描けた地図・欠けた部屋・駆ける街
………………、……………して、しまった………。
「アン」
冷やかなヴィスカの声が寝起きには悪い。その声と身体を浸す冷たさですぐに頭が覚醒していく。
「あふ」
「おい、またかよ」
「まあまあ」
そしてランブに叱られ、セロはとうとう庇えなくなっていた。がう。
「私が片付けてから宿主に伝えますから、ランブは洗ってあげてください。たしか、井戸がありましたから」
水がない場合は布で身体を拭かれていたが、この宿近くに井戸があるらしく文句を言いながらランブにそこまで連行された。
裸で宿泊者や表通りにいる人々に見られたが、唯一身に付けている拘束具をみて、奴隷と認識したのか皆は興味をなくしてそれぞれの行動に移っていく。それほど奴隷は日常に溶け込んでおり、奴隷主とのいさかいを避ける為に例え興味があっても皆して目を反らす。
それでも同じく奴隷を飼っている富裕層や警備兵などは値踏みをするように視線を向けてくる中、ランブはそれらを無視して私を井戸の前に立たせる。
「あぶっ、つめたい」
そして、いきなり頭から水を掛けられた。
虐待的な行動も奴隷なら当たり前と言うように、誰も口を挟まない。そして、本当に興味が失せたのか視線も次々に離れていった。
そんな事を一切気にしないで、私を終始叱りながら身体を洗い、持ってきた布で身体を拭かれて部屋に戻ってから服を着せられた。この時にはもう汚れた布団は無くなっていた。
宿屋に隣接した酒場にて朝食となったが、お預けを言い渡された。
「………あうー」
ランブは小うるさいお母さんみたいだ。
いや、お母さんがどんなものか解らないけど、たぶんこんな感じだろう。
皆が食べている横でそれを眺めていると、次第に人が増えてきた。朝からお酒という人もいるみたいで、賑わう前に朝食を済ませて宛がわれた部屋へと移動する。
そんな感じで一日が始まった。この時には夢の内容は綺麗に忘れ去られていた。
「急ぎたいとは思いますが、今日はここで情報を集めましょう」
「王都での治安がさらに悪くなってきてるみてーだしな」
「アンはお留守番しておきな」
三人が口々に言いながら宿を出て行った。
さすがに一週間連続だと皆は呆れて怒ったみたいだ。
苦いだけの野草のペーストも食べれず、見せしめのように皆に見られながら洗われて、そして一人お留守番を言い渡された。
うー…………。がう。
部屋に備え付けられている荷物を入れる木箱にすっぽり全身を入れて心を落ち着かせる。狭い場所は落ち着くのだ。
棄てられないよね。
ふと、そんな事を胸中に過った。
それは瞬く間に不安となり膨れ上がっていく。
部屋には皆の荷物はなかった。
必要最低限の荷物しか持ち歩かず、借りた宿も必ず安全とはいえない。よって、各自で荷物は常に持ち歩いている。
だから、ここには荷物も含めて私一人だけが置いてある。安全とは言えない場所に私だけが置かれている。そんな状況に私だけがある。箱に収納して、忘れられた荷物として。
不安は膨張する。拡散する。無軌道に。支離滅裂に。
「ヴィスカ!?ヴィスカ!!ランブ!!ボス!!どこっ!?」
暗い考えに潰されないように、こんな大声を出したこともないのに。ただただ、名前を連呼しながら部屋を飛び出した。
軽薄な行動とは思わずに。
***
「はふっ、はあはあ、ふーっ、ふーっ」
ここなら、大丈夫、だよね?
民家と民家の僅かな隙間から外の様子を伺う。
しばらくし、質素な甲冑を装備した三人の兵士が辺りを観察しながら通り過ぎた。
「………、………、………あふぅー」
通り過ぎた後も息を殺し、様子を見たが戻ってくる気配はなかった。どうやら、見つからずに済んだようだ。
なぜ、隠れなければいけなかったのか。
事の発端は宿から飛び出したことに始まる。
ヴィスカたちを捜しながら街中を走っていた。
匂いを追っていたが、人や物の臭いが混じり過ぎているためか、なかなか見つからずに駆けながら捜していたら、先程の兵士の一人にぶつかってしまった。
あとは簡単。捕まりそうになり逃げて、隠れて今に至る。
兵士たちが漏らしてした言葉を反芻する。
ハグレ。脱走。売る。バラす。犯す。その他にも走りながら三人の会話の断片が聞こえた。
過去、曲刀を突き付けられた時、ワンコたちに噛まれた時、恐怖なんてなかった。なのになぜ今は怖いと思ったのだろう。
「ヴィスカ」
私を棄てて王都へ向かったのかな。
たった二週間ほど。
たったそれだけの時間。誰の事も知らない。それなのにどうしてこんなに苦しいのかな。
ここから動くことも出来ずに、顔を伏せて涙を拭った。
いつの間にか、感情の起伏も大きくなっていた。
弱い。ここまで弱くなってしまったなんて。何も持ってないときは強かったはずなのに、もうすごく昔のようだ。
まだ午前中で、小規模ながら朝市などにより人の往来もそこそこあるのに、ここだけは違う世界のように感じる。
「ヴィスカ」
もう一度名前を呼んでも返ってくる言葉なんてなかった。
私が邪魔だったからかな。
ある意味、私が無理矢理着いていったのが始まりなのだから。
おねしょがいけなかったのかな。
ランブの忠告も聞かずに水や好きな山羊乳を沢山飲んで、一週間連続でしちゃったから。
ワンコに襲われたのがダメだったのかな。
傷が消えても常に感染症などに注意してくれた。私を思って、一生懸命薬草や野草を捜してくれたのに苦いからと文句を言っていたから。
愛想がないのが気にくわなかったのかな。
いまいち感情の出しかたが苦手で、なんて話せばいいのかも解らなかったから。
優しくしてくれたセロにも、ヴィスカと話しているのを見るとモヤモヤして聞こえないフリもした。
最悪だよ、私。
弱くなったんじゃない。ただ、甘えていたんだ。こんな温もりに包まれた状態に甘えていたんだ。
これからどうしよう。
ワンコたちを見つけて、いっしょに暮らせるかな。
ううん、それじゃまた甘えちゃう。皆優しかったから。
あの草原に戻りたいな。
何も持たずに、何も知らなく、何も感じない時に。
私が目覚めた場所が、もうかなり前の記憶のように色褪せていた。
楽しかったんだ。
出会ってからの二週間近くの時間で私を変えてしまった。
私は、どうしたらいいのだろう。
………………ヴィスカ………。
民家の陰に身を潜めているうちに、活力までなくなりその場で無防備にも眠ってしまった。
「さみしいなんて知らなかった」
*奴隷保護十戒*
奴隷保護の為、以下の項目を厳守すること。
・人間として扱うこと
・衣食住をきちんと与えること
・最低限の学習を施すこと
・労働は十四時間までに抑えること
・過度の罰を与えないこと
・身体の一部でも損失させないこと
・二年おきに更新、身体検査を受けること
・奴隷闘技を行わないこと
・奴隷同士の交配は一度にたくさん行わないこと
・無許可での廃棄、売買を行わないこと
十戒を破った場合、禁固二十年以外または百万ベル以下の罰金を処すものとする
杯歴三二六年
シャルル王国
十戒改変 杯歴五一一年
杯歴七零九年
杯歴一零零五年
※現在、十戒を守るものはほぼ皆無な現状となっている。
「奴隷だった時、私はどうだったんだろ。幸せ…じゃないよね」




