空間転移
「――改めて条件を確認してもよろしいでしょうか、主様」
「ああ。構わないよ」
夜も深まった上野公園の開けた場所で良治は頷きながらそう答えた。
尋ねてきたのは昨日から上野支部所属になってしまった黒装束の江南朱音だ。彼女は基本的にこの忍者スタイルで過ごしている。今はフードを後ろに垂らしており、童顔な素顔が晒されていた。
「自分と一対一の模擬戦。相手がギブアップ、気絶、そして立会人が戦闘続行不可能と判断したら勝利。扱う武器に制限はない」
口にするのは模擬戦におけるよくある勝敗条件。そして彼女が確認したいのはここではない。更にその先を続ける。
「朱音が勝利した場合、自分と同じ家に住む権利を。自分が勝った場合はこちらの指定する住居に住むこと。これでいいね?」
「……はい。確認致しました」
「うん。……じゃあ薫さん、お願いしますね」
「は、はいっ」
勝負を決した後の報酬を確認し、背後で緊張していた立会人に話しかける。きっとこんなことを頼まれるとはまったく考えていなかったであろう。少しばかりの罪悪感と、彼女の困った顔に僅かながらの悪戯心が混在する。
ぶっちゃけた話、良治は彼女を、朱音を説得する方法を思いつかなかった。そうなれば次に来るのは実力行使となる。
しかしただの暴力行為となると彼女は納得しないし、彼女を東京に寄越した二人も納得しないだろう。それに何より弟子たちに不満を抱かせる可能性が高かった。これだけはまずい。
そして思い至ったのが模擬戦だ。当然負ければ相手の条件を呑むことになるが、それはこちらの条件を押しつける当たり前のリスクだ。
模擬戦を行うにあたって大切なのは立会人の存在だ。彼女が潔く敗北を受け入れないとは思っていないが、彼女を知っていると言えるほど良治はまだ彼女を知らない。対戦相手から言われるよりも第三者が言う方が納得がいくだろう。
「応援はしなくていいけど、ちゃんと見ておくようにね」
「……はい」
「はーい」
少し離れた縁石上に立つ弟子たちに声をかける。優綺は微妙な表情、郁未は何も考えてなさそうな表情でそれぞれ返事をした。
(まぁ仲良いみたいだしどちらを応援したらいいのか微妙なんだろうな)
昨日知り合ったばかりだというのにもう数年来の友人かのように仲良く話をしている場面を見ている。人見知り気味の優綺も積極的に話をしていたので、何か共通点を見出したか、それとも死地を共に超えた一体感があるのだろうか。少なくとも朱音の方に話しやすさは感じない。郁未はある意味通常運転なので気にしていない。
「じゃあ準備はいいかな」
「はい。いつでも」
アスファルトに舗装された道で対峙する。距離は十五Mほどだろうか。良治は転魔石で木刀を喚びだした。
「いいのですか、木刀で」
「ああ。そっちは遠慮しなくていいから」
「お言葉に甘えて」
朱音はそう答えたが手には何もない。おそらく勝負が始まってから転魔石で喚びだすのだろう。その方が相手に対応されにくく、更に接近してからなら走るのに邪魔にならない。合理的な考え方で、とても黒影流らしいと言えた。
「お二人ともよろしいですか?」
「ええ」
「はい」
思考を戦闘に集中する。一瞬で場が緊張感に包まれた。
「では――はじめっ」
声の余韻が消える前に朱音が前傾姿勢で駆け出す。街灯はあるものの黒一色の衣服は闇に紛れ距離感が測り難い。
「っ」
一瞬の戸惑いの間に黒塗りの刃が伸びるように良治の心臓目がけて突き出される。予想はしていたのでなんとか弾くが、それでも目で捉えにくかったこと、最短距離を迷いなくいく刺突、伸びるような速度と、どれも一歩間違えれば心臓を貫かれていた可能性があった。
「手加減はやはり必要ないですね。医術士の方もいますし」
「そうだけどッ!」
良治の間合いの僅かに外で納得したようなことを言うとすぐさま再度刃を手に突っ込んでくる。会話をしようとした良治の虚を突く形になるが、先ほどよりは余裕を持って、狙い通りに弾く。
しかしそれも彼女の予想の範疇だったのだろう。バランスを崩すことなくその小さな身体を一回転させ音もさせずに着地する。そして後方に飛んで一気に距離を稼ぐ。最初の位置から少し近いくらいの場所だろう。
武器としての間合いは良治に分がある。しかし攻撃速度としては朱音の方だ。この暗がりの中、正確に間合いを測り先手を取るのは骨が折れる。相手は間違いなくそこを突こうとしているのだから。
(さて仕切り直しか)
再度駆け出したのを見て木刀を構え直す。先ほどと変わらぬタイミングなら今度は切り返してみせる。
しかし朱音は微妙に速度を何度も変えこちらの予測していたタイミングを外してくる。更に間合いまで数歩というところで大きく右に回り込んで来て――消えた。
「ッ!?」
確かに直前までそこに居た。走っていた。視線もこちらに向いていた。
だが今そこに朱音の姿はない。
「――ッ!」
「これを、避けますか。さすがですね」
思考を放棄して全力でアスファルトの地面を前方に転がった。体勢を整える間もなくすぐさま振り返ると、数瞬前まで良治が居た場所には朱音が居た。
(膝を曲げた状態……縦、下に向けた短刀。……背後から? 上から、頭上からの攻撃? ……まさか!)
朱音はスッと立ち上がるとさっきと同じように回り込み――そしてまたしてもその姿を消す。
それを見て良治は頭上を――見ずに木刀を横に薙ぎながら回転して背後をケアする。
「良い読みですね」
「そりゃどうも」
朱音は木刀を短刀で受け止めながらニコリともせず褒める。
(今度は右、逆回転だったら隙だらけの脇腹ぐっさりだったかもな)
同じ事は繰り返してこない。ミスをしたのなら尚更と判断して背後からの攻撃を予測したのだがそれは外れた。この形になったのは偶然だ。
突如消えてから死角からの攻撃。
これは黒影流特有のもので、それは黒影流の持つ魔道具《黒い数珠》がもたらす空間転移、瞬間移動能力だ。
(長くて二十M程度。だがそれだけじゃないはずだ)
実際に見るのは黒猫が使うのを見ているのでそう昔のことではない。しかしこうして戦闘で使う、黒影流を相手に使われるのは初めての経験だ。厄介なことこの上ないのを体感する。
「っと!」
予備動作なしで懐から投げ放たれた黒塗りのナイフを弾くと同時に立ち位置を右にずらす。直後にナイフを投擲した瞬間に姿を消していた朱音が上から短刀を振るいながら落ちてくる。――予想内だ。
(なるほど。見えてきた、かな)
空間転移は非常に効果的で有効な能力だ。場合によってはなんの手掛かりも得ることなく、何が起こったのか理解さえ出来ぬまま殺されてしまうこともある。連続で空間転移を行われてしまえば良治と言えどいつかやられてしまうだろう。
(だがそれをしない。ならそれは――出来ないということ。そしてあと一つ)
昔影から影へ移動する能力を持った魔獣と戦った経験がある。
その魔獣は常に背後に出来た影から出現し攻撃を仕掛けてきた。死角の中で一番対処が難しい場所。それは知能があれば当然のことだ。
(空間転移をするなら背後が一番いい。一度もだ。これは確実におかしい。これもしないのではなく出来ないということだろう)
背後には転移出来ない。そんな限定的な条件があるだろうか。
「――ッ!」
「く……!」
幾度目かの空間転移からの攻撃を転がって避ける。消えた瞬間にその場を離れればそうそう攻撃をくらうことはない。ぽたりと朱音の顔から汗が落ちたのが見えた。
(体力面が限界か? 空間転移は力を使い過ぎる? いや単純にこの蒸し暑さが原因か?)
気温が下がったとはいえ未だ八月の熱帯夜。身体を動かさずとも汗が噴き出る暑さだ。良治も額に汗が珠のように張り付いている。
体力が落ちてきたからか、こちらをじっと見つめて様子を伺う朱音。良治もそろそろ攻守交替のタイミングかと彼女の動きを観察する。
「っ!」
朱音の視線が僅かに動いたタイミングでまたも姿が消える。良治は彼女の視線の先から離れるように跳び、背後の様子を確認した。
――案の定、朱音はそこに居た。
(視線の先に転移した。つまり……視界内にしか転移出来ない。これか! だから身体が邪魔な対象の背後には転移出来ないのか!)
これなら彼女が最初に良治の頭上に出現した理由も当たりがつく。頭上は背後の次か、もしくは同じくらい対応が難しい場所だ。初手で不意打ちをするのにそこが一番効果的だったのだ。
「――さて、そろそろ反撃開始といこうか」
「む……!」
余裕の笑みを浮かべた良治にカチンときたのか、初めて朱音から敵意が伝わっていく。戦闘をしてはいても殺気や敵意などなかったのに。
(疲労が濃いな。タイミングとしてはベストか)
更に余裕を深くし、初めて良治は先手を打つべく駆け出した。
【空間転移】―くうかんてんい―
ある場所から指定の場所へ瞬時に移動すること。
黒影流の者は黒い数珠のような魔道具を使うことでこれを行っている。
人間には出来ないとされている空間転移だが、力のある魔族なら行える者もいるようだ。




