75.アイリスの秘密
アイリスがグランヴィルの襲撃を受けた日、ローレンは彼女を見守るように隣で眠った――はずだった。
ローレンが目を開けると、そこは王家の別邸ではなく、どこかの美しい泉だったのだ。
そこには澄んだ湖があり、その周りには色とりどりの花々が咲き誇っていた。空を見上げると、雲一つない青空が広がっている。起き上がって自分を見ると、寝衣姿のままだった。剣が手元にないのが心許ない。
状況が掴めず警戒しながら周囲を見渡していると、突然少女の声が聞こえてきた。
「ごめんなさい、急に呼び出して。ちょっとあなたに用があって、私の夢の中に来てもらったの」
声のした方へバッと振り向くと、そこには桃色の髪の少女が佇んでいた。彼女は、白いワンピースを身にまとい、頭には花冠を載せている。が、腕や足にはところどころにツルが巻かれていた。
明らかに普通の人間ではないことをすぐに察知したローレンは、警戒心を強めながら少女に尋ねる。
「誰だ?」
そう問うと、少女はクスクスと笑いながらこう言った。
「あらあら。愛する妻を助けた恩人に、その態度はないんじゃないかしら?」
「お前が恵みのライラか……!」
彼女の正体に、ローレンは驚いて目を見開いた。
恵みのライラは、確か二千年以上生きているはずだ。そんな大魔族がこんな少女の姿をしているとは予想外だった。
そしてローレンは警戒を解くと、彼女に感謝の意を伝えた。
「アイリスの命を救ってくれたこと、心から礼を言う」
「別に、あなたの為に助けたんじゃないわ。グランヴィルがアイリスを襲ってくることはしばらくないでしょうから、彼女を城に閉じ込めて守ろう、とかはしなくて大丈夫よ」
ライラはそう言いながら、花畑にいた蝶を指先に止まらせてその小さき命を愛でていた。蝶を見つめたまま、彼女は言葉を続ける。
「今日はひとつだけ、あなたに伝えておきたいことがあったの」
「何だ?」
ローレンが目を眇めながらそう問うと、ライラは指先にフッと息を吹きかけ蝶を飛ばした。そして彼女はこちらに視線を向け、真剣な表情で尋ねてくる。
「あの子のギフトのこと、知ってる?」
「ああ。あらゆる生命と対話する力、と聞いている」
「正確には違うわ。それは、本当の力の副産物のようなものなの」
「本当の力?」
ライラの言葉に、ローレンは眉を顰めた。
アイリスからギフトのことを聞いた時、彼女は嘘をついていなかった。ということは、本人も自覚していない力、ということか。
「あの子の本当のギフトは『魔力への干渉』。例えば、魔抗石のように魔力を分散させて、魔法を打ち消すようなことができる」
ライラはそこで一度言葉を切ると、少し表情を険しくして話を続けた。
「そして、魔力の吸収も可能よ。他の生命の魔力を強制的に吸い取れば、あの子は実質的に無限の魔力を手にすることができる。アイリスは……あらゆる生命の頂点に君臨するような子なのよ」
ライラの言葉に、ローレンは目を見張った。
そんな力があれば、グランヴィルだって敵ではなかっただろう。生命エネルギーである魔力をすべて失えば、いかなる生物でも命を落とす。『魔力切れ』は、あくまで魔法が使えなくなるほど魔力を消耗した状態で、それ以上に魔力を失えば命に関わるのだ。
「だからね、もしアイリスの力が暴走して、あらゆる魔力を吸収し続ければ、この世界の生命が絶滅することだってあり得るの」
ライラが伝えたかったことは、どうやらこのことらしい。思った以上に深刻な話だ。ローレンが眉を顰めていると、彼女は顔を曇らせながらこう続けた。
「あの子は既に、その力で一人の命を奪っている。アイリスの母親が死んだのは、あの子が胎内にいる時に母親の魔力を無意識に吸い続けていたからなのよ」
ローレンは思わず息を呑んだ。アイリスは父親に嫌われていた理由を『自分の出産に耐えられず母が死んだから』と言っていた。彼女が真実を知ったら、どれほど傷つくだろうか。
「そのことを……アイリスは知っているのか?」
「いいえ、知らないわ」
「そうか、ならいい。あいつには言うなよ」
ライラもアイリスに伝えるつもりはないらしく、ローレンの言葉にコクリと頷いた。
そしてローレンは、ここまでの話でいくつか浮かんだ疑問を投げかける。
「だが、そもそもなぜアイリスは自分の力を誤認しているんだ?」
「それは……ごめんなさい。今あなたに言って良いかわからないから、答えないでおくわね」
ローレンの問いに、ライラは言い淀んでからそう返した。彼女の様子からして、なにか事情があるようだ。
「では、なぜそのことを俺に?」
「あの子の力が暴走しないよう、あなたに制御してもらいたいの」
ライラは、ローレンの瞳を真っ直ぐに見据えてそう頼んできた。
しかし随分と回りくどい。アイリス本人に伝えて、力の制御方法を身につけさせた方が確実なはずだ。
「本人に力のことを伝えてはだめなのか?」
「……伝えるのは、今じゃないらしいのよ。その力が必要になった時、初めて伝えて良いって。だからあなたも、それまでは黙っておいて」
どこか歯切れの悪い、しかも伝聞口調のライラの言葉に、ローレンはひとりの人物が頭に思い浮かんだ。
「エマ・アトラスの予言か」
ローレンの言葉に、ライラは少し目を見開いていた。言い当てられたことに驚いているような反応だ。しかし彼女は、すぐに神妙な顔でこくりと頷いた。
アイリスから今回の襲撃の説明を受けた時、先代の『黒髪緋眼』であるエマ・アトラスのことについても聞き及んでいた。エマ・アトラスがどんな未来を視たかはわからないが、彼女に口止めされているなら黙っているのが無難だろう。
「だが、制御するといってもどうすればいいんだ?」
「まず、魔力切れを起こさせないこと。そして、彼女を精神的に追い込まないこと。この二つが同時に起きなければ、まず大丈夫よ」
「……だったら、なぜ魔力切れになるまでアイリスの魔力を奪ったんだ」
ライラの説明を聞いたローレンは、じとりと彼女を見遣ってそう言った。すると彼女は、なんの悪びれもなく微笑みながら言葉を返してくる。
「あら、少しは残ってたでしょ? 本当に魔力切れしてたら、喋ることもできないわ」
「答えになってないぞ」
「ふふっ。半分は、単純に『黒髪緋眼』の魔力に興味があったから。もう半分は、あなたがアイリスのそばにいる時間を少しでも増やすためよ」
相変わらず微笑みながら答えるライラに、ローレンは眉間の皺を深くして尋ねる。
「……何のために?」
「二人の仲を深めるために決まってるじゃない」
「は?」
「私、二人のこと応援してるの」
ライラはニッコリと満面の笑みを浮かべながらそう答えた。
目の前で微笑む四大魔族の思考回路が全く理解できず、ローレンは思いっきり渋面になる。そして、彼女のとんでもなく大きなお節介に思わず溜息をついた。
「……あいつとは、いずれ離婚するつもりだ」
「あら。それは、あの子がまだあなたのことをよく知らない頃にお願いしてきたことでしょう? アイリスがあなたのことを好きになれば、離婚の話もなくなると思うけど?」
ライラは真面目な顔でそう言うが、ローレンはアイリスをこの国に縛り付けるつもりなど一切なかった。今まで不自由な暮らしを強いられてきたアイリスには、何にも縛られることなく自由に生きてほしいと願っている。離婚までの間とはいえ、自分の身勝手な都合で彼女をこの国に留めていることにも、かなりの後ろめたさを感じていた。
するとライラは、渋面のままのローレンに苦笑しながら言葉を続けた。
「でも、あなたも苦労するわね。あの子のこと、最大限自由にさせてあげなきゃいけないけど、その身は絶対に守らなきゃいけない、なんて」
「あいつを利用している以上、当然の償いだ」
ライラの言葉にローレンは自然とそう言葉を返したが、すぐに強烈な違和感に襲われた。
なぜこいつがそのことを知っている?
「……おい待て。お前、何をどこまで知っている?」
「ふふっ。そうね……大体のことを大体知ってるわ。大丈夫、誰にも言うつもりはないから」
眉を顰めるローレンに、ライラは微笑みながらそう答えたのだった。
ライラは自然を操る魔法を得意とし、木々や動物たちからあらゆる情報を仕入れてくるとアイリスが言っていた。そのことを知るのはごく少数の人間に限られているはずなのに、彼女の情報収集能力は計り知れない。
「さて、そろそろ愛しのお妃様がお目覚めよ? じゃあね、王様。また会いましょう」
険しい顔のローレンに、彼女はそう言って手を振ってきた。
そして彼女は去り際に、不敵な笑みを浮かべながらこう続けたのだ。
「ああ、最後に。あの子を悲しませたりしたら、私、あなたのことを殺しに行くから。そのつもりでね?」
そこでローレンが目を覚ますと、隣にはすやすやと眠るアイリスの姿があった。
その姿に安堵するも、なんだかやけに疲れているのを自覚する。きっと、ライラとの会話のせいだろう。ローレンはひとつ大きな溜息をついてから、再び眠りにつくのだった。




