80.恋の話
「お父様ね、先代の王様のお墓の前で、いつも懺悔なさっているの。『助けられなくてごめんなさい。私が魔法を使えたら、兄上を救えたかもしれなかったのに』って」
エリーのその言葉に、アイリスは大きく目を見開いた。そして、以前ローレンから聞かされた話を思い出す。
十年前、ローレンの家族が魔族に殺された時、アベルも居合わせていたこと。そして、アベルはなんとかその場から逃げられたものの、そのせいで「アベル殿下が王位欲しさに魔族を仕向けた」という噂が立っていること。
(アベル殿下が陛下のご家族を殺そうと画策した、なんて噂は真っ赤な嘘。むしろ、守れなかった強い後悔の念をお持ちなのね……)
以前アベルと対話した時に、彼がローレンのことを大切に思っていると感じたのは恐らく間違っていなかったのだ。
兄を死なせてしまった後悔の念から、兄の子であるローレンをこれまで必死に守ってきたのではないだろうか。自らが政権を握ることでローレンに向けられる刃を権力で叩き潰す、という形で。
アイリスはなんだかそんな気がしてならなかった。
すると、表情を暗くしたエリーが俯きながらつぶやく。
「だからね、わたくしが強くなって、お父様を支えて差し上げたいの。お父様が悲しそうな顔、しなくて済むように」
「それは……とても素敵な志ですね。アベル殿下も、きっとエリー様のことを頼もしく思われていらっしゃいますよ」
アイリスはそう言いながらエリーの頭を優しく撫でると、彼女は少し顔をほころばせていた。
そしてエリーは気を取り直したように顔を上げると、目を輝かせながら思いも寄らない話題をアイリスに振ってきた。
「そんなことより、恋の話をしましょう!」
「恋の、話……?」
「アイビーは、好きな人いるの?」
「ええっ!?」
唐突にそう聞かれ、アイリスは返答に困ってしまった。
(好きな人……。友達、とは違うのよね……。人を好きになるって、どんな感じなのかしら……)
アイリスには、恋愛感情というものが一体どんな気持ちなのかさっぱりわからなかった。母国にいる間、ずっと感情を押し殺し、人との接触も最小限だったアイリスは、当然のことながら恋というものをしたことがない。
さらには家族からも愛されずに育ったので、家族愛というものもよくわからなかった。普通の家族がどういうものかすら知らない。そのため、ローレンと結婚するにあたって、家庭を築く自信など実はこれっぽっちもなかったのだ。
答えに困りきったアイリスは、エリーに正直に話すことにした。
「私は……恋というのが、どういうものなのかわからないのです」
「恋をしたことがないの? 今までに一度も?」
「はい」
アイリスの返事に、エリーは信じられないというように大きく目を見開いた。
「それはもったいないわ! 恋をするとね、世界が輝いて見えるのよ!!」
「エリー様は、誰かに恋していらっしゃるのですか? そういえば、婚約者の方がいらっしゃいましたね。その方に恋を?」
アイリスが何気なくそう尋ねると、エリーはなぜか表情を曇らせた。そして、少し言いにくそうに言葉を返してくる。
「ええ。婚約者は、オースティン公爵閣下の御子息で、リドリー様っていう方なんだけど、十歳も年上の方でね……少し、苦手なの」
オースティンといえば軍部の最高司令官であり、数少ないローレン陣営のうちの一人である。
エリーは確か八歳だったので、リドリーは十八歳あたりか。しかし、歳の離れた婚姻など貴族の中では珍しくもないだろう。
「年齢が問題に?」
「いいえ、それはよくある話だからいいの。そうではなくて……なんだか、わたくしを見る目が怖くて。わたくしのことに興味がないというか、わたくしのことが目に映っていないというか……」
「そうなのですね……」
アイリスは恋愛話に疎く、エリーの悩みに上手く返すことができなかった。こういう時リザがいてくれれば的確なアドバイスをしてくれそうなのに、と思ってしまう。
「あとね、これは絶対に内緒なんだけれど……」
エリーはそう前置きすると、アイリスに顔を近づけ耳打ちしてきた。
「わたくしね、本当はエディ様に恋をしているの。アイビーも魔法学校に通っているなら、ご存知よね?」
「ええっ!? エディって、エディ・アレクサンダー!?」
魔法学校でエディといえば、クラスメイトのエディ・アレクサンダーしか知らない。彼は宮廷魔法師である父を手伝う関係で、たまに王城にも顔を出すと言っていた。エリーと接触があっても、おかしくはない。
目を丸くして驚くアイリスを見て、エリーは少し悲しそうに微笑みながら言葉を続けた。
「うふふ。二人だけの秘密ね。でも、叶わぬ恋だってわかってるわ。わたくしが結婚するのは、リドリー様だもの」
貴族社会では恋愛結婚は珍しい。だが、せっかく好きな相手がいるのに結ばれないというのは、なんとも切ない気がする。エリーの儚げな表情を見て、アイリスは恋というのがどういうものなのか少し気になった。
「恋をすると、どんな気持ちになるのですか?」
「そうね……その人のことを考えると胸がドキドキしたり、他の女の子と一緒にいるところを想像するとモヤモヤしたりするわ! その人とお話ができた日には、天にも昇る思いがするの!!」
アイリスの質問に、エリーは喜々としてそう答えてくれた。そして、先程までの暗い表情を吹き飛ばし、彼女はキラキラした瞳をこちらに向けながら尋ねてくる。
「アイビーには、そういう人はいないの? ちょっと気になる殿方とか!」
「んー、どうでしょうか……いつもおそばにいる方はいらっしゃいますが……」
ローレンとは政略結婚をしてそばにいるだけで、別に恋をして結ばれた、とかではない。しかし、最も身近な男性が彼であることは間違いなかった。
曖昧な回答をしたアイリスに、エリーが興奮気味に詰め寄ってくる。
「なんだ、いるじゃない! 想像してみて。その人が他の女の子と一緒にいるところ! モヤモヤしない?」
「女の子といるところ……女の子……」
アイリスはエリーに言われた通り、ローレンの隣に身近な女の子――サラがいる光景を想像してみた。
(うーん、陛下の隣にサラがいるとしたら……? ん? 待って? サラが陛下のそばについていてくれたら、万が一、刺客に襲われても安心だわ……!)
そうやって想像し終えたアイリスは、勢いよくエリーにこう答えた。
「全くモヤッとはしませんね。むしろ安心いたしました!」
「え!? そ、それは……なんというか、お相手がとっても可哀想ね……」
「?」
エリーは顔を引き攣らせながらそう返してきたが、その反応の理由がよくわからず、アイリスは首を傾げた。
「ブッ……ククッ……アハハッ! お嬢さん……多分それ、想像する相手間違ってるから……!」
そう口を挟んできたのは、少し離れたところにいたルーイだ。話が聞こえていたのか、彼は苦しそうにうずくまって地面をバンバンと叩きながら大笑いしている。
そんな彼を、アイリスはじとりと睨みつける。
「……ルーイにバカにされてるのだけは、よくわかったわ」
「ごっ、ごめん、お嬢さん。そ、そんなつもりは……ブフッ、アッハハッ!!」
ルーイは息絶え絶えにそう言うと、涙目になりながらしばらく腹を抱えて笑っていた。
一方のアイリスは、ルーイに大笑いされた挙げ句、結局恋が何なのかもわからずじまいで、不満気に溜息を漏らすのだった。




