70.危機
「さて、そろそろ戻りましょうか!」
サラが自分の過去を明かしてくれた後、三人はもう少しその場で歓談を続けていた。そして、昼食の時間が近づいてきたので、一度リファナの街にある王家の別邸に戻ろうとアイリスが声をかけたのだ。
三人が帰ろうと立ち上がった時だった。
異変が起きたのは。
唐突に強烈な殺気と魔力を感じ、三人は同時にその方向へと振り向いた。レオンとサラはすでに鞘から剣を抜き、殺気を放っている人物に向けて構えている。
そこにいたのは、尖った耳に黒いツノを持つ、長身の魔族だった。彼は鋭く光る緑の瞳で、こちらをギロリと睨みつけている。そして、仮面をつけたアイリスに向かって、彼は低く唸るようにこう言ったのだ。
「お前がバーネットの妃か?」
その瞬間、アイリスは全身がひどく粟立つのを感じた。彼の殺気が、全て自分に向けられたものだったからだ。仮面の魔法師の正体がなぜこの魔族にバレているのか、なんて考えている余裕など、これっぽっちもなかった。
アイリスは息が詰まりそうになるほどの殺気にさらされながら、なんとか冷静さを保ち相手の魔力を観察した。
(まずい。この魔力量は……)
今の状況が思った以上に良くないことを悟ったアイリスは、頭からサーッと血の気が引いていくのを感じていた。すると、アイリスの前で剣を構えていたレオンとサラが、振り返ることなくこちらに言葉をかけてくる。
「アイリス様、何があっても絶対に守ります。俺とサラで時間を稼ぐので、その間に転移魔法を使ってもらえますか?」
「アイリス。五秒は稼げそうなんだけど、足りそう?」
二人にそう言われたが、アイリスは彼らにこの魔族と戦わせるつもりなど一切なかった。早鐘を打つ心臓を抑えながら、アイリスは今取るべき最善策を必死に考える。
(……まずは、二人を逃さなきゃ。このままじゃレオンとサラまで殺されてしまう)
そしてアイリスは、意を決して目の前にいる二人の腕を掴んだ。レオンとサラは、アイリスの意図を察したのか、一斉にこちらを振り向く。
「ごめんね、二人とも」
「アイリス様っ――」
「アイリス――」
レオンとサラがアイリスの名を呼んだ瞬間、二人の姿がその場から消えた。アイリスは、転移魔法で彼らを王家の別邸まで逃がしたのだ。
そしてその場には、アイリスと長身の魔族の二人だけが残った。
すると、アイリスの取った行動に、魔族から乾いた声が放たれた。
「臣下を逃したか。自分も逃げればよかったものを」
「……私が逃げれば、街まで追って来てでも殺そうとするでしょう?」
「ハッ。よくわかっているな」
この尋常ではない殺気は、何が何でもアイリスを殺そうというものだ。街でこの男が暴れれば、その被害は計り知れない。それに、これほどの魔族が街中に出たとあれば、魔族との共存というローレンの夢はもはや叶えられなくなってしまうだろう。
だからアイリスは一人この場に留まり、彼と対峙することを選んだ。
そしてアイリスは、魔族に意識を集中させたまま、仮面に手を触れ転移魔法でそれを外した。既に彼に正体を知られているというのもあるが、単純に戦闘の邪魔になると判断したからだ。この男相手には一瞬の隙も許されないと、本能がそう告げていた。
「あなたの言う通り、私はこの国の王妃よ。あなたは何者?」
魔族の男はアイリスの問いには答えず、こちらの姿を見てさらに殺気を強めた。そして、鋭い眼光でアイリスを睨みつけながら、恨みの言葉を吐き捨てた。
「忌々しい緋眼の一族め……!」
その一言でアイリスは察した。この男は四大魔族の一人、剣神グランヴィルだと。先代の『黒髪緋眼』である、エマ・アトラスを殺した人物――。
「あなたは、剣神グランヴィルね……?」
アイリスは彼の魔力を見た時、龍王ヘルシングより格上だと判断した。そして、自分の師匠――魔族最強と言われる魔王オズウェルドよりは劣ると。だとすれば、彼は四大魔族のうちの一人で間違いないはずだと、アイリスはそう確信していた。
するとアイリスの問いに、魔族の男は短く言葉を返してきた。
「ああ、そうだ」
(ということは、あれが宝剣エンヴィス――)
アイリスが彼の右手に視線を向けると、その手には美しい剣が握られていた。
剣神グランヴィルが所有する宝剣エンヴィスは、斬れないものは無いと言われる伝説の剣だ。それは魔法も例外ではない。
彼が『剣神』と呼ばれるのは、剣技が抜きん出ているというのももちろんあるが、宝剣エンヴィスを所有していることがその所以の一つでもあった。
アイリスは、彼との戦闘が始まるまでに少しでも情報を引き出そうと質問を続けた。
「答えて。なぜ私を殺そうとするの?」
「お前が『黒髪緋眼』だからだ」
アイリスの問いに、グランヴィルはこちらを睨みつけながら忌々しそうにそう答えた。
(彼の殺意は私個人ではなく、『黒髪緋眼』そのものに向けられたもの――)
アイリスからしたら、とんだとばっちりのような理由だが、なぜそこまで『黒髪緋眼』を憎んでいるか聞いておく必要がありそうだ。
「では質問を変えるわ。なぜエマ・アトラスを殺したの?」
アイリスの質問に、グランヴィルは殺意をさらに色濃くしながら険しい声でこう言い放った。
「……奴が俺の家族を皆殺しにしたからだ!!」
「…………!?」
一国の王が四代魔族の家族を殺すなど、戦争をふっかけているようなものだ。エマ・アトラスは、そんな愚かな行為をする人物だったのだろうか。しかし、アトラス王国の史料にはそんな記載はなかったし、龍王ヘルシングから聞いた彼女の印象ともだいぶ異なる。
とはいえ、何の情報もない中で、グランヴィルの話の真偽を判断することはできそうになかった。
「俺は『黒髪緋眼』を根絶やしにするためだけに生きてきた。だから、お前も殺す」
「……それなら、アトラス王国を滅ぼそうとは考えなかったの?」
「当然やろうとした!! だが、あの忌々しい奴にいつも邪魔をされる! 人間に媚を売る、魔族の風上にも置けない奴め!!」
そう吐き捨てたグランヴィルは、激しい怒りを見せていた。
彼を邪魔できるほどの人物となると、他の四大魔族くらいしかいないのではないだろうか。一体誰が、と思考を巡らそうとしたが、どうやら彼との会話はそろそろ終わりだということがわかった。グランヴィルが宝剣エンヴィスをこちらに向けて構えたからだ。
「お前はあの女と比べて随分と貧弱だな。容易く殺せそうだ」
グランヴィルは鋭い殺気をまとわせながら、嘲笑を浮かべてそう言った。
そんな彼に、アイリスは杖を構える。
(……本気で戦うのは、随分と久しぶりね)
アイリスは師匠に魔力制御を教えてもらって以来、本気で魔法を使ったことは一度もなかった。しかし、この相手には全力を出しきらないと負けるのは目に見えている。ここで出し惜しみして死ぬわけにはいかない。
アイリスは小さく息を吐くと、制限していたすべての魔力を開放した。
その瞬間、わずかに木々がざわめく。そして、グランヴィルの目がわずかに見開かれた。
「ほう? 隠していたのか?」
彼はそう言いながら、珍しいものでも見るかのように目を眇めた。しかし、アイリスはすでに深い集中状態に入っており、彼の言葉は耳元を通り過ぎていくだけだった。
(詠唱する暇はない。まずは転移魔法で距離を取る。防御魔法は二枚展開。相手を拘束して、凝縮した魔力をぶつける)
その後、アイリスが転移魔法を使ってからの展開は一瞬だった。
転移魔法で大きく距離を取ったものの、グランヴィルに一気に距離を詰められ、一枚目の防御魔法が破られた。そこでアイリスが拘束魔法で彼の動きを止め、高濃度の魔力を放った。が、宝剣エンヴィスによって拘束魔法が難なく斬られてしまい、魔力の塊はグランヴィルには当たらずただ木々をなぎ倒していっただけだった。
そして今、二人は距離を保ちつつ睨み合いを続けている。
(外した……でも、やれている。剣の間合いに入らなければ、致命傷は負わないはず)
アイリスは、幼い頃から師匠である魔王オズウェルドと散々手合わせをしてきた。そのおかげで、たとえ相手が四大魔族であろうとも、十分に引けを取らない戦いができていた。
しかしアイリスは、グランヴィルに『勝つ』イメージまでは持てずにいた。このまま戦闘が長引けば、アイリスの方が先に魔力切れを起こして負けるだろう。
背中に嫌な汗が流れるのを感じながら、アイリスはグランヴィルに意味のない交渉をした。
「……手を引いてくれないかしら? あなたの家族を殺したのは私ではないわ。恨むのはお門違いよ」
「命乞いか? あの女は無駄に抗うことなく、潔く死んでいったぞ」
あの女――エマ・アトラスはなぜ抵抗しなかったのだろうか? そもそも、もし本当にグランヴィルの家族を殺したのだとしたら、彼が報復に来るのはわかりきっていただろうに。
(いや、今は余計なことを考えている暇はない。この相手をなんとかしないと)
アイリスにジリジリと焦りが募る中、グランヴィルは徐に宝剣エンヴィスを鞘に収めた。その行為がこの場を立ち去るためのものではないと、彼の消えない殺気が教えてくれていた。
「お前は魔族の敵だ。ここで死ね」
グランヴィルはそう言うと、左手に鞘を、右手に柄を持ち、自らの胸の前に剣を構えた。そして彼は、今までで最も強い殺気を放ち、鋭い眼光でアイリスを捉えた。
「唸れ、エンヴィス」
グランヴィルが短くそうつぶやき、剣をわずかに抜いた、その時――。
(え?)
左胸に衝撃が走り、アイリスは思わず自分の胸を見下ろした。
(どうして……? 防御魔法は破られてないのに)
グランヴィルはその場から一歩たりとも動いていない。剣身をすべて抜いたわけでもない。
だが、アイリスの胸からは剣で貫かれたようにドバドバと血が溢れ出ていた。みるみるうちにローブが真っ赤に染まっていく。アイリスは立っていることができなくなり、その場に倒れ込んだ。
回復魔法を施そうにも、意識が朦朧として思うように上手くいかない。
しかしアイリスは諦めず、血の混じった息を吐きながら、なんとか左胸を修復しようと試みた。だが、思った以上に損傷が激しく、瀕死の状態のアイリスではこの傷を治すのは難しそうだった。
(ああ、これは……ダメなやつね)
「たす……け……オ……ズ…………」
アイリスは無意識のうちに自らの師匠の名を呼んでいた。しかしその声は、言葉になる前に虚空に消えていく。
(痛い……暑い……寒い……怖い……)
アイリスは朦朧とした意識の中で、とうとう眼の前が暗くなっていくのを感じた。そして意識が途切れそうになった時、ザッザッとグランヴィルがこちらに近づいてくる足音が聞こえた。そして彼は眼の前まで来ると、アイリスの喉元に剣を突き立てた。
「あの世であの女に伝えろ。お前を殺したことを後悔することなど、一生無いと」
(……ごめんなさい、陛下……また、独りにしちゃう……)
アイリスが完全に死を覚悟したその時、グランヴィルが心底驚いたような声を上げた。
「お前……なぜここに……!?」
「あらあら。相変わらず血の気が多いのね、グランヴィル。戦争でも始めるつもりなのかしら?」
アイリスが最後に聞いたのは、可愛らしい少女の声だった。




