いまは、ひと夏の冒険を。
あまい、水の香りがする。
船で大河を下ること二日。もう何年も夏の恒例行事となった翠海国セフュラへの旅の醍醐味は、こんなところにもあるのかも知れない。
群生する睡蓮がうつくしいキウォン湖のほとり。白亜の神殿に似た王宮の一画。その端正な客棟の二階にある見晴らしの良い一室は、十歳で初めて父の供で訪れてからというもの、エウルナリアのためだけの部屋になりつつある。
だから、もう慣れっこだ。
(起きなきゃ。夜明けだ)
まぶたの裏に光の白を感じる。
名の知らぬ小鳥たちが交わす愛らしい囀り。
目の細かい網の張られた小窓は、キウォン湖からの朝日と風を通す。
うつら、うつら、いまの自分がどこにいるかを思い出したエウルナリアは、ぱちっと青い瞳をひらいた。緩く波打つ黒髪が枕とシーツの海から、するっと離れてゆく。
わずかに寝台を軋ませて床に降り立った少女は、まっすぐ露台へと向かった。申し訳程度に引っ掛けた室内履きのまま、扉を開けて庭を見下ろす手すりに両手をかける。
白々と、まさに払暁の光が蓮のキウォン湖を染め抜く瞬間だった。
湖面の朝霧は風に揺らいで、景色をいっそう幻想的に。空の藍色の名残は薔薇色の雲に。細い三日月は薄らいで。真新しい空気は、どこもかしこも澄み渡っていた。それを胸一杯に吸い込む。
「よかった。今日はいい天気になりそう……」
鼻腔を満たすのは、やっぱり夢じゃなかった異国の花と水の香り。
ちゃぷん、ちゃぷんと寄せる波音を感じながら、エウルナリアはにっこりと笑い、独り言ちた。
* * *
セフュラでの滞在は、公務とは名ばかりの夏期休暇のようなもの。
セフュラ王に歌を献上して歓迎の宴をこなしさえすれば、あとは基本的に自由の身だ。
今年のエウルナリアには、例年にはない野望があった。
「――何。港へ?」
「はい。ジュード様。よろしいですか? お忍びがいいんです」
「アルムは? いいのか、それで」
「構いません。こちらで護衛は付けますし、私は娘の自立心を尊重していますので」
アルムと呼ばれた黒髪の歌長は、年齢不詳な笑みをにこり、と浮かべた。
芸術を生業とする小国レガートの、音楽の担い手。“楽士伯”という風変わりな爵位を継ぐ男性はひどく甘い雰囲気の美青年だが、煮ても焼いても食えないと評判だったりする。
会食を兼ねた朝食の終わり。
精悍な美貌に灼けた肌、プラチナ色の短い髪の王――ジュードは、うへぇ、と口を歪めた。
「姫を溺愛して手放さない父親が、よく言う」
「エルゥが可愛いのは未来永劫当たり前ですが、時期が来ればちゃんと手放しますよ」
「どうだか」
挑発的な笑みを向けられたアルムは口許をナプキンで拭き、優雅に食後茶へと手を伸ばす。
同じように食事を終えたジュードは、沈むようにラタンの背もたれへと寄りかかった。
ちょっと拗ねたように。
すると、そろそろ四十になるとは思えないやんちゃさが滲む。
カタン、と茶器をテーブルに置く音がしずかに響いた。中身は空だった。
「一々うるさいですよ、陛下。貴方への輿入れも養女の申し込みも断ったからって、根に持たないでください」
内容がどんなものであれ、容姿と同じく印象的な甘いテノールが爽やかに苦言を紡ぐ。
(まただわ)
エウルナリアは傍らでこっそり困り笑いを浮かべた。
憎まれ口を叩きあっても、この二人は仲がいい。それこそ未来永劫。※たぶん
案の定、かつて父の学友だったという国王はさして気にした様子もなく、はいはい、と肩をすくめた。
* * *
「エルゥさま。ジュード陛下からの許可は下りましたか?」
「うん! レイン。やっとよ!」
散会。
晴れて保護者達から言質をとった少女は、満面の笑みで従者の少年のもとに走り寄った。
客棟の庭に流れる、花びらを浮かべた水路はきらきらと陽射しを弾いて二人の影を映す。「グランは?」
「かれなら先に桟橋へ。舟の手配に行きました」
「手早いね」
「もう五年になりますからね。エルゥ様の行動力と頑固さについては、すっかり把握してるんだと思います」
「ううん……おかしいな。あんまり褒められた風に聞こえないのは、気のせいかしら」
「褒められたかったんですか?」
「いいえ、別に」
エウルナリアは唇を尖らせた。
勢いよく駆けたせいでこぼれ落ちたフードを被せる手つきも、微笑みもこの上なく優しいのに、同い年の栗色の髪の少年は、とてつもなく口が悪い。
乳兄弟でもあるレインは、今回護衛を頼んだ元・騎士見習いのグランとほぼ同じ、正式な主従関係を結んだ十歳の春から五年とちょっとの付き合いとなる。
乳母のキリエ曰く、“お嬢様への礼儀がなっていない”と事あるごとに下される、辛辣な評価も何のその。出会ってから一途に慕ってくれる、大人びた幼馴染みでもある。
あるのだが。
すっかり日除けのマントを整えられ、恭しく手を引いてくれる少年に眉尻が下がる。
かれの場合、黙っていれば完璧な従者ぶりなのだ。
「ね、レイン。過保護じゃないかしら。私だってセフュラに来るのは六度目なのよ? これじゃあ……その、目立っちゃって。お忍びとは」
「お言葉ですが」
主の言をぶった切り、涼やかな笑顔のレインは灰色の瞳を細めた。
「エルゥ様のお姿は、多少マントを被ったくらいでは誤魔化せません。何をどうしたってやんごとない貴族の姫君で、現実離れしたうるわしさです。なら、安易な偽装など逆効果です」
「逆効果……?」
いやいや。
自分はともかく、レインだっておとぎ話の王子様みたいに綺麗な男の子なのに。顔だちはもちろん、立ち居振舞いにだって、凛とした華がある。
エウルナリアは疑り深く首を傾げた。
目が合うと、今度はレインが困り笑いとなる。
「…………今回は、セフュラの地理に明るいグランが同行してくれて本当によかったです。慇懃なセフュラ騎士をお借りしては悪目立ちですし、貴女の護衛は、残念ながら僕だけでは務まりませんし……。なまじ人懐こくていらっしゃるので、これ以上危険だの恋敵だのは増やしたくないんですよね」
「! ま、待った、レイン。ストップ!」
「はい?」
きょとん、と目をみはるレインの表情には相変わらず真摯さしかない。
頬を赤らめたエウルナリアは、上目遣いに従者の少年を嗜めた。
「レイン。また、従者っぽくないこと言ってる。キリエに叱られるわ」
「あぁ、それなら」
ひとしきり吐露してすっきりしたのか、つややかな長髪をうなじで一つに括った少年は、にこりと頬を緩めた。どこか、父の歌長に似た笑みだった。
――――食えない。優しげなのに手強い、と評される。
「いつものことです。僕が貴女をお慕いするのも。貴女の望みを叶えるべく、できる限りの手を尽くしたいのも。変えようがありません。ずっと、好きですよ。エルゥ様」
「~~~っ!!」
ふいに、指を絡めてつよく引き寄せられた。
とどまれず、レインの胸におでこをぶつけてしまう。それなりに鍛えているレインの体幹は、微動だにしない。
庭から王宮正門へと向かう最短ルート。庭から回廊の入り口に差し掛かる、一瞬の隙。大小の高さの植え込みが作り出した木陰で、ふいに至近距離から囁かれた。
目許が、あつい。
――最近、一方的に見上げている。自分よりも、おそらくは、かれのほうが成長期。
距離の近さに火照った頬を誤魔化したくて、くやしくて視線を逸らした。それでも離してはもらえない。
「お、大げさよ。望みって。『こっそり海を見に行きたい』って、言っただけなのに」
生国のレガートは、内陸の湖に浮かぶ島の小皇国。
海と見まがう景観とよく聞くが、外つ国に面した港を有するセフュラのほんものの翠海とは、どんなものか。いつか見てみたいと願っていた。
できれば、懇意にしているジュード王の行幸の供ではなく、もっと直載的な。
(せっかくの休暇なんだもの。自分達だけで冒険してみたかった、なんて――……あっ!)
「エルゥ様?」
「なな何でもない! 行きましょうレイン。グランが待ってるわ」
「そうですね」
思ったよりあっさりと普通のエスコートに切り替えられた。涼しい横顔の少年を、少しだけ睨みつける。
こんなの、どこ吹く風だ。わかってる。それでも。
――無意識で『自分達』と願っていた。
それはいったい、じぶんと誰のことを指すのか。
(わかってるのかな。ばれてる……。ばれてない??)
唇を噛む。精一杯の普通を装う。
好きになっちゃだめ。
私は、跡取りだから。
おとなになった自分の隣には、きっと、父上の定めた条件のお婿さんがいる。
ひんやりとした石の回廊を進む。
やがて、顔見知りになった門衛の兵士に「お出かけですか、楽士伯の姫」とにこやかに見送られて桟橋へ。晴れ渡る南国の陽射しがまぶしい。
自由なほうの手で庇を作り、にわか拵えの影から空を仰いだ。
ジュードの招致を受けた楽団と自分達を乗せた船は、大河の支流からキウォン湖へと流れついた。
その先の、いくつもの枝分かれした水路の街の向こうに、まだ見ぬ海がある。
いまは。
(――だめ。かれに、ずっと側にいて欲しいのなら)
引っ張られる。分かたれる。
分かちがたく、共にありたいのに。
* * *
「おおーーい! 待ちくたびれたぞ、二人とも!」
「すみませんグラン。今日はよろしくお願いします」
「おう。任せとけ。……って、エルゥ? 大丈夫か。顔色」
「ん、平気。ありがとう」
すっかり荷を整えて小舟を用意してくれていた、二人めの幼馴染み。赤髪の、騎士見習いだった少年に思わしげに覗き込まれてしまう。
鋭さに舌を巻く。同い年なのに、まったく、かれらには敵わない。こんなところにも学ばされる。励まされ、奮起する。くよくよしてなんて、いられない。
いつの間にか、一緒に過ごすのがしっかりと『普通』になっていた。三人でのぞむ旅。そんな形でも、ちゃんと心は躍る。わくわくと弾む。
いま、漕ぎ出せる現実の未知の場所へ。
片方の目を瞑って、ひと夏の冒険へ。
「さ、行きましょ。セフュラで三人だけなんて十歳のとき以来だもの。よろしくね、グラン。レイン」
「うっ、……あぁ」
「はい、エルゥ様」
エウルナリアはにこにこと笑みを深め、異国にあって生国のレガート湖そのものを思わせる色彩――宝石めいた極上の真青と名高い瞳を和ませた。
~おしまいにもならない、続きがありそうな一頁~




