66.寂しくはないですか?
学校から帰城した日の夜、アイリスはいつものように夫婦の寝室でローレンと話をしていた。
アイリスが寝台に横たわりながら隣にいるローレンを見上げると、今日も彼は法律についての本を読んでいるようだった。長いまつ毛が切れ長の瞳に影を落としており、いつ見ても彫刻のように美しい横顔だ。
アイリスがしばらくローレンに見惚れていると、彼は本に視線を向けたままこちらに言葉をかけてきた。
「今日はどうだった?」
ローレンのことをじっと見つめていたアイリスは、彼から不意にそう尋ねられ思わずドキッとしたが、平静を装って言葉を返す。
「久々の学校は、やはり楽しいですね。皆変わらず元気そうでした。あと、アトラス王家の動向についてルーイから報告を受けましたが、陛下は既にご存知ですか?」
アイリスがそう尋ねると、ローレンは表情を変えぬまま返事をする。
「ああ、聞いた。魔法協会への対策を打つまでは、お前の力を公表するのは待ってくれ」
「わかりました」
力を自由に使えないのがもどかしくはあるものの、下手に公表すれば国家間の問題に繋がりかねない。こればかりは、ローレンの許可が下りるまで我慢するしかないだろう。
すると彼は、思い出したように本から顔を上げ、アイリスに視線を向けながら口を開いた。
「あと、近々北部地方の視察で城を空ける。二週間ほどで戻る予定だ」
ローレンは国王という立場でありながら、たまにこうして視察に出かけることがある。遠方の領地のことも、定期的に自分の目で見ておきたいそうだ。
暗殺者に狙われている立場なので城から離れるのは控えたほうが良いと思うものの、国王としての仕事を邪魔するわけにもいかない。
「では、私もご一緒しても? ちょうど北部地方の魔物討伐依頼が来ていたので」
視察中ずっとローレンの護衛としてついて回ることは難しいだろうが、滞在先に結界を張るなど、何かしらできることはあるはずだ。城にいて気を揉むよりは、少しでもそばにいたほうが安心できる。それに、魔物討伐としてついて行けば、彼からも文句は出ないだろう。
アイリスの読み通り、ローレンは特に反対する様子もなく許可を出した。
「わかった。向こうに行ったら王家の別邸に滞在する予定だ。五日後に出立するから、レオンとサラにもそう伝えておけ」
「はい。わかりました」
その後もしばらく会話をしていると、アイリスは学校でのルーイとの会話をふと思い出し、ローレンを見上げながら進言した。
「陛下」
「なんだ?」
「私、陛下の友人になりたいのですが」
「……は?」
唐突なアイリスの言葉に、ローレンは突然何を言い出すんだと言わんばかりに眉を顰めている。しかし彼の反応には構わず、アイリスは言葉を続ける。
「ルーイが言ってたんです。陛下には、何でも話せる相手がいないんじゃないかって」
「あいつ……」
アイリスの言葉に、ローレンはやれやれという風に溜息をついた。ルーイに叱責が飛びそうで少し申し訳ないと思いつつ、アイリスは真剣な表情で彼を見据えてこう尋ねた。
「私じゃ、陛下の良き友人にはなれませんか? こう見えて私、聞き上手なんですよ?」
「…………」
アイリスの言葉を聞いたローレンは、とても微妙そうな顔をしながらしばらく沈黙していた。
そして彼は、小さく溜息をついた後、アイリスの頭をくしゃくしゃと撫でながらこう言った。
「俺の過去をあそこまで話したのは、お前くらいだ」
「ほんとですか!?」
ローレンの言葉に、アイリスは言いようもない嬉しさを感じた。自分が既に彼の特別な存在になれているかもしれないと思ったからだ。以前彼から『孤独を癒やす存在』とは言われていたが、心を許せて何でも打ち明けられる相手とはまた違うと思っていたのだ。
(少しずつでいいから、陛下の心の負担を分けてもらえるといいな。そして少しずつ、陛下の笑顔が増えていけばいいな)
アイリスはそう思いながら、満面の笑みを浮かべてローレンに言葉を返した。
「話したいことがあったら、なんでも仰ってくださいね! いつでもお聞きするので!」
「ああ、わかった」
ローレンは微笑みながらそう返事をすると、アイリスの頭を愛おしそうに撫でた。するとアイリスは、彼の微笑みに、優しい手に、なぜだか胸の奥がきゅっと苦しくなるのを感じた。
その理由がわからないまま、アイリスはローレンに言っておきたかったもう一つのことを口にする。
「あと、その……もし寂しかったら、いつでも言ってくださいね」
その言葉に、ローレンは思いっきり渋面になった。またもや意味のわからないことを言い出したとでも言いたげな顔だ。
「……からかっているのか?」
「いえ、至って真面目です」
アイリスは、この王様が意外と寂しがり屋であることを既に知っていた。家族を失ってから今までずっと孤独だった分、彼の寂しさを少しでも埋めてあげたかったのだ。
アイリスが真剣な表情でローレンを見つめていると、彼は目を眇めながらニヤリと笑い、どこか面白がるようにこう尋ねてきた。
「ほう? じゃあ、もし俺が寂しいと言ったら、お前は何をしてくれるんだ?」
「えっ?」
その点は何も考えていなかったアイリスは、慌てて思考を巡らせた。そして、ふいに自分が幼かった頃に師匠にしてもらったことを思い出し、咄嗟にいくつか案を列挙する。
「そうですね……頭なでなでとか、ぎゅっと抱きしめるとか?」
アイリスはそう口に出してから、とんでもないことを言ってしまったことに気がついた。しまったと思い、急いで発言を撤回しようとする。
「あっ、すみません! 今のやっぱり無しで――」
「寂しい」
「ふえ!?」
発言の撤回が間に合わずローレンに先を越されてしまったアイリスは、この状況をどう収めようか焦る頭で必死に考えた。ローレンはどう考えてもアイリスをからかっているとしか思えない。
しかし、アイリスの懸命の思考も虚しく、ローレンから再び言葉が放たれた。
「寂しい」
ローレンはもう一度そう言うと、アイリスの手を徐に握った。突然のことに驚き思わず視線をローレンに向けると、彼はじっとこちらを見つめている。彼の碧い瞳が、アイリスを捕らえて離さない。
ローレンがあまりにも真剣な表情をしているものだから、これはこちらをからかっているわけではなく本心なのではないかと思い、アイリスも思わず真面目に返事をしてしまった。
「はい! えと、あの、どちらをご所望で……?」
そう答えたところで、ローレンが我慢できなくなったようにフッと笑みを溢した。
「ククッ。冗談だ」
「やっぱりからかってたんですね!?」
こちらの反応を面白がっているように笑うローレンに、アイリスは『真面目に答えたのに』と抗議の声を上げた。
すると、ローレンは笑いを収めてから、穏やかな視線をアイリスに向ける。
「前にも言ったが、離婚するまでの間、隣にいてくれれば十分だ」
(隣にいるだけで本当にお役に立てるのかしら……? それに、結婚している間だけではだめだわ)
アイリスは、自分と結婚して母国から出してくれたローレンにかなりの恩義を感じていた。自分にできることがあれば、離婚後も彼の力になりたいと思っていたのだ。
そしてアイリスは、彼の瞳を見つめ返しながら告げた。
「陛下が孤独に押しつぶされそうになった時は、私の持てる力すべてで陛下をお支えします。そして、離婚した後も、必ず」
力強い視線でそう言うアイリスに、ローレンは一瞬目を見開いた後、少し困ったように苦笑しながら尋ねてきた。
「離婚して自由になりたいんじゃなかったのか?」
「離婚後どうしようが、私の自由では?」
アイリスが半ばおどけたようにそう返すと、ローレンは少し黙り込んだ後、なぜか少し苦しそうな表情を見せた。
「……俺のために何かしようとしてくれなくていい。離婚した後は、俺のことは気にせず自由に生きろ」
(陛下にそんな顔をさせたいわけじゃないのに……)
アイリスは言葉を返そうとしたものの、今は何を言っても押し問答になりそうな気がして、結局口をつぐんだのだった。




