99.懐かしい人
アイリスはゆっくりと意識を取り戻した。
しかし、そこはいつもの夫婦の寝室ではなく、見たことのない小部屋の寝台の上だった。
次第に思考がはっきりしてくると、自分がなぜこんなところにいるのか嫌でも理解した。王城の自室の扉を開けた途端、気づけばどこかの廃教会に飛ばされていたのだ。そして、アトラス魔法協会の人間に捕まった。
恐らく彼らの目的は、現アトラス国王を追放し、アイリスを王にすげ替えること。
(もしそうなれば、私は一生自由になんてなれない……。陛下とも、もう二度と会えないかもしれない……)
自分の置かれた状況に、アイリスは恐怖で震えそうになった。
だが、ここでただ怯えているわけにもいかない。何か活路を見出さなければ。
(まずは、状況確認……!)
そう思い起き上がって辺りを見回すと、寝台以外には何もない随分と殺風景な部屋だった。窓も一切ないところを見ると、もしかしたら廃教会の地下室なのかもしれない。
次にアイリスは、この部屋にひとつだけある扉の外に意識を集中させた。魔力の反応からして、外には見張りが二人いるようだ。それなりの魔力量を持っていることから、二人ともアトラス魔法協会の人間だろう。
そして、自分の手首にはめられた手錠を見る。鍵穴がないところを見るに、どうやらこの手錠は魔道具のようだ。そして手錠には、翡翠色に輝く魔抗石が付いている。
(まずはこの手錠をなんとかしないと……解析して外すには、半日くらいかかりそうね。魔力を吸い取る類なのが厄介だわ)
魔道具であれば、魔法と同様で解析して無効化することができる。しかし、この手錠に少しずつ自分の魔力を吸われている感覚があり、外せた時に魔法が使えるかどうかはわからない。自分が既に安全な状況になってから外さないと、あまり意味がなさそうだ。
とはいえ、他にできることもなさそうなので手錠の解析を進めていると、寝台の下から突然カタカタという微かな物音が聞こえてきた。
何事かと思い恐る恐る寝台の下を覗き込むと、なんと床板の一部がカタッと外れたのだ。
思わぬ出来事に、アイリスの心臓はドクドクと早鐘を打っていた。状況から考えて、明らかに魔法協会の人間ではないだろう。
もしかしたら助けが来たのかもと淡い期待を寄せながら、アイリスは床板が外れた箇所を注視した。するとそこから、人の頭がヌッと出てきたのだ。
驚きで声を上げそうになったが、咄嗟に口に手を当ててこらえた。ここで声を上げたら、確実に見張りが部屋に入ってきてしまう。
そして、床から出てきた白髪の彼と目が合い、アイリスは再び驚かされた。その彼が、アイリスにとってよく知る人物だったからだ。
(これは……助けが来たと思って良いのかしら……?)
アイリスが彼の意図を見定められず困惑していると、彼は左の人差し指を口に当て『声を出すな』と暗に示しながら、右手で手招きをしてくる。
彼に付いていくか少し迷ったが、ここにいても逃げられる可能性は極めて低いと判断し、アイリスは彼の手招きにコクリと頷いた。
そして、物音を立てないように慎重に寝台の下に潜り、空いた床から梯子を伝って暗い地下道に下りていった。
地下道は部屋の中よりも格段に寒かった。いくらアイリスが寒さに強いとはいえ、まだ寝衣姿のままだ。このままでは流石に凍えてしまう。
アイリスが震えていると、見計らったように彼がとても温かそうなコートをかけてくれた。用意周到なところを見ると、やはり彼はアイリスをここから連れ出す前提で動いているらしい。
そして彼は、外した床板を元に戻すために再び梯子を登っていった。どうやら、今のところ見張りには気づかれていないようだ。
戻ってきた彼は唐突にアイリスの元に跪くと、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見上げてきた。
「お久しぶりでございます。アイリスお嬢様」
「久しぶりね。アーノルド」
アイリスの目の前にいる白髪の老人は、アイリスの父、フレッド・アトラスの最側近の男だった。
アーノルドは父に従順であるが故に、アトラス王国で酷い扱いを受けていたアイリスを一切救おうとはしなかった人物だ。それは、父の死後も変わらなかった。
叔父たちのように何か嫌がらせをしてくることはなかったが、彼はただ何もしなかった。どちらかと言えば、無干渉や無関心に近かった。
しかしそんなアーノルドが、今は酷くつらそうな表情でこう言うのだ。
「アイリス様、寒くはございませんか? あいにくその手錠はわたくしには外すことができず……お役に立てず大変申し訳ございません」
そんな気遣いの言葉、今までに彼からひとつもかけられたことはなかった。
アーノルドの態度に戸惑い、アイリスは訝しげな表情を彼に向ける。
「ええ、大丈夫よ。それにしても、どうしてあなたがここに……?」
するとアーノルドはその瞳に涙を溜め、慈愛に満ちた笑顔を浮かべた。初めて見せるその表情に、アイリスはまた戸惑ってしまう。
そして彼は、予想外の言葉を口にした。
「生前のフレッド様のご命令です」
「……お父様が!?」
アーノルドのまさかの答えに、アイリスは思わず声を上げていた。
(お父様は、亡くなる前から私が危機に陥ると知っていたということ……? そんな、まるで未来を視ていたかのようなこと――)
そこまで考えて、アイリスの脳裏にとある人物が思い浮かんだ。未来視の力を持つ、四代前の王にして先代の『黒髪緋眼』エマ・アトラスだ。
「お父様は、あなたに何と命令していたの?」
「詳しい話はこの地下道を進みながらにいたしましょう。あまり時間がございません」
「それもそうね」
そうしてアイリスは、アーノルドと共に暗くて寒い地下道を歩き出した。アイリスが転ばないよう、彼がランタンで足元を丁寧に照らしてくれている。母国にいた頃と比べ随分と対応が異なり、調子が狂う思いがした。
そしてアーノルドは、先程のアイリスの問いに答え始めた。
「わたくしは、今日この時間に廃教会からアイリス様を逃がすよう、フレッド様から仰せつかっておりました。この地下道も、アイリス様を逃がすために作ったものでございます」
父が亡くなったのは、今から十年も前のことだ。つまりその命令が下されたのは、十年以上前ということになる。
アイリスは、半ば答えのわかりきった質問をアーノルドに投げかけた。
「お父様は、どうしてこんな未来のことがわかったの?」
「フレッド様は、先代の『黒髪緋眼』であるエマ・アトラス様からの手紙にそう書いてあった、と仰っていました」
想像通りの答えだったのに、アイリスはほんの少しだけ胸の奥がズキリと痛んだ気がした。
父が自らの意志で救おうとしてくれた、と思いたかったのかもしれない。父から愛されていないとよくよく理解しておきながら、何とも未練がましい考えだ。
アイリスは小さな吐息と共にそんな思考を頭の隅に追いやってから、アーノルドに質問を続ける。




