90.微妙な距離感
アイリスは帰城後、真っ先にローレンにすべての事情を説明した。そして、アベルを呼んでもらい、ゾーイの容貌を確かめてもらったのだ。
予想はしていたが、やはりゾーイが十年前に起きた先王一家殺害の犯人だった。今は記憶を消され、もはや廃人同然となってしまったゾーイを見て、ローレンもアベルもなんともやるせない表情を浮かべていた。責めるべき相手がこんな状態では、感情の行き場も失ってしまうだろう。
ローレンは、今さら過去の事件を蒸し返して大事にするつもりはないとして、ゾーイのことは秘密裏に処刑するという判断を下した。魔族との共存を望むローレンも、罪の処罰は人間の法に則って決めるようだった。
一方のアベルは、ローレンの決定に酷く不服そうな顔をしていたが、特に申し立てをするわけでもなく、ただ国王の指示に従っていた。
そして、今。
アイリスは寝台の枕元に座りながらローレンが来るのを待っていた。
諸々の処理に追われているのか、いつもよりもだいぶ遅い時間になっても彼は現れなかった。その後、日付が変わるかどうかの時間になって、ようやくローレンが寝室にやって来た。
「まだ起きていたのか。遅くなってすまない」
「いえ……。陛下は、大丈夫ですか?」
「……ああ」
アイリスにそう返事をしたローレンは、酷く疲れた顔をしていた。そして、今日はいつものように読書はせず、そのまま寝台に横たわった。
ローレンは疲れを吐き出すようにひとつ大きな息をつくと、枕元に座っているアイリスを見上げながら声をかけてくる。
「それよりも、魔族に狙われているお前の方が心配だ。しばらく魔物討伐の依頼は控えろ。王都から出ないほうが良い」
(こんなときにまで、私の心配なんかしなくても……)
自分の家族を殺した相手が急に現れて、しかもその相手はもう話ができないほどの状態になっている、だなんて、そうそう気持ちの整理などつかないだろう。精神的に疲弊していないほうがおかしい。
アイリスは、そんな彼に険しい表情を向ける。
「……もう少し、ご自分の心配をなさってください。私を捕えようとした魔族の本当の狙いは、この国かもしれないんですよ? 陛下の身に危険が及ぶ可能性だって、十分にあるんですから」
「ああ。全く……厄介な奴が出てきたものだ」
ローレンはそう言いながら大きく溜息をついていた。そして、彼が徐にアイリスの頬に手を伸ばそうとした、その時――。
『お前はあの王様に良いように利用されてるだけなんだよ』
不意に例の魔族から言われた言葉を思い出し、アイリスは思わず顔を逸らしてしまった。
ハッとしてすぐに視線を戻すと、ローレンはわずかに驚いたような表情をしていた。そんな彼を見て、アイリスは何かを誤魔化すように慌てて言葉を紡ぐ。
「へ、陛下もお疲れですし、もう寝ましょう」
「……ああ」
微妙な空気が漂う中、二人は眠りについたのだった。
***
アイリスがパチリと目を開けると、そこには雲一つない青空が広がっていた。周囲に目を向けると、澄んだ湖の周りに色とりどりの花々が咲き誇っている。
その光景に、アイリスはすぐにこれが夢だと悟った。
(でも、龍王ヘルシングの夢の中とはまた違う……一体誰の……?)
そう疑問に思った瞬間、その答えがよく知る声で返ってきた。
「これは、恵みのライラの夢の中だ」
「陛下!? それにライラも!?」
アイリスが振り返ると、そこには少し疲れた顔をしたローレンが佇んでいた。そしてその隣には、桃色の髪に白いワンピースを身に纏ったライラが微笑んでいる。
驚いた表情のアイリスに、彼女は小さく手を振りながら声をかけてきた。
「ふふっ。久しぶりね、アイリス」
「これは……どういう……?」
「今日のことで、ちょっと話があってね」
その言葉に、アイリスの心臓がドクンと跳ねた。『今日のこと』というのは、アイリスたちが魔族に襲われたことを指しているのだろう。
するとライラは、眉根を寄せながら言葉を続けた。
「魅惑のゾーイを乗っ取ってあなたに接触してきた魔族は、おそらく『道化のエリオット』だと思うわ」
「――……!! 道化のエリオットって……師匠が絶対に関わるなって言ってた大魔族だわ……」
魔族のまさかの正体に、アイリスは険しい顔で言葉を漏らした。
師匠曰く、道化のエリオットは『性格が捻じ曲がっており、執念深くずる賢い奴』らしい。その時は散々な言い様だと思っていたが、今日実際に会って、師匠が彼を毛嫌いしている理由がよくわかった。
そしてライラは、困ったように眉を下げながら説明を続ける。
「彼は精神操作系の魔法が得意でね。それなりに魔力量も多くて、結構厄介なのよ」
精神操作系の魔法は、術者と相手の魔力量の差が大きければ大きいほど効きやすいという特性がある。
もちろん、相手との相性や、相手が効きやすい体質かどうかなどの要素もあるのだが、四大魔族であるライラに「それなりに多い」と言わしめるということは、エリオットは相当な魔力量の持ち主なのだろう。魅惑のゾーイを乗っ取れるのも納得だ。
アイリスが険しい面持ちのままそんなことを考えていると、ライラはひとつ溜息をついてから続けた。
「彼がどこまでの事件に関わっているのかはこれから調べるけど、ちょっと難航すると思うわ」
その言葉に、今まで難しい顔をしながら聞いていたローレンが質問を投げかける。
「お前の情報収集能力を持ってしてもか?」
「彼はとっても用心深い人物でね。滅多に姿を現すことがないの。基本的には自分はどこか安全な場所に隠れていて、誰かを遠隔で操作しているのよ」
ライラの返答を聞いたローレンは、眉間の皺をさらに深くする。
「なるほどな。だが、奴がアイリスを捕えようとする理由はなんだ? この国とオズウェルドを潰すために、その両方に関わるアイリスを利用しようというわけか?」
「その可能性が高いんじゃないかしら。私がアイリスを守ってるって知って、殺害から誘拐に方針を変えたんでしょう」
二人の会話を聞いて、アイリスは頭からゆっくりと血の気が引いていくのを感じた。
(私に何かあれば、皆に迷惑がかかる――)
そう考えると、今の事態が余計に恐ろしく思えた。自分が狙われるだけならまだしも、それが周囲に多大なる影響を及ぼしかねないのだ。
アイリスが表情を暗くして二人の会話を反芻していると、ローレンの発言の中でふと何かが引っかかった。
(――ん? ちょっと待って……)
アイリスの中でどんどんと違和感が大きくなり、彼の発言を何度も心の中で繰り返してようやくその正体に気づいた。




