85.嫉妬
闘技大会の日の晩、アイリスは読書をするローレンの隣で横になりながら、いつものように彼と話をしていた。
「陛下。今回は闘技大会に出場させてくださって、ありがとうございました」
「いや、構わん。仮面の魔法師の評判もさらに上がったことだしな」
そう言うローレンは、不意に本から視線を上げアイリスを見遣ると、珍しく思い出し笑いをした。
「だが、お前の本気があれほどとは思わなかった。サラもあれには勝てないと苦笑していたぞ」
「ふふっ。お褒めに預かり光栄です」
闘技大会の後、アイリスはレオンやサラからも称賛の言葉を受け取っていた。特にレオンの興奮は凄まじく、落ち着かせるのに苦労したものだ。また、今後は対魔族戦や対魔法師戦を想定してアイリスと手合わせするのも良いかもしれないと、三人で話をしていた。
ローレンにも褒められ少し調子づいたアイリスは、いつも心配性の彼にこう言った。
「でも、これで少しは安心できましたか? 流石にグランヴィルには勝てませんでしたが、よほどの相手でなければ負けませんよ」
「それとこれとは話が別だ。お前はすぐに無茶をするからな」
アイリスの言葉を聞いたローレンは、わずかに眉を顰めながらそう返した。
これまで何度か彼に心配をかけてしまっているアイリスは、何も言い返せず口をつぐむ。彼から心配されないようにするためには、やはりまだまだ実績が足りないようだ。
少しシュンとしていると、ローレンがアイリスの髪を徐に掬い上げた。
「そういえば、仮面の魔法師のときに髪を上げているのは珍しかったな。つけていたリボンも似合っていた」
「ああ、あれですか? なぜかルーイに勝手に結われて……。あのリボンも、ルーイからもらったものなんですが」
「ほう……?」
ローレンは目を眇めてわずかに眉根を寄せた。アイリスも当時のことを思い出して苦笑する。
「何かよくわからないことを色々と言われましたが、多分私をからかっていただけだと思います。本当に掴みどころのない人ですよね、ルーイって」
「なんと言われたんだ?」
「ええと……旦那様に嫉妬させよう大作戦、とかなんとか言ってました。これでどうして陛下が嫉妬すると思ったんでしょうね。何に対しての嫉妬なのかも謎ですし」
アイリスが苦笑しながらさらにそう言うと、ローレンは激しく渋面になった。そして彼は、大きく溜息をついてからポツリとつぶやく。
「……あいつとは少し話をする必要がありそうだ」
「?」
ローレンの反応に首を傾げていると、彼はアイリスの髪に触れながら少し顰め面になって言う。
「だが……あまり俺以外の男に触れさせるな」
「そ、それは、大変失礼いたしました……! そうですよね、王妃の品格に関わりますものね……」
よく考えれば、夫以外の男性に不用意に髪を触らせるなど、あまり褒められたことではない。アイリスが慌てて謝罪すると、ローレンは目を眇めながらこう言ってきた。
「いや、少し妬いただけだ」
彼の口元を見ると、わずかに口角が上がっている。その様子に、アイリスはじとりと彼を見ながら不満げに言葉を漏らす。
「陛下。からかっていらっしゃいますね……?」
「そう思うか?」
ローレンはそう言うと急に真剣な表情になり、アイリスの髪を一束掬い上げると、あろうことかその髪束に口付けを落とした。
(――…………っ!!!)
彼の仕草が妙に色っぽくて、アイリスは思わず赤面してしまった。こちらの様子に、彼はフッと笑みをこぼす。
やはりローレンがからかっていることがわかり、アイリスは顔を真っ赤にしたまま抗議の声を上げた。
「もうっ! からかわないでくださいっ、陛下!!」
「悪かった。可愛くてついな」
そう言うローレンは、アイリスの頭を撫でながら喉を鳴らして笑っている。
(またそういうことを平気でサラッと言う……!)
彼に振り回されっぱなしのアイリスは、むくれながら顔の熱が収まるまで頬を両手で押さえていた。
すると、ローレンはふと真顔に戻り、こんなことを言い出す。
「だが離婚した後、お前が悪い男に引っかからないか心配だな。ルーイのような男は苦労するぞ」
「ふふっ。確かに、ルーイのお嫁さんは色々と気苦労しそうですね。でも私は、離婚したらもう誰とも結婚しないと思います」
アイリスはそこで一度言葉を切ると、少し表情を曇らせた。
「普通の家族というものを知らないので、家庭を築く自信がないんです。それに、誰かを好きになる気持ちというのも、よくわかりませんし」
本当は普通の家庭に生まれて、家族に愛されたかった。恋だって、してみたかった。でも、それを望むのは贅沢だ。だって今は、こんなにも恵まれた生活を送れているのだから。
すると、ローレンはアイリスの頭を撫でながら、優しい表情を向けた。
「普通なんて、目指さなくていい。一緒にいたいと思える奴の隣にいれば、それでもう家族だろう」
ローレンの言葉に、アイリスはそんな簡単なことで良いのだろうかと目を見開きながら、彼の優しい瞳を見つめ返していた。
そして、ふと思い浮かんだ疑問をローレンに投げかける。
「陛下は、もう次の結婚相手は誰にするか決めていらっしゃるのですか?」
アイリスはそう口にした途端、なぜか胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
「そんなわけないだろう」
眉根を寄せたローレンがそう答えるのを聞いて、アイリスの胸の痛みがスッと消えていく。
(今の、何だったのかしら……?)
自分の体の反応がよくわからず首を傾げていると、ローレンが少し溜息をついてから、こちらに聞こえないくらいの小さな声でポツリと言葉を漏らした。
「……お前以外の妻を見つけるのは、随分と骨が折れそうだ」
「何か仰いましたか?」
「いや、なんでもない」
ローレンの言葉が聞き取れず聞き返したのだが、彼は頭を振って誤魔化してしまった。そして彼は、再び優しい眼差しをこちらに向けてくる。
「離婚した後は、どうか幸せになってくれ」
「今も十分幸せですよ? 母国にいた頃と比べると、これ以上ないほど良くしていただいてますし」
「……そうか」
そう言うローレンは、どこか少し苦しそうに笑っていた。そして彼は徐にアイリスの手を取ると、その甲にキスを落とした。
「おやすみ、アイリス」
「お、おやすみなさい……」
ローレンの突然の行動に戸惑いながらも、闘技大会で疲れていたアイリスはそのまま眠りについたのだった。
***
闘技大会から数日後、各方面から思わぬ反応があった。
まずは宮廷魔法師団。
なんと、何名かの団員が、アベル派からローレン派に流れたのだ。
元々宮廷魔法師団には、アベル派閥筆頭だったランス師団長に釣られ、なんとなくアベル派に属している人が多かった。そのため、今回の仮面の魔法師の活躍に心打たれた若手を中心に、ローレン派につく団員が出てきたのだ。
腰の重い上層部は依然としてアベル派閥の人間が多いのだが、少なからずテコ入れには成功した形となった。
また、闘技大会で見事に敗北したトーマス・ランスはすっかり鳴りを潜め、仮面の魔法師を見かけると嫌味も言わず少し怯えた様子でその場を立ち去るようになった。
彼の父親であり魔法師団長のギデオン・ランスも、ローレンへのあからさまな悪態は改めたらしい。
そして、ヴァーリア魔法学校。
魔族の魔法を研究しているサミー・グレネル教授から、仮面の魔法師宛に実験の協力依頼が来たのだ。
グレネル教授の研究室といえば、マクラレンの同級生であるアーロン・フォックスが所属しているところだ。グレネル教授はこれまでに数多くの功績を挙げており、この国で知らない魔法学者はいないという。
闘技大会の応援に駆けつけてくれていたリザの話によると、どうやらその日は学校関係者が何人も見に来ていたらしい。その中にグレネル教授もいて、仮面の魔法師が彼の目に止まったというわけだ。ここ最近は学校に行く頻度も下がっているので、登校した日にできる範囲で協力するという旨を伝えた。
仮面の魔法師に対する国民からの支持もより一層の高まりを見せ、アイリスはさらに慌ただしい日々を送るのだった。




