんな状況で送ったら誤解されるかもしれない。というかもう前科があるのでまず誤解から入るだろう。

 それは困るので、良治は佑奈の髪を撫でながら落ち着くのを待った。


 ――結局佑奈自身が落ち着いたと言うまでの三十分間、良治は髪を撫で続けた。










「……あの人、一昨年の新年会から、話しかけるようになってきて……」


 ぽつぽつと廊下を歩きながら話し出した佑奈の話を纏めるとつまり、一昨年初めて会った成孝が去年、今年と新年会の度に話しかけて来て、今年は実力行使に出ようとしたところを良治が助けた。そういうことらしい。


「ええと、今更ですけど成孝さんとどうこうする意思はないんですよね」

「あの、それを良治さんが私に聞くのは酷い、ですよ」

「……ごめんなさい」


 佑奈の告白を受けてからまだ一か月も経っていない。それでこの質問はまるで彼女の気持ちが軽いものだったかのような印象を与えてしまったようだ。

 良治とすれば基本的に他人の色恋沙汰には首を突っ込みたくないので、そこを突っ込む以上明確な意思表示を聞いておきたかっただけなのだが。


「……まだ、好きですから」

「……はい」


 なんて答えたらいいのかわからない。

 返事以外に何か適切な回答があるのなら教えてもらいたいくらいだ。


(誰か俺に女の子の扱い方を教えてくれ……)


 最近年下の女の子から好意を向けられることが多いのを自覚はしている。普通に応対しているだけなのだが、何故かそうなってしまっている。

 良治の自己評価は低いので本当にそれが謎で理由が不明だった。


「でも、良かったです」

「良かった?」

「はい。……その、もうお話も出来ないかもって、そう思ってたので」


 佑奈との別れは彼女が泣き疲れて眠ってしまった時だ。

 なので今後のことなどは話していない。そのことがとても不安だったのだろう。それは今のほっとした佑奈の表情を見ればわかる。


「俺が何か言うのは、その卑怯だったりずるかったり思うんですけど……佑奈さんの気持ちは嬉しかったんですよ、本当に。だから普通に仲良くできたらいいなって。でもそれは佑奈さんにとっては嬉しくないでしょうし、苦痛でもあるかも――」

「そんなこと、ないですっ」

「佑奈さん?」


 立ち止まって声を上げた佑奈がこちらを向く。


「私は、嬉しかったんです。今日会えて、お話が出来て……私を助けてくれて。だから、そんなこと言わないでください。

 ……私は今幸せなんです。こうやって二人で居れて、お話しできて。その、さっきも言いましたけど、好きなんですからっ」

「――ごめん、佑奈さん」


 自虐が過ぎた。

 佑奈が何も言わないから、恨みごとや憎しみをぶつけないから自分で罰しようとして、結局彼女を傷つけた。


 ――最低な人間だ。屑だ。死ねばいいのに。


 そしてそうやってまた自虐を始める自分に気付いて吐き気がしてくる。


「いいんです。良治さんのそれは、私は優しさだと、思ってます。自分のことよりも誰かのことを考える、そんな良治さんのことを、私は好きになったんです」


 でも、と言いかけて口を閉ざす。

 これ以上泣き言を口にするのは情けない。まるで慰めてほしくて言うようだ。


「……ごめん、ありがとう。まったく情けないね」

「そんなことないです。見たことない部分ところが見れてちょっと嬉しい、です」


 はにかんだ笑顔に癒されそうになって、また良治はネガティブになりかける。だがそれはもうおしまいだと、心の外に放り投げた。


「本当に情けないな。じゃあ今まで通りに接しますけど、嫌になったら言ってください」

「……はい、わかりました」


 佑奈は随分と自然体で話が出来るようになったように感じる。

 少し前までは言葉も少なく、つっかえつっかえ話をするのがやっとだった気がする。それが今は自然に話せるようになっていた。


「――あっ、佑奈ちゃんっ」

「あ、眞子まこさん」


 廊下の先から現れたのは福島支部の伊藤眞子だ。

 焦った様子でこちらに駆け寄ってくる。どうやら佑奈を探していたようだ。


「帰ってこないから探してたのよ。その、何かあったの?」

「ちょっと成孝さんに絡まれてまして。それで俺が送ることに」

「ああ、なるほどね……ごめんなさい、佑奈ちゃんを一人にした私の責任ね」

「あの、気にしないで、ください。大丈夫でしたから……」


 眞子の様子を見るに一昨年からの話は知っているようだ。

 ただ佑奈も眞子に心配はかけたくないようで言葉を濁す。あまり良治は立ち入らない方がいいだろう。そもそもそんな資格がない。


「では俺はこれで。ちゃんとした挨拶も出来ずに――」

「あ、良治くんちょっと待って。こっちこっち」

「え?」


 眞子に会えたのでもう自分の役目は終わりだ。そう判断して立ち去ろうとした良治を眞子が呼び止める。


「私たちの部屋そこなのよ。ちょっと飲みましょうよ」

「え、そこなんですか? さっき眞子さん来たのって向こうからじゃ」

「ぐるっと一周して戻って来ただけよ。さ、早く」

「えええ……」


 腕を掴まれて引っ張られていく。助けを請うように佑奈を見るが微笑みで返されてしまう。助けてくれる気はなさそうだ。


「ただいま、お客さん連れてきたわよ」


 そして可愛いなと思っている中、扉を開かれてしまい。


「……どうも」


 良治は諦めて福島支部の部屋に足を踏み入れた。













「……こんなところにいたんですね」

「あ、天音。……なんか成り行きで」

「せめて一言欲しかったです。まぁ仕方なかったのでしょうけど」

「理解があって助かるよ」


 天音が福島支部の部屋を訪れたのは良治が捕獲されてから一時間近く経ってのことだった。

 良治を連れてきた眞子はまだ飲んでいるものの、顔馴染みのはじめはるかは二人で飲み比べをした挙句に揃って潰れている。仲の良いカップルだ。


「あ、潮見しおみさん。明けましておめでとう」

「はい、伊藤さん。あけましておめでとうございます」

「さ、どうぞ」

「ありがとうございます」


 天音はそっと隣に座ると勧められるままにお猪口を口にする。相変わらずその一連の動作が流麗で美しい。


「天音、酔ってないな?」

「ええ。ずっと優綺とお話してましたから」

「それでその優綺、というかみんなは?」

「優綺はもう休んでますよ。まどかさんはあのままですし、結那さんと葵さんも潰れてます。正吾は何処かに行ったようで、後の処理は翔さんと千香に任せてきました」


 今日は疲れることばかりで、そこに酒が入れば疲労が表に出やすくなる。かく言う良治も一度酒を切って水に切り替えた理由もそこにあった。

 もう開き直って潰れるまで飲んでもいいかなと思い始めてはいたが。


「お疲れさん。もう少し飲んだら戻るか」

「そうですね。……あ」


 天音の視線を追うとばっちりと目が合った。

 こちらを伏し目がちに見ていた、佑奈と。


(……これ、まずくね?)


 佑奈は良治と天音が付き合っていることを知っている。その逆もだ。

 どうしたら、何を話せばいいのかわからなくて動けない。でも気になる。きっと佑奈の心情はその辺だろう。

 大きく外していないはずだ――と思って自分の女心の理解のなさを思い出して溜め息を吐いた。


 一瞬迷った天音が席を立とうとするのと同時に、少し離れた場所に座っていた佑奈も立ち上がる。

 それを見て再度動きの止まった天音とは対照的に佑奈はぎこちないながらも動きを止めずに天音の席までやってきた。


 周囲の会話が止まり、部屋にいる全員が二人を注視していた。


「あの……こんばんは、です」

「……無作法失礼致しました。明けましておめでとうございます、佑奈さま」

「あ、明けましておめでとうございます……」


 頭を下げながら挨拶する天音を見て、そこでようやく良治は理解した。天音は佑奈と顔を合わせたくなかったのだと。


 部屋に来た時、天音はこんなところに、と言っていた。

 つまりそれは他の場所を探したあとでここに来たことを示している。そして良治の行きそうな場所だが、知り合いのいる場所の可能性が高い。つまり福島支部の部屋も有力な可能性の一つだ。


 そしてそれを避けた理由。後回しにした理由は佑奈にあるのだろう。

 だがそれは彼女のことが嫌いだったり憎かったりというものではないはずだ。


(どうやって接したらわからなかった……ってとこかな)


 年下で、自分の恋人に告白して、組織内の立場は上。中々難しいのは説明をしなくてもわかる。


「……」

「……」


 沈黙がつらい。だがここで良治が口を挟んでいいのだろうか。余計拗れたりしないだろうか。


「……あの、ごめ……ううん、その……」

「……はい」


 何かを言い出そうとしている佑奈を天音はそっと見守って言葉を待つ。


「……私、諦めてないですから」

「はい、承りました。二人にもそう伝えておきます」

「え?」

「別にいいのではないかと。そもそも佑奈さまのお気持ちに何か言う権利は私、私たちにはありませんから。言えるとすればそれは良治さんくらいです」


 視線を送られて渋面になる。

 権利はあるかもしれないが誰かの気持ちに土足で踏み入るつもりはない。少なくとも誰かが傷ついたり明らかな被害が出ない限りは個人の気持ちを尊重したい。


「まぁ良治さんは言うつもりはなさそうですけどね。

 良治さんは今こんな状態で……いえ、こんな状態を望んでいるようなので、私たちと佑奈さまの立場にそこまでの違いはないと思いますよ」

「え、でも……」

「良治さんは優柔不断で八方美人ですから。押せばどうにかなるかもしれませんよ? ……どうしました、さっきよりも更に苦虫を噛み潰したような顔になってますよ」

「……そういう話を俺の前でするなよ」

「ふふ、それは失礼しました」

「…………はぁ」


 この場でそんなことはないとはっきり言えない自分に気付いた良治は沈黙の後に深い溜め息を吐いた。


 佑奈のことは嫌いじゃない。それどころか段々好ましく思ってきている自分がいる。

 しかしだからと言って何かの行動に出るつもりはない。

 現在でも三人の女性と付き合っているのに、これ以上どうしろというのだろうか。


「あの、良治さん……!」

「佑奈さん、すいません。今日はこれで」

「あ……」


 か細い声で何かを言い出そうとした佑奈を尻目に良治は立ちあがった。これ以上は駄目だ。


「……もし何か言いたいことがあるのでしたら、しばらくして変わらなかったらもう一度お願いします。もちろんその時はお酒の入っていない状態で」


 元からそのつもりでいて、酒の力を借りるのはありだと思うが、そのつもりがなかったのに酒の勢いで何かを言うのはどうしても信憑性に欠ける。

 そう良治は思っているのでこの場でこれ以上話は聞きたくなかった。

 聞くならちゃんとしてる状態で聞きたい。


「あ……はいっ」

「じゃあ天音、行こう。それではおやすみなさい」

「では失礼します」

「おやすみなさい、です」


 天音を連れて部屋を出る。ふと後ろを見るととても嬉しそうな佑奈の姿があった。


「……天音、やりすぎ」

「でも悪い気分ではなかったでしょう?」

「そうだけどさ」


 角を曲がって二人になり、苦言を口にする。

 天音が余計なことを言わなければ、時間はかかるにしてもきっと彼女は諦めてくれただろう。


 天音の行ったことは良治に思いを寄せる女性を諦めさせなかったことだ。それが彼女に何のメリットがあるのか、良治にはわからなかった。


「私は貴方の味方ですけど、恋する女性の味方でもあるので」

「それで自分が割を食う可能性があるのに? それにあの部屋に来るのを躊躇ってたのにか?」

「まぁそうですね。最初はそう思っていましたが、実際に佑奈さまを見たらそんな気持ち何処かに行ってしまいました」


 ほんの僅かな微笑。とても彼女らしい柔らかなもの。

 良治の好きな彼女の顔だ。


「良治さんが本当に私のことを嫌いになることはないと思ってますから。怒ることはあるでしょうけど、近くに置きたくないと思うことはないかと」

「大した自信だよ」


 きっと天音の言う通りだなと思いつつ、表にはそれを出さずに今日何度目かわからない溜め息を吐く。


 天音に悪気はない。それくらいには信頼を置いている。


「私にこんな生き方を教えてくれたのは良治さん、貴方ですよ?」

「俺が?」

「はい。あの時言ってくれたじゃないですか。『潮見は自由だからな。好きに生きるといい。もはや君を縛るものは何もない』って」

「……そんな昔のことをよく覚えてるな」

「当たり前です。だって、あの時私が欲しかった言葉を言ってくれた時ですよ? 忘れるわけないじゃないですか。

 それに――私はその時に貴方のことを好きになったんですから」


 言ったことは覚えている。彼女の言うように忘れられるはずのない出来事だった。


 それは開門士の乱が終わり、良治たちが日常に戻って来た朝のこと。

 通っていた学園の正門を過ぎたところで待っていた彼女に、良治はもう自由に生きていいんだと伝えた。

 それは強制的に組織という鎖で縛られていた天音を開放する言葉だった。


「懐かしいな。あの時はまだ高校生だったなぁ」

「ですね。……今度制服着てみましょうか?」

「是非たの――いやいいや。さっさと寝るぞ」

「はい。……ふふ、残念です」


 何が残念なのか。

 いいように振り回されている。

 良治はとてもとても長い廊下だったなと思いながら自分たちの部屋の障子を開いた。


【宮森家を敵に】―みやもりけをてきに―

成孝の発言。

成孝は確かに現当主の弟でそれなりの発言力はあるが、実際にそうなるかは不明。

良治はハッタリだと判断したが、別に敵に回してもいいとも思っていた模様。

ちなみにハッタリだと判断した理由は成孝の人望のなさを知っていた為である。

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