96.さよならの足音
アイリスが学校から王城に戻り、制服からドレスに着替え終わった頃、ちょうど扉を叩く音が聞こえてきた。そしてその音に続き、少し息切れしたようなローレンの声が聞こえてくる。
「アイリス、いいか?」
「はい」
部屋に入って来たローレンは、アイリスの予想通り酷く苦しそうな表情を浮かべていた。自分のせいで彼にそんな顔をさせていると思うと、なんとも胸が締め付けられる思いがする。
(陛下にそんな顔、させたくないのに……)
彼の笑顔を見たのは、いつが最後だっただろうか。
そんな疑問が頭によぎった時、ローレンがこちらに駆け寄ってきてそのままアイリスを抱きしめた。執務室から走ってきたのか、やはり少し息が上がっている。そして、アイリスの耳元で、ローレンの低くかすれた声が聞こえた。
「……無事で何よりだ。またお前を危険な目に遭わせてしまった。本当にすまない」
ローレンの言葉を聞き、アイリスの心はさらに苦しくなった。最近、彼から謝罪の言葉しか聞いていないような気がする。
(陛下のせいじゃないのに……。私が、私の存在が、国に、陛下に、迷惑をかけているだけなのに……)
アイリスは苦しさと共に息をひとつ吐き出すと、なるべく声を明るくしてローレンに言葉をかけた。
「陛下、ご心配をおかけしてすみませんでした。この通り、怪我もなく元気ですので」
「……ああ」
少しでも安心させたかったのだが、ローレンの声は依然として険しさを帯びていた。アイリスは言葉に迷い、まずはグレネルの件を謝罪することにした。
「グレネル教授をみすみす死なせてしまって、申し訳ありませんでした。陛下暗殺の黒幕の可能性もあったのに……真相に辿り着く手掛かりを失ってしまいました」
「お前が無事なら、それでいい」
そう言ってローレンはアイリスを離すと、こちらの瞳を真っ直ぐに見つめてきた。彼の美しい顔は、変わらず苦しそうに歪んでいる。
そして彼は、驚くべきことを口にした。
「数日後から、しばらく城を空ける。俺が戻ったら、正式に離婚しよう」
『離婚』という言葉に、アイリスはハッと息を呑んだ。一気に心拍数が上がり、なぜか全身から血の気が引いていく感覚に陥る。嬉しい報告のはずなのに、なぜか心が酷くざわついている。
アイリスは動揺を気取られないよう、声の震えを抑えながらローレンに尋ねた。
「…………政権を取り戻す算段がついたということですか?」
「正確には違うが、概ねその通りだ」
離婚のためにローレンが提示した期間は三年だった。しかし、アイリスが離婚話を切り出してからまだ一年も経っていない。たった一年足らずで、彼は政権奪還の準備を完了させたというのだろうか。
ここ数ヶ月の間、ローレンがずっと忙しそうにしていたのは、離婚のための準備を進めていたからかもしれない。
するとローレンは、アイリスの頭を優しく撫でながら言葉を続けた。
「お前をこれ以上危険にさらすことはできない。離婚した後、お前はこの国を出て師匠の元へ行け。その方が、今よりずっと安全だ」
「…………」
ローレンに返事をしたいのに、アイリスは一切言葉が出てこなかった。
自由になることを今まで強く望んできたはずなのに、どうしてこうも胸が苦しくなるのか。師匠にだって、ずっと会いたかったはずなのに。アイリスは、自分の感情がさっぱりわからなかった。
何か言わないとこのまま彼がどこか遠くに行ってしまいそうで、アイリスは必死に言葉を探した。
「……どこに、行かれるのですか?」
「それは、帰ってきたら話す。悪いが今は言えない」
「エリオットの行動が読めない今、城を離れるのは危険では? 私も護衛として付いていくことはできませんか?」
「それはできない」
ローレンはキッパリとそう言うと、アイリスの肩を優しく掴みこちらの顔を覗き込んできた。眉根を寄せた彼は、その碧の瞳でアイリスをじっと見つめる。
「俺が帰って来るまでは、絶対にこの城から出ないでくれ。不自由を強いて、本当にすまない。だが、約束してくれ。頼む」
「わかり……ました……」
ローレンから強く懇願され、アイリスはそう答えるほかなかった。
そして彼は、再びアイリスを抱きしめた後、その場を後にし公務へと戻って行った。
ローレンが去った後、アイリスは自室のソファに崩れ落ちるようにして座り込んだ。彼の言葉を脳内で反芻するたび、胸の内がぐちゃぐちゃにかき乱されていく。
(私はもうすぐ……この国を去ることになる……)
アイリスは自分の胸をぎゅっと押さえながら、浅くなった呼吸を何度も繰り返す。
(離婚できて嬉しいはずなのに……ずっと自由になりたかったはずなのに……苦しくて仕方ないのはどうして……?)
結局夜になっても答えは出ないまま、アイリスはいつものように夫婦の寝室でローレンが来るのを待った。しかしその日の夜、アイリスが眠る前にローレンが現れることはなかった。
その後も、ローレンとはろくに会えない日々が続いた。彼が毎日、アイリスが眠った後に寝室に来て、アイリスが起きる前に公務に出かけていくからだ。また、ローレンが多忙を極めていて、食事を一緒に取ることも難しくなっていた。
そしてそんな日々が何日か続き、とうとう彼が出立する日がやって来てしまった。
***
出立する日の早朝。ローレンは隣で眠るアイリスを愛おしそうに見つめていた。優しく彼女の頭を撫でながら、小さな声でポツリとつぶやく。
「これで……全てが終わる。どうか無事でいてくれ」
そして、アイリスの額にキスを落とすと、ローレンは出立に向け足早に自室へと戻っていった。その瞳には、覚悟を決めたような鋭さが宿っていた。




