120.罪悪感と恋心
その日の晩、アイリスは夫婦の寝室に繋がる扉の前で、しばらく動けずにいた。
(言う……ちゃんと気持ちを伝える……伝える……ああっ! やっぱり無理かも!)
オズウェルドに背中を押され、ローレンに自分の気持ちを伝えると決意したはいいものの、緊張と恥ずかしさでなかなか寝室に入れずにいるのだ。
心臓は今までにないほどドキドキとうるさく鳴っており、手先は緊張ですっかり冷たくなっている。アイリスは胸に手を当てながら、何度かゆっくりと深呼吸をして自分を落ち着かせようとした。しかし、早鐘を打つ心臓は一向に収まる気配が無い。
(だめだ……早くしないと話す時間がどんどん短くなっちゃう……)
ローレンも諸々の処理に追われ、今日は疲れ切っているだろう。彼の睡眠時間を奪うわけにもいかない。
そう思い、アイリスは意を決して寝室の扉に手をかけた。そして、その勢いのまま部屋に入る。
ローレンは既に寝台の上でいつものように本を読んでいた。同盟締結が完了してもなお、彼は自己研鑽を怠らないようだ。
すると、彼はアイリスの様子がおかしいことに気づいたらしく、不思議そうな表情で声をかけてくる。
「アイリス、どうかしたか?」
きっとすごく硬い表情をしているということが自分でもわかった。アイリスは最後にもう一度だけその場で深呼吸をしてから寝台へ向かうと、枕元に姿勢を正して座る。
「陛下、大事なお話があります」
ローレンはアイリスの様子に驚いた様子を見せつつも、すぐに真剣な表情になりその場で姿勢を正した。
「聞こう」
彼に促され、アイリスは覚悟を決めた。緊張で震える手を、ぎゅっと握って抑え込む。そして、声が震えてしまわないように、握る手に力を込めた。
「今から、今までで一番のワガママを言います」
「なんだ?」
彼の声は、とても穏やかで優しいものだった。その碧の瞳も、アイリスを包み込むような優しさに溢れている。そのせいか、余計に心臓が早くなった気がした。
「陛下は前に仰ってくれましたよね。一緒にいたいと思える人の隣にいれば、それはもう家族だろう、と」
「ああ、言ったな」
話している間、彼の瞳はこちらの瞳の奥深くを見つめていた。緊張と恥ずかしさで思わず俯きたくなるのを何とか堪えて、アイリスも彼の瞳を見つめ返す。
(今から、言う……!)
そう思い、握る手により一層の力を込めたが、それでも震えが止まらなかった。こんなに緊張するのは生まれて初めてだ。
そしてアイリスは、ひとつ息を吐いてから、意を決して口を開く。
「私は……陛下をお慕いしております。どうか陛下のおそばにいさせてください。あなたの、家族になりたいのです」
(言っちゃった……ついに言っちゃった……!)
恥ずかしくてすぐにでも俯きたかったが、彼から目を逸らしてはいけないような気がしてグッと堪えた。緊張のせいで手は氷のように冷たいのに、顔は火照ったように熱い。
一方のローレンはというと、信じられないというように目を大きく見開いた後、ゆっくりとその顔を歪めていく。そして片手で顔を覆うと、彼はとうとう俯いてしまった。
(これは……ダメなやつかもしれない)
そう思った途端、アイリスの頭から血の気が引いていった。そして沈黙に耐えられず、焦ったように早口で捲し立てる。
「ああっ、その、ご迷惑であれば遠慮なく仰ってください! 離婚後すぐに出ていきますので! というか、離婚したいって言い出したのは私なのに何言ってんだって話ですよね、すみません!!」
完全に一人で空回りしている気分になり、アイリスは今すぐにでもこの場から立ち去りたい衝動に駆られた。
しかし、アイリスが次の行動に移る前に、ローレンが絞り出したような声を上げた。
「いや……違う……違うんだ」
彼の声は、とても苦しそうな音をしていた。いつも堂々と前を向いている彼が、今は顔を上げる気配もなく、ずっと俯いている。俯いていて顔は見えないが、つらそうな表情をしているのは容易に想像ができた。
アイリスはそのことに胸が締め付けられる思いがする。彼にそんなつらい思いをさせたくて気持ちを伝えたわけではないのだ。
あまり話を長引かせては彼の負担になるだけだと思い、アイリスは思い切ってこう言った。
「嫌いなら嫌いで、はっきりと仰っていただいて構いません。覚悟はできています」
その言葉で、彼はようやく顔を上げた。しかし、アイリスはその表情を見て思わず目を見開く。
彼は今にも泣きそうな様子で、困ったように眉を下げて微笑んでいたのだ。今まで見たことのない表情だった。
「嫌いなわけがない。もうずっと前から、俺はお前に惚れている」
「え……?」
完全にフラれる流れだと思っていたアイリスは、予想外の言葉に固まってしまった。
(陛下が……惚れてる……私に……)
頭の中で何度か反芻してようやく脳がその言葉の意味を理解し、アイリスは言いようもない嬉しさに胸が高鳴った。初めて好きになった人と両想いになれただなんて、こんな幸せなことがあるだろうか。
しかし、当のローレンはとても苦しそうに笑っている。その表情を見て、アイリスはすぐに不安になってしまった。
「俺は、お前を利用している立場でありながら、どうしようもなくお前に惹かれてしまったんだ」
そこからの彼の言葉は、懺悔に近かった。
「同盟の条件だからというのもあったが、最初はお前への贖罪の気持ちから、お前を可能な限り自由にさせてやろうと思っていた。流石にすぐに離婚に応じるのは難しかったがな。そして、離婚までの間は、お前の身を絶対に守ろうとも決めていた」
自由にさせてくれていたのも、身を案じてくれていたのも、どちらも同盟の条件だからだと思っていたが、どうやらそれだけではなかったようだ。ローレンは随分と始めの頃からアイリスに負い目を感じていたらしい。
「だが、お前と過ごす時間が長くなるにつれ、次第に離れがたい気持ちが強くなっていった。それと同時に、お前を利用していることへの罪悪感が俺の中で膨れ上がっていった」
彼はそう言うと、眉根を寄せて苦々しい表情になった。その様子から、彼の抱える罪の意識がいかに強いかが見て取れる。
「お前を利用しておきながら、なおも一緒にいたいなど、自分勝手にも程がある。俺にはお前の隣を望む資格はない。そう思って、俺は自分の気持ちに蓋をした」
するとローレンは、また片手で顔を覆い俯いてしまった。そして、苦しそうに深く息を吐いてから言葉を続ける。




