本来の仕事
「お疲れ様」
「おつかれ、お邪魔しますー」
「お、お邪魔しますっ」
上野公園での訓練を終えて三人が帰宅したのは午前四時。
まだ夜明けは遠いが五時くらいになればジョギングの人も出てくる。優綺のスタミナもかなり厳しそうだったのでちょうどいい時間と判断してこの時間の帰宅となった。
「あー、疲れた」
「結那だらしない」
「えーいいじゃない。疲れたんだもの」
「まったく」
当然のようについてきた結那に苦笑する。最初からここまで来るつもりだったらしい。送り迎えをしてくれた手前断るのも悪い気がして強く言えなかった。
「優綺、先にシャワー浴びていいよ。着替えは持ってきてるよな」
「はい、持ってきてますけど私は最後で」
「年下が気を遣うもんじゃない。先に入って」
「……はい、ありがとうございます」
とてとてと荷物を部屋から持ち出して脱衣場に歩いていく。
それを見送ってふと振り返るとにまにました結那が近づいてくる。
「で、どうだったの優綺は」
「どうと言われても。まだ訓練は始まったばかりだしな」
「そーだけどさ」
まだ基礎の基礎、体力作りと型の段階だ。結果を求める状態にすらなっていない。しばらくはこれを続けることになるだろう。
「良治のことだからいろんな技術を教えるのかなって」
「技術って。まずは基礎からだよ。それが出来てからじゃないと、覚えた技術がどんな時に有効で、どんな時に弱点を曝け出すかわからなくなる。それに小手先の技術に頼って、それが破られたら基本に立ち返ることも出来なくなる。基本っていう中心の柱が強固でないと劣勢になった時に崩れやすくなるから」
「あー……確かに。基礎は大事よね」
「結那だって今でも基礎訓練はやってるだろ?」
「うん。なるほど、納得したわ」
大成した者には理解できるが、基礎訓練は非常に重要なものだ。しかしその内容は地味で厳しい。それに耐えきれなくて先に進むと後で痛い目にあうか、応用技術が身につかなかったりしてしまう。
その観点から見ると優綺は真面目に、不満も言わずにこなしてくれているので先行きは明るい。真面目にやった分基礎訓練に割く期間は短くなるだろう。
「あとは座学だな。本当なら明日起きてからやりたいと思ってたんだけど」
シャワーを浴びた後睡眠を取って昼くらいから座学をと思っていたのだが良治の左手の状態は酷い。病院に行くつもりなので諦めなくてはならなそうだ。
「東京支部に行くのも、翔さんに来てもらうのも嫌なのよね?」
「ああ。まぁしっかり固定してもらえば一週間くらいでどうにかなるだろうし、問題ないよ」
怖いのは変なくっつき方をしてしまうことだ。ちゃんと固定さえ出来れば、あとは良治の治癒術でなんとかなる。ただそれでもすぐに治せるほどの技量はない。良治本人の見立てでは完治に一週間かかると思っていた。
「うーん……じゃあ私が知り合い呼んであげようか? そうすれば座学も出来るんじゃない?」
「まじか。それなら嬉しいけど」
「おっけー。じゃあメールしておくわね。ただまだ寝てるだろうし、連絡が着次第の対応になるけど大丈夫?」
「ああ。もし遅くなるようでも座学やりながら待ってればいいし。助かるよ結那」
「どういたしまして。……じゃあ今夜は――」
「それは駄目」
「なんでっ!」
「なんでじゃないよ」
「むー」
協力したのにこの仕打ちは酷いとでも言いそうな不満そうな表情。しかしこの展開を予想していた良治は言い終わる前にばっさりと切り捨てた。
「あのな、今日は優綺もいるんだ。俺は前の布団でこっちの部屋で寝るから、二人は俺のベッドで寝てくれ」
「えー。じゃあ三人で寝ましょうよ。それならいいでしょ?」
「いいわけあるか。問題しかねぇよ」
良治の購入したベッドはダブルサイズなので十分な広さはある。
しかし寝られる広さがあるからと言って良治と結那、優綺の三人で寝るのは問題がある。
「何が問題なのよ」
「まず俺はそういう関係じゃない女の子と寝るのに抵抗がある。そして結那と一緒に寝たら絶対にそういうことをしてくると思ってる」
結那が泊まった日は必ずしている。率先して行動してくるのは結那の方で、しないと決めた日でも結局我慢出来なかった結那が行動を起こしていた。このことに関して言えば結那に信用はない。
「じゃあ私と良治がベッド、優綺が布団でいいじゃない」
「することは否定しないのな……。それでも駄目。壁薄いから絶対にバレる。更に言うなら結那めっちゃ声出るから」
「……う」
声が出ると指摘されて言葉が詰ま結那。顔が赤いのは珍しく恥ずかしくなったせいか。
そんな彼女を見るのもわるくない。というかとても可愛い。
「……まぁそんなとこだ。そういうのはまた次の――っ!」
「なんか……もう我慢できないんだけど」
「ぷは、お前は……。優綺が出てくるまで、キスまでなら」
「ありがとっ!」
「むぐっ」
次の機会と言い終わる前にキスをされ、許可を出した瞬間に二度目。完全に発情している。
良治としても優綺がいなかったら間違いなくことに及んでいた自覚はある。恥ずかしそうな可愛い結那を見たらそういう気分になってしまった。仕方ないとも言える。
結局脱衣場の扉が開く寸前まで、二人は抱き合ってキスをしていた。
「ん……」
良治は隣のリビングから聞こえるインターホンの音で目を覚ました。
いつもと違う、と言っても少し前まで使っていた薄めの布団。もちろん一緒に寝る相手はいない。
ぱたぱたとした足音と声が聞こえて誰かが対応するのがわかった。この声は結那だ。きっと寝る前に言っていた知り合いが来たのだろう。
枕元に置いた携帯電話を確認すると時刻は十時前。寝たのは五時過ぎだったはずなのでおよそ四時間半の睡眠だ。
まだはっきりしない頭だが、それでももう起きなければならない。自分の為の来客を待たせるわけにはいかない。
「あ、おはよう良治。もう来ちゃったけど大丈夫?」
「おはよ。大丈夫、ちょっと顔洗ってくる」
手早く寝巻から着替え部屋を出て、予想通り起きていた結那に挨拶をしてから洗面所に向かう。
結那は眠そうには見えず、インターホンで起きたわけではなさそうだ。彼女はショートスリーパー気味なので十分に睡眠は取れたということだろう。
再度インターホンが鳴り、部屋の扉が開くのと洗面所の扉が閉まるのはほぼ同時だった。
結那と誰かが話をしているのはわかるがその内容まではわからない。しかし微かに聞こえる声から相手は女性のようだ。
初対面で失礼があってはまずい。いつも外出する前に行う身嗜みをスピーディーにこなし、最後に鏡でチェックする。
「すいま……え?」
「あ、おはようございます。お久しぶりです!」
すいませんお待たせして。そんな言葉を用意していた良治の言葉は止まり、目の前の少女は元気よく挨拶をしてきた。
おかっぱの小柄な少女。見ようによっては小学生にも見えそうだ。綾華や祐奈に並ぶ背の低さだが、彼女が一番年下なのでまだ希望はある。
「おはよう、蒔苗さん。この間はありがとう」
「いえそんな、私の方こそ助けていただいてありがとうございます」
「で、結那。わざと言わなかったな?」
「たまには驚かせたいなって。それに聞かれなかったし」
「まったく」
普段の良治のようなことを言ってとぼける。
まさか宇都宮支部の医術士、宮森蒔苗だとは。
勝手に結那の知り合いの医者か何かだと思っていて深く聞かなかった自分にも非はある。良治は諦めながら溜め息を吐いた。
「それで早速見せてもらっても?」
「ああ、お願いします」
椅子に並んで座り左手を見せる。
昨日シャワーの後、優綺から借りた鉛筆を使って添え木代わりにして包帯で巻いてある。普通のペンなどでは長すぎるので優綺が半分ほど使用していた鉛筆を持っていてくれて助かった。
このご時世鉛筆を使用している学生も少ないというのに。
「応急処置は大丈夫ですね。じゃあじっとしていてください」
「了解」
両手で手の上下挟まれ、じんわりとした温かなものに左手全体が包まれると同時に痛みが引いていく。
昨日からずっとズキズキとしていたのだが、それが見る見る間に治まっていった。さすが宮森家の治癒術だ。
最近京都支部で会った人物のせいで印象が悪くなっていたが、やはりこの治癒術は素晴らしいものだ。
「それにしてもこんな急ぎで来て貰って申し訳ないですね。遠いのに」
「いえいえ。柊さんの為なら夜中でも。結那さんからの連絡に気付いたのが朝だったのが残念でした」
「十分早かったですよ」
「そうですか? それなら良かったですけど」
良治が起床する前に来てくれたので、それでもう十分過ぎる早さだ。
「そういえばあれから宇都宮支部はどうですか。何か変わったこととか」
このまま黙ったままなのも居心地が悪いので、彼女の所属する宇都宮支部について尋ねてみる。
最後に立ち寄ったのは奪還作戦の時。霊媒師同盟襲撃事件の際に被害が出ていたので気になっていた。
「支部員は減っちゃいましたけど何とかなってます。薫さん……鷺澤支部長も頑張ってますし」
「そっか。なら良かった。何かあったら言ってくれって鷺澤さんに伝えておいて」
「はい、ありがとうございます。伝えておきますね」
今の良治はそれなりに手が空いている。
優綺の訓練はあるがそれは彼女が都心に引っ越してくるまでは週末だけだ。
平日は趣味の麻雀をしたり訓練のカリキュラムを作成したりしているが、時間の融通はつきやすい。
「良治はホント女の子には優しいわよねぇ」
「俺がいつも色んな女の子に同じこと言ってそうな印象操作はやめろ。蒔苗さんにも鷺澤さんにも世話になってるからだから」
「そうだけど。……そういう優しいところで勘違いするコもいるんだから」
「いやさすがにないだろう」
「祐奈さん」
「うっ」
ついこの間の話を持ち出されて詰まる。
もしかしたらそういうところが原因かもしれない。そんなことを考えたことがあったからだ。
優しいことは美徳だが、それも相手と程度が大事だと良治は感じ始めていた。
「あ、その話聞きたかったんですよ。その、祐奈さまとの縁談を断ったって本当ですか?」
女子高生らしいキラキラとした瞳で聞かれるが、それは良治にとってかなり話したくないことだ。
「本当だけど、あまり触れてほしい話じゃないかな。俺にとっても祐奈さんにとっても嬉しい話題じゃないから」
「あ……そうですね。ごめんなさい」
「わかってくれればそれでいいよ」
「そーよ。気を付けてね」
「……失言の多い結那には言われたくないと思うけど」
「ひどっ! ……あ」
結那が大袈裟に驚くと同時に良治の寝室の扉ががちゃりと開く。
「あ……おはようございます」
「うん、おはよう優綺。顔洗ってきな」
「はぁい……って、確か……」
そこで初めて蒔苗が来ていることに気付いた優綺が慌てだす。一気に目が覚めたようだ。
「あ、東京支部でお会いしましたよね。宮森蒔苗です。柊さんの治療でお邪魔させてもらってます」
「あ、なるほど……えっと、東京支部の石塚優綺です。すいませんこんな格好で」
優綺の姿は彼女が持参したピンク色のパジャマだ。とても可愛いが来客の前に出る恰好ではない。パジャマ姿で恥ずかしそうに挨拶をする優綺に思わず笑みが零れる。
「っ! き、着替えてきますっ!」
顔を洗って来いと言ったのにそのまま部屋に戻ってしまう。良治が思った以上に恥ずかしかったようだ。
「良治が笑うから」
「ええ……? いやでも可愛かったじゃないか」
「それには全面的に同意するけど。それでも恥ずかしいものは恥ずかしいんだから」
「……気を付けるよ」
普段そういうことに頓着しない結那に言われては仕方ない。今後は気をつけようと少しだけ反省する。年頃の女の子は難しい。
「柊さん、左手以外は大丈夫なんですか」
「大丈夫ですよ。細かい傷は自分で治せるんで」
「そういえばそうですね。……あ。ちょっとすいません」
「どうぞ」
CMで聞き覚えのあるメロディが鳴り、蒔苗がバッグから携帯電話を取り出す。赤い蛍光色で派手な色だ。今までのイメージとは少し違うが、彼女も今頃の女子高生ということだろう。
手を離して立ち上がり、玄関の方で電話に出る。
その間に手の状態を確認するがもう痛みはない。ただ痛みがないからと言って完治しているわけではない。激しく動かせばまたぶり返してしまう。
「どう?」
「ん、もう大丈夫だな。あとは無理せず過ごしながら自分で治癒術使ってれば数日で治りきると思う」
蒔苗が席を外し、様子を見ていた結那が近寄ってくる。
「さすが蒔苗ちゃんね」
「ああ。それと結那もありがとな。呼んでくれて」
「どういたしまして」
良治の頭には蒔苗を呼ぶ、宇都宮支部に行くという選択肢はなかった。なので確実に良治の予定より早く治ることになる。このままだと年末までギプスをされていたかもしれない。
「それに良治の為だけってわけじゃないから」
「どういうこと?」
「だって怪我したままじゃその、出来ないじゃない?」
「……なんかさっきの感謝を返してほしくなってきた……けどまぁいいや。結那らしい気がするし」
「えへへ」
「決して褒めてないからな?」
「わかってるわよー」
そんな会話をしていると電話を終えた蒔苗が戻ってくる。悪い知らせだったようで暗い表情だ。
「どうしました?」
「その、すいません。ちょっと支部で怪我人が出たみたいで戻らなきゃならなくなっちゃって」
「ああ、それは仕方ない。すぐに戻った方がいい」
「中途半端でごめんなさい……」
申し訳なさそうに蒔苗は言うが、これだけでもう十分すぎる治療をしてくれたのだ。良治に不満は何もない。
「ちなみに詳細は聞いても?」
「あ、はい。いつもの巡回の途中で魔獣に出くわしてしまったみたいで。これから魔獣の討伐準備に入るみたいです。私は怪我人の治療で支部に詰めないといけなくて」
数年前の事件から時折魔界との扉が開くことがある。それを防いだり、そこから出現する魔獣や魔族などの討伐は今の白神会では大きな仕事だ。一番の仕事と言ってもいい。
扉は開いてもさほど長い時間そのままというわけではない。放置していても一日もすれば勝手に閉じて消えてしまう。
それは開きっ放しに比べればとてもいいことなのだが、扉が一定時間で閉じるということはそこから現れた魔獣なども帰る手段がなくなるということだ。そして魔獣は基本的に人間を襲う傾向にある。それを阻止するのが退魔士の仕事だ。
「そうだな……良ければ手伝うよ」
「え?」
「この怪我の治療のお返しってことで。手は足りないと思うし」
宇都宮支部は現在六人ほどしか在籍していなかったはずだ。そしてその中の一人である蒔苗は戦闘向きではない。
そして怪我人が出ている。そうなると実際討伐に参加する人数は限られるはずだ。
「え、いいんですかっ」
「お礼はすぐにしたいですし、何よりこういう時の為に俺はいると思ってますから」
手が足りない場所の仕事を手伝う。それが良治が白神会に戻った時自ら出した提案だ。
そして借りは出来るだけ早く利子が増えないうちに返しておきたい。
「ありがとうございます!」
「うん。じゃあ早速行こう。一般の人に被害が出ないうちに何とかしよう」
「はい!」
蒔苗が良治の手を両手で掴んでぶんぶんと振る。よく見ると涙ぐんでいて、それだけ嬉しかったようだ。
「じゃ、私も――」
「結那は駄目」
「なんでよっ」
「なんでもなにも、今夜お前は仕事があるだろうに」
「あ」
結那は今夜仕事がある。だがどうやら本人は忘れていたようだ。
良治と違い普通に支部に所属しているので、基本的には忙しい身だ。良治の記憶では正吾と二人で神奈川方面の仕事があったはずだ。
「あと優綺も東京支部に戻って。座学できなくて申し訳ないけど」
「あの、私も一緒に行くことは……?」
「まだ半人前の優綺を実戦には連れていけないよ。差し迫った危機でもないから」
「……わかりました」
東京支部襲撃時は支部にはいたが前線で戦闘に参加したわけではない。
実戦経験は何にも代えがたい貴重なものではあるが、それでもまだまだ実力不足だ。それに白神会としても第七位階級未満の退魔士の仕事への参加は推奨していない。
「もっと強くなったらな」
「う……はい!」
良治が昔この階級制度を取り入れようとしたことの理由の一つに、実力の不足している退魔士の実戦での死亡者が多かったこともある。階級制度を入れれば退魔士の実力をある程度測れるし、それを理由にして仕事を振らないこと、任せないことも出来るようになるからだ。
未熟な者、それも年若い者が自分よりも先に死んでしまうのは特に心が痛んでしまう。それを少しでも避けたかった。
「よし。じゃあ蒔苗さん、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、喜んでっ!」
蒔苗の満面の笑みに、良治は手伝いを申し出て良かったと思えた。
「……また増えそう」
後ろで聞こえた結那の呟きは聞こえないふりをした。
【ホント女の子には優しい】―ほんとおんなのこにはやさしい―
周囲の女性たちが思っていること。特にとある三人は諦め気味である。
本人はこの優しさが女性を惹きつけていることをほんの少し理解しているが、結局そういう場面になると優しくしてしまうことを自分でもどうかと思っていたり。
今後周囲に好意を持たれる女性が増えるかどうかは秘密。




