74.迷い
湯浴みを済ませたアイリスは、サラに抱えられ夫婦の寝室へと運ばれた。そして、ゆっくりと寝台に下ろされる。魔力切れで体が動かせないアイリスは、ただなされるがままだった。
「ごめんね、サラ。ありがとう」
「いいよ。ゆっくり休んで、しっかり魔力を回復させな。今、王様を呼んでくるから」
そう言ってサラが部屋から出ていくと、程なくしてローレンがやって来た。
彼は苦しげな表情を浮かべながら、寝台の横に椅子を持ってきて座った。そしてアイリスの手を握ると、低くかすれた声で言葉を発する。
「……お前を危険にさらしてしまって、本当にすまない」
そう言い終わると、ローレンは唇を強く噛み締めていた。彼のこんな姿を見るのは初めてだ。彼の表情には、怒りと悔恨、そしてどこか迷いも混じっているように見えた。
そんな彼に、アイリスは穏やかな瞳を向けながら言葉をかける。
「いいえ。決して陛下が謝られるようなことではありません。グランヴィルの狙いは、私個人でしたので」
アイリスがそう言うと、ローレンはわずかに手を握る力を強めた。そして彼は、迷いの色を濃くしながらポツリと言葉をこぼす。
「……俺が進もうとしている道は、間違っているのかもしれないな」
その言葉に、アイリスは思わず表情をムッとさせ、不満気な声音でローレンに抗議した。
「陛下。もし今回のことで夢を諦めたりしたら、流石に怒りますよ?」
「…………」
眉根を寄せながら沈黙するローレンに、アイリスはひとつ息を吐いてから尋ねる。
「ライラから、事情はどこまで伺ってますか?」
「お前が剣神グランヴィルに殺されそうになり、恵みのライラが助けた、ということだけだ。グランヴィルがなぜお前を狙ったかまでは聞いていない」
「彼は『黒髪緋眼』に恨みを持っていて、それで私を狙ったようでした。だから、陛下が負い目を感じるようなことは何もございません。どうか、ご自分の目指す道に迷いを抱かないでください」
アイリスが力強くそう言うも、ローレンは険しい顔で沈黙したままだ。
彼の様子にどうしたものかと困ってしまったアイリスは、今回の事の顛末と入手した情報を全て説明することにした。朗報を早く彼に伝えたかったのだ。
グランヴィルが『黒髪緋眼』を恨む理由と、おそらくそれには誤解があるということ。グランヴィルにアイリスの居場所を教えた魔族がいて、その魔族は仮面の魔法師の正体に気づいていること。そして、ライラに調査の助力を得られること。
「四大魔族であるライラと協力関係を築けたんですよ! これは陛下の夢が大きく前進したのではありませんか!?」
アイリスは瞳をキラキラと輝かせながらそう言ったが、一方のローレンは顔を歪め苦しさを露わにした。
「お前は……もっと自分の心配をしろ」
そして彼は、アイリスの手を両手で包み込み、その手を己の額に当てた。まるで、神に祈っているかのようだ。
「俺の為に何かしようとしなくていいから……頼むから……死ぬな」
アイリスの位置からでは俯くローレンの表情は見えなかったが、懇願するその声は酷く苦しそうに聞こえた。何かに怯えたようにも見える彼に、アイリスは心が締め付けられる思いがする。
「ごめんなさい……怖かった、ですよね」
十年前に家族を失い、四年前に友を失った彼。身近な人を失う恐怖を、彼は嫌と言うほど味わってきたのだ。今回もしアイリスが死んでいれば、彼をまた孤独にさせるところだった。
彼の頭を優しく撫でてあげたいのに、体が言うことを聞かないのがもどかしかった。体が動かないのならと、アイリスは優しく穏やかな声でローレンに言葉をかける。彼が、少しでも安心できるように。
「大丈夫ですよ。私、ちゃんと生きてますから。手、あったかいでしょう?」
「…………ああ」
アイリスの言葉に、ローレンは短くそう返事をした。
そして、しばらくしてローレンが顔を上げると、彼からはすでに先程までの悲痛な表情は消えており、今度は瞳に鋭さが宿った険しい顔になっていた。どうやら今から怒られるらしい。
「だが、魔力切れを起こすまで戦うな。身の危険を感じたなら、転移魔法でもなんでも使って全力で逃げろ」
「ああっ! 違います! これは、戦闘で魔力切れになったわけではなく……!」
ローレンの叱責に、アイリスは慌てて訂正を入れた。そして、ライラに魔力を吸われた時のことを思い出し、思わず苦笑しながら説明を続ける。
「命を助けてもらったお礼がしたいとライラに言ったら、私の魔力を所望されまして……それで魔力切れになっただけなんです。まさか全部持ってかれると思いませんでしたが」
「…………事情はわかった」
アイリスの言葉に、ローレンは酷く微妙な顔をしていた。そして彼は、依然として眉根を寄せたまま、心配そうに言葉をかけてくる。
「回復にはどれくらいかかりそうだ?」
「魔力切れを起こしたのは初めてなのでなんとも言えませんが……四、五日も寝ていればそのうち回復するかと」
「そうか」
ローレンはそう言うと、徐に寝台に上がりアイリスに覆いかぶさる姿勢を取った。彼はアイリスの頭の横に両手をつき、その美しい顔をこちらの眼の前まで近づけている。
彼の行動の意図が全く理解できず、アイリスは戸惑いながら尋ねる。
「あ、あの、陛下……?」
「俺の魔力をやる」
ローレンの答えに、アイリスはとても嫌な予感がした。自分の予想が外れていることを心から祈りつつ、恐る恐る彼に尋ねてみる。
「まさかとは思いますが、その…………口移しで?」
「ああ」
ローレンはなんてこともないように、短くそう返してきた。予感が的中してしまったことに内心頭を抱えつつ、アイリスは慌てて彼を制止する。
「お、お待ちを! 手からでも良いのでは……?」
「それだと少しずつしか渡せんだろう。お前がある程度動けるようになるには、かなりの魔力が必要なはずだ。日が暮れるぞ」
魔力の授受というのは、ローレンの言う通り経口で行うのが最も効率的だ。経皮でも可能だが、確かに経口よりは時間がかかる。アイリスが動けるようになるまで回復するには、経皮ではかなりの時間がかかりそうだ。
しかし、経口という手段は滅多に使われない。方法が方法というのもあるが、普通の魔法師なら経皮で十分だからだ。経口での魔力授受が必要な場合は、魔力切れで体が一切動かせず、かつ、すぐに体を動かす必要がある、といった緊急事態くらいである。
今は緊急事態でも何でもない。寝て魔力を回復すればいいだけだ。
問題なのは、アイリスの魔力量が人族の中でずば抜けているせいで、普通の人間なら一晩で回復するところ、何日も眠り続けなければならない、ということだ。
(でも――)
魔力を受け取るには、受け手が相手の魔力の流れを感じ取り、意識的に吸い取ろうとしなければならない。ライラがアイリスの魔力を吸い取った時のように、与える側が何かするわけではないのだ。
口づけをした状態でローレンの魔力に集中できる自信が全く持てず、アイリスは眼の前の彼に懸命に訴えた。
「緊張して魔力を受け取れる自信がありません!」
「なんとか集中しろ。救命行為だと思え」
「そもそも魔力をいただかなくても、数日寝ていれば回復しますから!」
「その間、体を動かせないなら、ろくに食事も取れんだろうが」
アイリスがいくら言い返しても、ローレンは険しい顔のまま一歩も引いてはくれなかった。
そしてとうとう、彼は有無を言わさずアイリスに唇を重ねた。
「ん……!」
唇に当たる柔らかな感触に、アイリスはぎゅっと目を閉じた。
思ったとおりだが、心臓が高鳴って魔力をもらうどころではない。だが、このままではただこの状況が長引くだけだ。
(集中……集中……! 魔法の修行を思い出すのよ、アイリス……!)
心のなかでそう唱えながらなんとか集中すると、ようやく彼の魔力を少し吸い取ることができた。そして、唇が離れた一瞬の隙にすかさず主張する。
「もう結構で――」
「まだだ」
「んんっ」
ローレンに再び口を塞がれ何も言えなくなってしまったアイリスは、またなんとか集中して少しずつ彼の魔力を吸い取っていく。そんなことが数回繰り返され、アイリスの顔は恥ずかしさでとんでもなく熱くなっていた。
そしてようやく少し体が動かせるようにり、アイリスはローレンの唇が離れた瞬間を見計らって、彼の口を手のひらでパシッと覆った。
「も……大丈夫、です」
若干涙目になりながらそう訴えると、ずっと険しかったローレンの表情にようやく安堵の色が浮かんだ。そして、彼は優しくアイリスの手を口元からどけると、気遣わしげな声で尋ねてくる。
「どうだ? 少しは動けそうか?」
「はい……この通り……」
アイリスはそう返事をしながら、手のひらを閉じたり開いたりしてみせた。全身に酷くだるさが残るものの、なんとか体を動かせるまでには回復したようだ。
ローレンは安堵した様子を見せるも、すぐに眉根を寄せてアイリスに懇願した。
「これに懲りたら、もう二度と命を危険にさらすような真似はしないでくれ。頼むから」
そう言う彼は、またわずかに怯えているようにも見える。
「ごめんなさい、陛下。怖い思いをさせてしまって。今度はちゃんと、命を優先して動きますから」
アイリスはそう言うと、ニコリと微笑みながら、動くようになった手で彼の頭を優しく撫でた。
「安心してください。私、魔族並みに魔力量が多いので、絶対陛下よりも寿命長いですよ」
「……ああ、そうだな」
急に頭を撫でられたローレンは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな表情を浮かべ短くそう答えたのだった。そんな彼の表情からは、もう怯えの色は消えていた。
その後アイリスは、ローレンに手伝ってもらいながら食事を取った後、まだ日も暮れないうちに眠りについたのだった。




