93.一難去って、また一難
「私はもう、後戻りができないんだ……」
グレネルはそう言うと、一歩、また一歩とアイリスに近づいていく。
(早く……解毒を完了させないと……)
アイリスが焦りながらそう思った、その時だった。
実験室の扉がパキンという音と共に外れたかと思うと、そのままゆっくりと床に倒れ、バタンと大きく音を立てたのだ。
何事かと思い、アイリスが重たい頭を持ち上げながら扉の方に視線を向けると、そこには担任であるマクラレンが立っていた。しかし彼は、なぜかいつもの黒縁眼鏡をかけていない。
「あ、すみません。扉、壊しちゃいました」
マクラレンは首に手を当てながら申し訳無さそうにそう言うと、倒れた扉を踏みながら実験室に入ってきた。思ってもみない人物の登場に、グレネルは驚いて目を見開きながら声を上げる。
「……マクラレン先生!? なぜここに!?」
「なぜって、かわいい生徒が危ない目に遭ってたら、助けに来るのが教師の役目でしょう?」
マクラレンはいつものにこやかな笑みを浮かべながらそう言ったが、その目は全く笑っていなかった。
(マクラレン先生はキレたら相当怖いって、以前リザとエディが言ってたけど、なるほど……)
アイリスがまだぼやけた思考でそんなどうでもいいことを考えていると、マクラレンがこちらに近づいてきた。
そして、彼が屈んでこちらに手をかざした瞬間、アイリスは一気に体が楽になるのを感じた。恐らく、無詠唱で回復魔法をかけてくれたのだろう。
アイリスは今の事態に頭が追いつかず、驚いた表情でマクラレンを見上げた。
「先生……どうしてここが……?」
「ああ、あのリボンのおかげです」
マクラレンは穏やかな表情でそう答えると、アイリスの学校用の鞄を指差した。
そこには、以前ルーイからもらった緋色のリボンが結ばれている。ルーイに『鞄にでも付けておいて』と言われ、せっかくなので鞄の取っ手に結んでおいたのだ。だが、それでどうしてこちらの居場所がわかったというのだろうか。
「リボンに何か細工でも……?」
「あのリボン、実は魔道具で、アイビーさんを守りやすいようにルーカス君が気を利かせてくれたんですよ」
「え……?」
マクラレンの言葉に、アイリスは目を丸くした。
魔道具なら多少の魔力を発するので、ルーイから受け取った時点で気づきそうなものだ。
(もしかしたら、諜報員用の優れ物なのかも……。いや、そんなことよりも、ルーイと先生ってどういう関係なの? そもそも、どうして先生が私を守ろうとするの……?)
いくら考えても諸々の事情が理解できず、アイリスは呆けた顔でマクラレンを見つめていた。すると彼は、微笑みながら傍らに落ちていた仮面を手渡してくれる。
「詳しい説明はあとにしましょうか」
マクラレンはそう言って立ち上がると、呆然と立ち尽くしているグレネルの方に向き直った。マクラレンにいつもの笑みはなく、彼は鋭い視線をグレネルに向けている。
当のグレネルは、マクラレンの登場に随分と怯えた表情を浮かべていた。この相手には勝てない、終わった、と思っているような、絶望が滲んだ表情だった。
すると、グレネルは震える声でなんとか言葉を発した。
「ま、待ってください、マクラレン先生……これは……」
「流石に弁明の余地はないでしょう。ねえ、グレネル教授?」
そう言うマクラレンの声は、今までに聞いたことがないほど冷たいものだった。そして彼は、グレネルを睨みつけながら短く問いただす。
「誰の命令ですか?」
「言えない……言ったら殺されてしまう……」
そう答えたグレネルは、顔を真っ青にしながら一層怯えた様子で震えていた。マクラレンよりもずっと恐ろしい人物を思い起こしているようだった。
一方のアイリスは、マクラレンの問いを聞いてハッとしたように思考を巡らせていた。
(このタイミングで私を捕えようとしたということは、グレネル教授は魔族と繋がっているんじゃ……? さっき『あの方の命令には背けない』って言ってたのは、エリオットのこと……!?)
アイリスはつい二ヶ月ほど前に、大魔族である「道化のエリオット」によって攫われそうになったばかりだ。今回のことも、彼が裏で手を引いていると考えるのが自然だろう。
(学校、魔族、そして研究員――)
その三つの言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、アイリスの頭の中ですべてが繋がった。
アイリスはゆっくりと立ち上がりマクラレンの前に出ると、厳しい視線をグレネルに向ける。
「グレネル教授。あなたがマーシャさんを利用し、陛下を暗殺しようとした犯人ですか?」
この学校の研究員であるマーシャ・ルーズヴェルトが、ローレンの自室の結界を破った事件――。アイリスはその黒幕がグレネルなのではないかと考えた。
マーシャに結界の解除を依頼した黒幕は、彼女の研究内容とギフトの力を知っていた人物だ。この学校の中でも研究員として特に名の通っているグレネルなら、マーシャの研究内容を知っていたとしてもおかしくはない。
それにあの事件には、明らかに魔族が関わっていた。たった十日でローレンの自室の結界を解いた人物だ。大魔族であるエリオットなら、それくらい十分にやってのけるだろう。そのエリオットとの繋がりも疑われるなら、グレネルが黒幕である可能性は十分に考えられる。
アイリスの問いに、グレネルは冷や汗を垂らしながら酷くうろたえていた。
「そ、それは……」
彼がようやく何かを話し出そうとしたその時、アイリスはピシッという音と共に魔力反応を感知した。
(転移魔法!?)
そう思ったと同時に、マクラレンによって腕をぐいっと引っ張られ、アイリスは彼の背の後ろに庇われる形になった。
「が……ごほっ」
グレネルの苦しげな声が聞こえ、アイリスが慌ててマクラレンの背から顔を出すと、目に写ったのは何者かが後ろからグレネルの胸を貫いている光景だった。
ハッとしてグレネルの背後を見ると、そこには黒いローブに身を包んだ長身の人物がいた。
フードを目深に被っており顔はわからないが、魔力量からして大魔族であることは明らかだった。
「哀れな男だ。雇い主に捨てられるとは」
ローブの男は感情のこもらない低い声でそう言うと、徐にグレネルから腕を抜いた。既に意識を失っていたグレネルは、その場に崩れ落ちて倒れ込む。
「グレネル教授!!」
アイリスが慌てて駆け寄ろうとすると、マクラレンに腕を掴まれ止められた。
(グレネル教授に死なれては、事件の真相が闇の中に葬り去られてしまう……!)
焦るアイリスは、マクラレンに抗議しようとバッと彼を見上げた。しかし、彼の表情を見て思わず言葉に詰まってしまった。マクラレンは魔族を見ながら驚いたように目を見開き、今までに見たことがないほど険しい表情をしていたのだ。
すると、黒ローブの魔族がアイリスの方を見据えながら言葉を吐いた。




