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蜘蛛との激戦

 黄昏時から闇が支配する時間になりつつある中、良治は葉が完全になくなった木々を縫うように走り出していた。


 目標は背中に赤い斑点をつけた黒い蜘蛛の群れ。どれも大型の犬くらいの大きさで、その姿に怖気おぞけが走る。


「――っ!」


 良治は間合いに入ると同時に、先頭の蜘蛛に右の小太刀を振るう。だが。


「! ち――!」


 固い。蜘蛛の前脚を切り飛ばすつもりで振るった小太刀は傷をつけるにとどまり、すぐに追撃した左の小太刀も逆の前脚に阻まれる。

 手加減をしたつもりはない。腰の、体重の入った確かな一撃だった。

 しかしそれは文字通り足止め以上の効果はなかった。


「く……」


 蜘蛛は一体だけではない。このまま目の前の一体に構ってはいられない。良治は周囲を見ながらひとまず後ろに下がる。

 他の個体が先頭の個体を追い越し、ゆっくりと良治を包囲しようと移動を始めた。


 そちらに注意をした直後、脚に切り傷を負わせた個体の頭が震えるのが見え、良治は何か嫌な予感がして斜め後方に飛びずさった。


「――っ! 鷺澤さん、こいつら毒みたいの吐くから十分に距離を取って!」

「は、はいっ!」


 一瞬前に良治がいた場所には蜘蛛から吐かれた何かの液体がぶちまけられ、異臭と何かが溶けるような音、そして白い煙が立ち込めている。


 正面からの攻略は難しい。そう良治は判断した。

 時間をかければ倒せるだろうが、そうなれば後方の薫に危険が及ぶ可能性は高い。

 手際の良い各個撃破が必要な場面。それも今注目を集めている状況で行うことがベストだ。


「ふっ!」


 近くにあった木を足場に蹴り上がり、最初に相手をした蜘蛛の死角――頭上へ。そして重力に任せて落ちると同時に右の小太刀を逆手に持って蜘蛛の身体に突き立てた。


「ッッッ!」

「ぐ……!」


 蜘蛛が声にならない悲鳴なようなものを上げて暴れだす。

 脚部とは違い柔らかかった背中はたやすく刃を受け入れた。

 だがしかし、刺した場所から噴き出たのは先ほどの毒液と同じものだった。腹部がタンクのようなものになっていたらしく、良治はまるで開封前に振った炭酸飲料のようなものを浴びることになってしまった。


つぅ……!」


 身体の中心で思いっきり体重をかけたので顔にはかからなかったが、両手と身体の大部分に毒液が直撃して焼けるような痛みが走る。背中からぶわっと冷や汗が出る感覚に、死に撫でられたような嫌な感触が走った。


 暴れていた蜘蛛が次第に動きを鈍くし、刺されてから一分もしないうちに完全に動きを止める。思っていたよりも生命力は高くないらしい。そのことに少しだけほっとする。まだまだそんな状況ではないが。


「くっそ、コートが駄目になっちまったじゃないか」


 蜘蛛の死骸から降り、相変わらず周囲を囲んでいる蜘蛛たちに吐き捨てる。数年前に買ってから愛用していたものだけに怒りが込み上げる。


 どうやら蜘蛛たちも現状を認識している気がした。遭遇した時よりも興奮しているようで、仲間が殺されたことを理解してるのかもしれない。

 魔獣の知性はピンキリだが、それだけの知性を持っていてもおかしくはない。

 これが言葉を発し、意思疎通を図れるような知性を持つようになった魔獣を『魔族』と呼ぶ。魔獣と魔族の違いはそこにある。


 次の相手はどれにするか。じわりじわりと囲いを縮めてくる蜘蛛たちに目をやるが、集団での狩りに慣れているようで突出する個体はいない。


(――これは)


 良治の場所からは蜘蛛に囲まれている為、薫の姿は見えない。しかし彼女のいた場所に力が集まっていくのを感じ取った。

 薫は魔術型だったはずなので、術の行使の準備段階。そして時間がかかっているのは撃つタイミングを迷っているのか、それとも――


「――撃て!」

「――我が願いに応じ荒れ狂え! 濁流だくりゅう瀑布ばくふ!」


 洪水のような大量の水が突如出現し、それは凄まじい勢いで囲っていた蜘蛛たちの一部を流していく。

 高らかに唱えたそれは魔術型七級、一人前と認定されるのに必要な『詠唱術』。その威力と規模は詠唱なしの通常の術と比べるべくもない。

 良治は二つの可能性を予想したが、どちらにせよ合図は必要と感じて叫んだ。もっとも、詠唱術の方がありがたかったので助けられたとも言える。


 そして、それと同時に流されなかった蜘蛛たちは一気に動き出した。


 良治はボロボロになってしまったコートを引きちぎるように脱ぐとそれを襲い掛かってきた蜘蛛に投げつける。


「――はっ!」


 コートに視界を防がれた蜘蛛の頭部をコートごと突き刺し、すぐにその蜘蛛を足場にして別の蜘蛛の背中に飛び乗り切り裂く。

 今度は突き刺すのではなく切る方に重点を置き、切りながらすかさず移動して毒液を避ける。致命傷ではないが触れれば一瞬身体が硬直するくらいには痛い。何度も受ければ致命傷になりかねない。

 

 コツを掴んだ良治は蜘蛛の死骸と密集している木を巧みに足場として使いながら次々と蜘蛛を屠っていく。脚と毒液にさえ注意すればそこまでの相手ではない。


 初見の相手はどんな攻撃をしてくるかわからない。それが一番のネックで、まずはそこを潜り抜けなければ死が待っている。

 だがそこさえ乗り切れば、多彩な能力と応用力を有す良治には難敵にはなりえない。


 薫の濁流に流されたのは数体いたが、致命傷まで至らなかった個体が戻ってくるのが見えた。

 良治も既に五体を片付け、包囲は寸断されて意味を成していない。あれらが戻ってくるまでにあと二、三体倒せれば十分に迎え撃てる――そうプランを立て、二体の背中を裂いてもう一度距離を確認すべく視線を飛ばす。


「――そっちか!」


 良治の方へ向かってくる。そう思っていた三体がまるで元々良治の周囲にいた蜘蛛たちを盾にするかのような進路で彼を無視して通り過ぎる。向かう先はもちろん薫だ。直接攻撃したのは彼女なのだから、それも一つの可能性と考えるべきだった。


「時間稼ぎを!」

「はい!」


 包囲は解けているので良治からも彼女の姿は見えている。恐怖で動けないかもなどと思ったが、そこは実戦経験豊富な宇都宮支部長。先頭の蜘蛛の毒液を軽やかに躱し、二体目が振り下ろした前脚も難なく手に持った小刀で防ぐ。そして二体目を押し退けると、三体目を左手から放った水の術で迎撃した。


(さすがだな。多角的な攻撃に問題なく対処してる)


 攻撃される順番とそれに合わせた対応。

 それは良治の行う戦術と一致しており、ある意味良治が優綺に求めるものでもあった。


「っと!」


 彼女に見惚れている場合ではない。

 背後に迫っていた蜘蛛の毒液を危ないところで回転するような動きで躱し、そのまま右側の脚と脚の間に小太刀を突き刺して下に切り裂く。

 その際腕に毒液がかかるが気にしている場合ではない。


(あと二体!)


 体力の限界が感じられてきたところで一気に畳み掛ける。毒液を浴びているので長期戦は得策ではない。それに薫の方も気になる。


「はぁ――ッ!」


 気合を入れ直して左右の小太刀を強く握る。右の小太刀の柄に違和感を覚えてちらりと見ると、柄紐がぼろぼろになっていた。どうやら毒液でやられてしまったようだ。


 だが今はどうしようもない。すっぽ抜けないように再度握り直して様子を伺っていた一体へ走り出す。

 両脚を振りかざしてきた蜘蛛の懐にスピードを上げて飛び込み、柔らかい腹部を二刀の小太刀で真っ二つに切り飛ばす。


 飛び散る毒液を避けながらもう一体を探す。しかし見回しても何処にもいない。視界に入るのは薫が相手をしている三体だけだ。


 いないものは仕方ない。逃がすことは許されないが、先に薫の救援に向かった方がいいだろう。もう一体はそれから二人で探せばいい。


 そう判断して一歩を踏み出した瞬間、良治は何かの気配を感じ取って枯葉のと毒液塗れの地面を転がった。


「っぶねぇ!」


 あの場を離れていなければ頭上から降ってきた毒液を頭から被っていたの間違いない。

 これまでの数多の経験から、違和感を覚えたならまずその場を離れるということを反射的に行えたことが彼の命を救うことになった。


 上を向くと予想通り最後の一体が木の枝の上に陣取っており、もう一度毒液を吐くところだった。

 見えていれば問題ない。それをあっさりと避け、狙いをつける。

 どうやって攻撃しようか。やはりここは近くの木を蹴って飛び上がるのが良いか。


 そう思った瞬間逆に蜘蛛が脚を振り上げながら落ちてくる。

 好機とばかりに身体をずらして脚を避けるとすれ違いざまに腹部を裂く。落ちた蜘蛛はぴくぴくと僅かに動いた後、すぐに動かなくなった。


「――ふぅ」


 これであとはあの三体を残すのみ。

 休憩を入れたいところだがそんな余裕はない。彼女が、薫が待っているのだから。


 木の陰からちらちらと見え隠れする四つの影。

 良治は足音と気配を消して一番手前にいた蜘蛛を背後から斬り捨てる。そのままの勢いで二体目に向かうがさすがに気付かれたらしく、こちらを向いて威嚇するように両脚を掲げてくる。


「はっ!」

「ナイス!」


 その蜘蛛の真横から薫の術が直撃し、大きく蜘蛛の体勢が崩れる。そしてもちろんその隙を見逃す良治ではない。

 毒液を吐こうとしていた蜘蛛の頭部に小太刀を突き刺し、もう片方で胴体を切り裂きながら後ろへ下がる。


 ――これでラスト一体。

 その最後の一体は何処にと見回すと、ちょうど薫が至近距離から蜘蛛を術で吹き飛ばしたところで、吹っ飛んだ蜘蛛はそのまま動かなくなった。どうやら仕留めてくれたようだ。


「お疲れ様です。怪我は?」

「はい大丈夫です……って柊さんの方が酷いじゃないですかっ!」

「あー、あの毒液っぽいの直撃しましたしね。まぁ応急処置くらいなら出来るので大丈夫です。それよりも周囲の確認を」

「……もう。じゃあ急いで確認してすぐに戻りましょう」


 良治のダメージの九割は最初に蜘蛛の背に突き立てた時に浴びたものだ。それ以降は身体を覆う力を増やしていたので大きな被害は受けてはいない。それでも浴びる度に結構な痛みがあったので、並みの退魔士では今回の良治のような強行には出られなかっただろうう。


(と言っても力の総量自体は並みよりも少し多い程度だけどな俺)


 早く帰りたい薫は足早に周囲の探索を開始している。

 良治はまず気になっていた最後の薫が倒した蜘蛛の元に歩いていき状態を確認する。自分で倒していないのでどうしても気になってしまうのだ。自分の目で確認しないと気が済まない、難儀な性格だ。


「……大丈夫か」


 完全に絶命している。

 薫の放った水の塊は正確に頭部を砕いていて、もうピクリとも動かない。良治の杞憂に過ぎなかった。


 最初に倒した蜘蛛の方へ歩いていくと、段々とその身体が空気に溶けていくところだった。

 魔獣は死んで一定時間経つと消えていく。これが魔獣の研究が進まない大きな要因だ。魔族など死ねばすぐに消えてしまうことがほとんどで、生態は何もわかっていないと言ってもいい。


 まだ夕方と言える時間帯だが、もう夜の気配は色濃く、密集した木々の影響もあってかなり視界は狭い。

 蜘蛛の死骸が消えつつあり、歩きやすくはなってきたが長居したいとはとても言えない場所だ。


 この魔獣の発生の原因となった扉の発見は出来ていないが、こういった場合発生した扉は短時間で消えてしまうことが多い。

 特別力の濃度が高い場所でなければ少なくとも数年は発生しない傾向にあり、そういった意味ではこの周囲にしばらくは危険はないことになる。


「こっちは大丈夫そうですー」

「じゃあ撤収しますかー」


 少し離れたところから声をかけられてちょっと間延びした感じになる。それがなんとなく面白くて、やっと戦闘が終わったことを実感した。


 ――そんな、瞬間だった。


「上っ!」

「えっ」


 全身が泡立つとはこんな感覚なのだろうか。


 ほっとした表情で歩いていた薫。その頭上に居たのは大きな、蜘蛛。先ほどまで相手をしていたものよりも一回り以上大きな、まるでこの群れのボスと感じさせる巨大な蜘蛛だった。


 前脚の一本を失っていたその蜘蛛が木からふわりと空中に躍り出ると、重力に引かれるまま薫へと落下していく。


「――あ」


 薫は動けない。驚愕か恐怖か、それとも蜘蛛の赤い瞳に魅入られてしまったのか。


 ――間に合わない。


 結論はすぐに出た。

 良治の現在位置から蜘蛛を迎撃するよりも、落下する方が早い。


(――でも!)


 後先を考えず足に力を込めて跳ぶように走り出す。

 蜘蛛に届かなくてもいい。落下してくる蜘蛛を、薫が攻撃される前に倒すのは不可能だ。なら優先すべきことはただ一つ――


「きゃあっ!」

「が、ぐ……!」


 良治に突き飛ばされた薫が悲鳴を上げて転がっていく。彼女の背中に裂傷が奔ったのが見えたが、あれは浅く致命傷ではない。それは喜ばしいことで、良治はそれだけを優先したので大成功とも言える。


 しかし。


「キシャ……アアア」


 蜘蛛の一本しかない前脚が良治の左腕を貫通していた。

 刺さった衝撃で左の小太刀は落としてしまっている。持っていたところでもうにもならないが。


 痛い。痛い、痛い痛い痛い。

 頭の中がそれだけで埋め尽くされる中、嗤ったような蜘蛛の声に怒りが込み上げる。

 痛みが全て怒りに変わっていく。


「こん、のおおおお!」

「キシャッ!」


 右手の小太刀を顔面に突き刺そうとした瞬間に毒液が吐き出される。

 ――きっといつもの良治ならばそれを避けようとして、なんとか回避していただろう。

 しかし今の怒りに染まった良治に回避の文字はなかった。


「いってえええなぁ、おいっ!」

「キシャ……」


 毒液を浴びることなど考えの外と言わんばかりにそのまま躊躇せずに小太刀を深々と突き立てた。

 しばらくバタバタと脚が動いていたが、良治はそれが完全に動かなくなるまで小太刀を押し込み続け、腕の半ばまで蜘蛛の身体に沈んでいた。


「あ、あの……」

「……ごめん、ちょっと待って」

「は、はいっ」


 恐る恐る近づいてた薫を制止して、ゆっくりと腕を抜きながら呼吸を整える。


(……あ、ダメだ)


 怒りを鎮めながら自分の状態を確認していったが、出た結論は非常に難しいものだった。

 毒液塗れになった良治の身体はもう応急処置の範疇を超えている。小太刀ごと突き刺した右腕など表皮のほとんどが焼け爛れている。すぐに治療をしなければならない酷い状態だった。


 このままだと命を落とす。

 元々自分の命を軽く考えている良治だが、少なくとも今死んでいいとは思っていない。


(まだ何も教えてないからな)


 頭によぎったのは一人の少女。理知的な瞳と、最近年相応の幼さを見せた可愛い弟子の姿だった。


「……鷺澤さん、ごめん」

「え……?」


 意識を失うまで時間がない。一刻の猶予もないと判断し、良治は彼女に謝りながら――それを行った。


 きっと彼女は酷く不快になるだろう。良治のことを嫌いになるだろう。もしかしたらここで彼女に殺されるかもしれない。


 だがそれでも命を繋ぐ可能性に出なければ、今この場にいない彼女に、彼女たちに怒られてしまう。


「あ……え? なんですか、それ……」


 黒髪から白髪へ。黒い瞳から金色の瞳へ。

 姿の変化した良治に薫の言葉が宙を漂う。


「まさか……魔族?」


 嫌悪と驚愕の入り混じった声に、良治は。


「……ああ、そうだよ」


 少しだけ落胆した声で答えた。




【蜘蛛の魔獣】―くものまじゅうー

今回栃木県男体山で目撃された魔獣。その姿は大型犬サイズがほとんどだったが、ボスとみられる一体は更に一回り大きなものだった。

触れたものを溶かす毒液を体内に大量に貯めこんでおり、口から吐く以外にも身体を傷つけられた時の防御機能も兼ねている。

ボスの個体は魔族に近しい知性を持つ知性体だった可能性も。

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