101.脳裏に浮かぶ人
アーノルドと別れた後、アイリスは時折馬を休ませながらひたすらバーネット王国を目指していた。
春が近いとはいえ、この時期のアトラス王国はまだまだ寒さが厳しく、森の中は一面の雪に覆われている。夜の森は暗闇に包まれていたが、幸い馬車道だけは月明かりが照らしてくれていた。
アイリスは凍えるような寒さに身を震わせながら、自分の手首にはめられた手錠の解析を進めていた。このペースだと、朝には外せそうだ。外したときに魔法が使えない場合を考慮して、朝までにはバーネット王国に着き身の安全を確保しておきたいところだ。
その後もアイリスは一睡もせずに進み続けた。睡魔と寒さで時折気が遠くなりそうになったが、その度にローレンのことを思い出し、絶対に帰るという強い意志を燃やして意識を保った。
そしてとうとう日が昇り、アイリスは朝を迎えていた。
(もう……国境は越えたかしらね……)
疲労が限界にきて意識が朦朧とし始めていたが、アイリスは頭を強く振って最後の気合を入れた。もうすぐ帰れるかもしれないと思うと、自然と元気が湧いてくる。
ここまでの道のりは至って順調だった。アトラス魔法協会の人間が追いついてくる様子も、今のところない。
そんな時だった。
アイリスの視線の先に、大勢の人影がずらりと並んでいるのが見えたのだ。そして、バーネット王国の紋章である獅子が描かれた旗も。
(た、助かった……? 私を、迎えに来てくれたの……?)
次第に近づくにつれ、その装いから人影の正体が騎士団の人間であることがわかった。でも、なにか様子がおかしい。なぜか、殺気を感じるのだ。
アイリスは慌てて手綱を引き、馬を止めた。
考えられることはひとつ。ローレンを暗殺し王位を簒奪しようとする黒幕が、アイリスを始末しようとしている、ということ。
その考えに思い至り、アイリスは慌てて来た道を引き返した。魔法が使えない今のアイリスでは、彼らに捕まった時点で確実に殺されてしまう。
しかし、アイリスが騎士団を認知できたということは、彼らもまた然り。騎士たちももちろん、アイリスの存在に気づいていた。
「何としても殺せ!」
号令とともに、騎士たちが一斉に馬で追いかけてくる。アイリスは焦る頭で今取るべき最善策を必死に考えた。
(どうする……? このまま戻って魔法協会の奴らとぶつける……? いや、彼らが追ってきてる確証がない……。せめて、手錠が外せるまで時間を稼げれば……)
後ろを見ると、弓に矢をつがえた騎士たちが馬上からアイリスを狙っている。ひと晩中走り続けたアイリスの馬が彼らの馬より速く走れるはずもなく、徐々に距離が縮んでいった。
打開策が見つけられず焦るアイリスの脳裏に、ふと一人の人物が思い浮かんでしまった。とても美しい碧の瞳を持つ、青年の姿が――。
(どうして陛下の顔が浮かぶの……助けて欲しいなんて思っちゃだめ。絶対に、陛下は……陛下だけはここに来ちゃいけないんだから……!)
アイリスは強く頭を振って、脳裏に浮かぶローレンの姿を追いやった。危機にさらされ続けて、随分と心が弱くなってしまっているらしい。
すると、馬を走らせながらただ手錠の解析を進めるしかないアイリスに、とうとう騎士の矢が届き始めた。
一本、また一本と矢がアイリスを掠めていく。矢が当たらないように身を低くしてやり過ごそうとするも、何本目かの矢がアイリスの馬に当たった。
突然の痛みに馬は大きく暴れ、アイリスは馬上から振り落とされてしまった。幸い雪が落下の衝撃を和らげてくれたが、状況は最悪だ。
混乱した馬はその場から走り去ってしまい、アイリスだけがひとり取り残された。振り向くと、馬から降りた騎士たちがすでにそこまで迫って来ている。
(結局……私はどこに行っても自由になんかなれないのね……)
もはやどうすることもできず、アイリスは諦めたようにこちらに向かってくる騎士たちをただ眺めていた。疲労が極限に達していたアイリスには、その光景がどこかゆっくりに感じられた。
(ああ、もう……なんだか全部面倒になってきたわ……)
ぼんやりとした頭で、そんなことを考える。
(どうしてみんな、私の邪魔ばかりするのかしら。魔法協会の奴らも、こいつらも)
そして、最初にアイリスの元にたどり着いた騎士が剣を振り下ろそうとしたその時――。
疲れ果てたアイリスは、ポツリと言葉をこぼしていた。
「……邪魔な奴ら、みんな消えればいいのに」
その瞬間、目の前の騎士がバタリと倒れた。もちろんアイリスは、魔法など使っていない。
(な……にが、起きたの……?)
突然のことに、アイリスだけでなく他の騎士たちも困惑した様子を見せている。
騎士たちはアイリスを恐れるように、一歩、また一歩と後ずさった。
「お、おい……一体何が起きたんだ……!?」
「あいつ……し、死んだのか……?」
騎士のその言葉に、アイリスは頭から血の気が引いていくのを感じた。
(私が……殺した……?)
そしてアイリスは、自分のある変化に気づいた。なぜか魔力量がいくらか回復しているのだ。
理解が追いつかず呆然としていると、倒れていた騎士がわずかに動いた。その様子に、アイリスは深い安堵を覚える。
人を殺していなかったことに対してではない。人を殺す覚悟など、ローレンを刺客から守ると決めた時にとっくにできている。
そうではなく、無意識に誰かの命を奪ってしまった可能性に、強い恐怖を覚えたのだ。でも、殺してはいなかった。そのことに、深く安堵する。
「何をモタモタしている」
しばし流れていた静寂が、一人の騎士によって破られた。他の騎士たちの様子から見て、恐らく彼らの上官なのだろう。
その上官の騎士が、剣を抜きこちらに近づいてくる。
アイリスは先ほどのようにこの騎士のことも無力化したかったが、自分でもどうやってやったのかわからないため、やりようがなかった。
そして、上官の騎士はアイリスの目の前に来ると、その手に持つ剣を振り上げた。
(流石に……ここまでかしらね……)
アイリスは、諦めたように息を吐き目を瞑った。
しかし、アイリスにその刃が届くことはなかった。死を覚悟したその時、上官騎士の叫び声が聞こえたのだ。
「ぐああっ!」
驚いて目を開けると、そこには美しい金色の髪を持つ青年の、広い背中があった。
堂々とした王の風格――。
「我が妻にこのような真似をして、ただで済むと思うな!!」
そこにいるはずのないローレンの険しい声が、あたりに響き渡った。




