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幕末最前戦の戦士たち  作者: コトハ
はじまりは夢の中で
54/54

こうろこうろ

梅雨も開けて、急に暑くなった。


「梅雨のじめじめも嫌だなーって思ってたけど、暑いのも嫌ですね……」


外から戻ってきた山崎さんに話しかけた。


最近腹痛の隊士が多い。


すっかり山崎さんカラーに占拠された救護室で、隊士のカルテを整理していた。




「この人たち何食べたんですかね?」


山崎さんは黙ってカルテを一瞥して、竹の水筒から水を飲んだ。


「――なあ、公家さんと仲良うしたら浪士組が無くなるて、あのお梅が芹沢はんに言い付けとったけれど、何か入れ智恵したか?」


「え!?うっちゃんが!?」


「新見はんが何かこそこそしてましたえーって――」


山崎さんの話の途中で、救護室を飛び出した。



そんな風に話したら、新見局長が何か悪いことしてるみたいじゃない!?


こそこそって……



八木邸の門を潜って、玄関で声を掛けた。


「失礼します!お梅さんいますか!?」



中から着流しで原田さんが顔を出した。


「いねえよ。あいつらべたべたしやがって、見てるだけで暑苦しいな」


横を下駄を突っ掛けて、外へ出た。



野口さんと永倉さんも玄関に出てきた。


「……そういうや、近頃あの娘見かけないな」


永倉さんが暑いなと、うちわで扇ぎながら原田さんに話しかけた。



「ケンカでもしはりましたか?」


前より少し上手くなった関西弁で、野口さんも笑いながら声を掛けた。


「――誰だそれ?」


機嫌の悪そうな原田さんの声が外から聞こえた。



原田さんと娘って言ったら……浮かんできたのは


「まささん?」


「そうそう。おまさちゃん」


永倉さんがからかうように原田さんの肩に手を置いた。



「――福田ちょっと来い」


どう見ても怒りの原田さんに、腕を捕まれて八木邸を出た。



そのまま引きずられるように、近くの寺の門を抜けた。


すれ違った平間さんと平山さんに、頭を下げると


「どうしたんだ?」


平間さんが心配そうに声を掛けてくれた。


「えっと……」


止まらない原田さんに引きずられながら


「あ!うっちゃん……お梅さん知りませんか!?」


引きずられる前はうっちゃんと話をしようと思っていたんだ。


「それなら芹沢局長と菱屋に行ったよ」


菱屋って、うっちゃん家じゃなかった!?


「ええ!?何しに行ったんですか!」


「うちで預かると話しに行ったよ。それで――」


そこまでで声が聞こえなくなってしまった。



茶店の前を通り越して、境内の影に引っ張られて、ようやく原田さんは腕を離した。


うっちゃんを預かるって本当に浪士組の屯所に来るの!?うっちゃん!


そこは日陰になっていてひんやり心地よかった。


原田さんは狭い境内の裏をうろうろして、足を止めてはまたうろうろしていた。


「――どうしたんですか?何もなかったら私忙しいので失礼します!」


菱屋ってどこだったかな?


この間、西陣がどうとか言ってなかった?


八木さんに聞いたら分かるかな?



「――お雪どこにいる?」


駆けだそうとして足を止めた。


「お雪?妹のお雪ですか?」


「他に誰がいる!用があるから連れてこい」


……これは、どうするべきだろうか?


女だって言っていいんだから、実は私でした~って言ってもいいんだよね?


……いいんだよね?


境内の塀にもたれて、原田さんは腕組みして地面を睨んでいた。


「……実はですね。それ、私なんです」


「……冗談はいいから連れてこい」


色素の薄い切れ長の目で睨みつけられて、壁に追い詰められた。


ひやりと壁の冷気が背中に伝わると、原田さんのこぶしが耳の横に叩きつけられた。


いわゆる壁ドン……いや、これは別の意味で心臓がきゅんとしたよ!!


「は、はい!只今!!」


思わず返事をして、その場をダッシュで逃げ出した。



救護室へ戻り、女物の着物を風呂敷から取り出した。


「――なんや?」


救護室にいた山崎さんが眉を寄せたけれど


「着替えますので!」


隣の部屋の襖を閉めた。




「……どうしよう。帯の結び方はぶんこ結びでいいのかな?」


今まで帯の結び方なんて、気にもしなかったけれど、待ちゆく娘さんは四角い結び方にしてるよね?


おかよさんは三角の形にしてる……


襖を少し開けて顔だけ出した。


「……山崎さん。女の人って、帯どうやって結んでました?」


「……いろいろですわ。福田さんのいつもの帯でええんちゃいますか?」


こっちに背中を向けたまま、やけに丁寧に返事をしてくれた。


「ありがとうございます……」


しかし、暑いな。


襦袢て絶対着なければならないのかな?


なんとか着物を着て、髪をくるくる一つにまとめた。


手鏡を覗いて、


「――あー、もう少し横のふくらみが欲しいけど、緊急事態だし……」


そうだ!


頬っかむりして行ったらいいじゃん!


「野菜売りのあぐりちゃんも頬っかむりしてて、可愛かったもんね」


襖を全部開けると、山崎さんが正座してこっちを見上げた。


「……おかしくないですか?」


「逢引ですか?」


人のよさそうな嘘笑顔で逆に質問された。


「違いますよ!原田さんがお雪を連れて来いって言うから。お雪は私だって言ったんですけどね」


「へー」


「ちょっと行ってきます。すぐ戻りますから」


救護室の縁側に下りると、沖田さんと馬越さんが風呂敷包みを抱えて、蔵から出てきた。


「……お前何してんだ?」


沖田さんの隣で、馬越さんが本を落とした。


「原田さんがお雪を連れてこいて言うから、ちょっと行ってきます」


「原田さんが?お雪に?」


首を傾げる沖田さんの横で、馬越さんが拾った本をこっちに投げてきた。


「……その手ぬぐいは何ですか?盗人ですかい?」


「いや、どじょうすくいだろ?」


「え?変!?」


馬越さんが手拭を巻き直してくれた。


「ありがとうございます!行ってきます」


投げられた本を返した。


「……あ、もうすこし衣紋は抜いた方がええな……」


襟の後ろを引っ張られた。


「……今日の襦袢は俺好みの奴ですね……」


「!?」


何か言い返そうと思ったけれど、門から隊士が戻って来たのが見えて、沖田さんの後ろに隠れた。


いや、隠れなくていいんだって。


「行ってきます……」


雑魚部屋の方に一歩踏み出す。


隊士の雑談する声が止まった。


うつむいたまま間を縫って、門を飛び出した。


「……誰や今の?」


「ああ。お雪さんです。福田さんの……」


馬越さんの説明する声が聞こえた。





境内までダッシュで行くと、原田さんは塀にもたれて物思いに空を見上げていた。


……あー、超ドキドキした


何も悪いことしてないのに、こそこそしてしまうのは何でだろう?



「原田さん?」


気付く気配のない原田さんに、声を掛けるけれど、ぼんやり空を見上げたまま。



――顔が好きって、おまさちゃんは言っていた。


全体的に色素が薄くて、つり目気味。


「白い狐って感じ?」


原田さんがふいにこっちを見た。


「こ、こんにちは」


原田さんは無言で歩いて来て、いきなり足もとに土下座した。


「どうしたんですか!?」


慌てて、地面に膝をついた。


「――お友達をやめるって」


「…………やめる……?」


「やめなければもう会いませんて何だ?」


原田さんは心底困惑した顔を上げた。


「……なんでしょうね……本人に聞いてみたらいいじゃないですか?」


「……本人に?」


頷くと、原田さんは立ち上がって、私の腕を掴んだ。


そのまま境内を突っ切って、寺を出た。




「どこにいくんですか!?」


「まさに聞きに行く」


その名前を聞いて、掴まれていた腕を振り切った。


「一人で行って下さい!それに何で私に話してんですか!?」


原田さんは黙ったまま、こっちを見下ろしていた。


「良く考えて下さい。もしおまささんが、二人の問題を他の男に相談したら嫌でしょう?」


原田さんは首を傾げた。


「ましてやその男と二人で原田さんの所に来たら、もっと嫌でしょう?」


「……そんなことあるわけないだろ?おまさは俺が大好きでしようがない位だって言ってらぁ」


――真面目な顔で良くそんなこと恥ずかし気もなく言えるな。


「……じゃあ、なんでもう会いませんて言われたんですか?」


「……全く腑に落ちん。何故だ?」


「……だから私に聞かないで、おまさちゃんに直接聞いた方が早いって!」


原田さんは瞬きして


「聞いたが拗ねて、もう口すら聞いてもらえん……」


「――何したんですか?」


「何もしてない。お前にお友達でいろと言われたから、指一本触ってもいねえ」


どうだと言わんばかりの得意気な原田さん。


「……おまさちゃんちってどこですか?」




「私も暇ではないんだけれど……うっちゃんに会わないといけないんだけど…私も恋愛経験は乏しく、彼氏だっていまだに出来たことないんだけど」


原田さんを置いて、一人でおまさちゃんちを訪ねた。


おまさちゃんちは小間物屋さんで、小さな店の外に、赤い傘と床几に扇子が並んでいた。


お店を覗くと、前掛けをしたおまさちゃんが出てきた。


「……こんにちは。お久しぶりです……」


「お雪ちゃん!」


おまさちゃんは満面の笑顔になって、くしゃりと顔を歪めた。


「あのね。あんまり時間がないので、単刀直入に話すと、原田さんがおまさちゃんとお友達を続けたいので話してくれないかと頼まれたの!だめかな?」


「……だめ。お友達なんて嫌や」


……ああ。やっぱりそうなんだ。


「お友達ではなくて、付き合って欲しいんだよね?」


おまさちゃんは分からなかったらしくてきょとんとした。


「えーっと、恋人?恋仲になって欲しいんだよね?」


一瞬で顔が真っ赤になった。


「原田さん言わないと分かんないよ?ずっとお友達でいる気だよ?指一本触ってもいねえって得意気に言ってたし」


おまさちゃんはため息をついた。


「……うちに魅力がないんやろうか……」


「そんなことはないと……思うよ」


確かにおまさちゃんは、うっちゃんのように妖艶でははないけれど、話しやすくて気さくな所とか、感情が豊かな所とか、思い込んだらまっすぐでちょっと怖いけれど、そこも可愛いと思う。


「――そりゃあ、うちは原田様大好きやけど、向うはお侍様やし小間物屋の娘なんて本気で相手して貰えへんて分かってるんや。お友達で十分贅沢や。分かってる。分かってるけど……」


おまさんの瞳がみるみる涙であふれた。


「会うたらもっともっと大好きになるやん。触れたくなるやん。手えつないで欲しいやん。きゅうって抱きしめて欲しいやんっ。口付だってしたいやんか!」


急に大声で怒鳴り始めたおまさちゃんの口を塞いだ。


「しーっ!落ち着いて!!」


家からおまさちゃんのお母さんだろうか?


顔を出したので、こんにちはとあいさつをした。


「あら?お連れはん?ごめんやす」


「ちょっと出てくる!」


お母さんに頭を下げて、おまさちゃんの後をついて行くと


「――うち、頭に来たんで原田さん襲ってきます」


「え!?襲うって何するの!?」


「さっき言うたこと全部や」


――手をつないで抱きしめて口付……


「マジ!?」


「まじどす。それでだめやったら諦めます。もう、うじうじ考えるのは辞めや。うち、そういうの苦手やった」


きっと睨んでいたおまさちゃんの表情が、ふとゆるんで不安気に曇った。


「……もしだめやったら、なぐさめてくれる?」


「うん」


壬生寺だよと原田さんの居場所を教えた。


おまさちゃんてかっこいいなと、もう一つ可愛い所を発見した。




後は二人でどうにか解決するだろうと、着替えるために屯 所へ向かった。



「あ!ついでに菱屋に寄っていこう」


前にうっちゃんとお茶したお店に向かって歩き始めた。



こないだ新見局長を見掛けたときに、公家と関わったら浪士組はなくなると話してしまった。


それをうっちゃんが芹沢局長に話した……


「――でも、芹沢局長は元々尊皇攘夷派なんだから……新見局長と同じなんだから……」


うっちゃんの話は、芹沢局長達を非難したのと同じ?


「……私、余計なことを話した… …?」


どうしよう……私のせいで、うっちゃんが悪く思われたら……




うっちゃんとお茶した甘味屋に着いた。


お店の暖簾を潜って、菱屋を尋ねた。


「あの!菱屋はこの近くですか?」



入ってすぐの席に、林さんと川島さん、島田さんが座って いた。


島田さんがお茶を吹いて、林さんが持っていた饅頭を落とした。


川島さんは、ほーっと呟いてこっちに歩いてきた。


なっ!何でここにいるんだ!?


逃げようとして、いやいや、女だと言っても良かったんだと思い出したけれど、やっぱりなんだか居たたまれなくなった。


目の前に来た川島さんが、顔を覗き込んだ。


「……なかなか似合うてますやん。福田さんは女密偵に決まりやな」


笑いながら、頭や顔をぺたぺた触った。


林さんも口をもごもごさせながら


「髭もまだないしな。声変わりするまでの間やな。見事なもんだ先生」


お褒めの言葉をかけられた。


ぺたぺた触る川島さんの手を払うと、後ろから帯を引っ張られた。


「はいはい。福田さんは密偵中ですので、構わないで下さい」


振り向くと、馬越さんが本を抱えて立っていた。


「えらい、コキ使われてまんな」


川島さんが馬越さんの腕から本を一冊取って、ぱらぱらめくった。


「……そんな格好して、人の恋路の世話する暇があったら手伝って下さい」


馬越さんに腕を引かれて甘味屋を離れた。


「暇じゃないよ!うっちゃんに会いに行かないと!菱屋ってどこか知ってます?」


「あの二人の恋路は生娘の福田さんには分からんでしょう……」


「生娘!?てか、そうじゃなくて!」


馬越さんは腕を掴んだまま、通りを右へ曲がった。


宿屋へ入ると、お店の人へ声もかけずに二階へ上がっていく。


私もそのまま腕を引かれて二階へ上がった。


「……馬越さん。ここは?」


部屋の前で馬越さんは足で障子を開けた。


部屋の中には本が山積みされていた。


「座って下さい」


「だから、ここは何?」


「座って」


何だか緊迫した雰囲気の馬越さんの前に、言われるまま着座した。


いつもの無表情顔を眺めてみた。


――可愛い


いつも思うけれども可愛い


その可愛い瞳がそっぽを向いて、頬をつままれた――――


「痛ったい!何するんですか!」


「ええやん。胸掴んだわけでもないし」


「良くない!」


いきなり部屋に積まれた本を数冊渡された。


「この部屋の荷物、屯所の蔵へ運びますよ。うちの偉そうな軍師様の言い付けです。福田さんのせいですからね。あの人勧誘するから……」


文句を言いながら、馬越さんは本をまとめ始めた。


この部屋の荷物は、あの話の長い軍師さんの物なんだ……


「それから!娘が一人でふらふら町を出歩くのはやめた方がええ。井上さんならそう言う。近藤局長もそう言う」


それは何度も注意されてるけれど


「今日は緊急事態で……」


「――どうしたいんですか?もう面倒やから、皆の前で女ですと宣言しますか?そしたら、あんなに気安く触る奴、おらんくなるんですか?」


本を数冊ずつ束ねて、こっちへ手渡した。


「……皆に言った方がいいと思いますか?何だか女の着物着てると、落ち着かないし、恥ずかしいし……男だと思われてた方が、楽かなって思ったり……そのうち慣れるのかな?」


馬越さんは手を止めて


「……俺はお雪さんには慣れましたよ。兄上は胸のある永倉さんですけど」


そう言うと、また本をまとめ出した。


「――どうせ、言ってる意味が分からんとか思ってるのでしょうけれど」


頷くと、持っていた本の上に束ねた本を重ねた。


「着替え、持ってきてやりますから、ここの整理やっといて下さい」


「ありがとうございます……」


この格好して隊士の間を通って救護室へ戻るのは、恥ずかしいなと思っていた。


いや、本当はこの格好が正しいんだけど


そう言ってくれたけれど、いつまでも目の前に座っている馬越さんに、首をかしげると


「……俺、お雪さんが好きなんですって、何で言うたんやろうって、考えてたんですけど……」


「それは、こまちちゃんが怖かったからでしょう?」


「――そうですね……」


馬越さんは立ち上がって、部屋を出ていった。


「?何か今日変じゃない?」


改めて部屋を見渡すと、本の山だけではなくて、紙も散乱していた。


それらを紐でまとめて、部屋の入り口に積み上げておいた。


埃っぽい部屋で、くしゃみがでた。



「何者だ――?」


口を押さえて振り替えると、軍師さんが廊下に立っていた。


「あ、部屋の片付けの手伝いに……」


軍師さんは顎に手を当てて、考え込んだ。


「――おぬしは……福田睦月か?」


「はい?」


なっとくしたように頷いて


「ははぁ……さては、島田殿らと密偵の仮装か?わしが初めて会うた時も、尾行の稽古をしておったな……そうか……なるほど……」


勝手に納得して、私の周りを回りながら、じろじろ観察し始めた。


「ふむ。良い……いや、それは語弊があるな……しかし……見まごう程……うむ」


何だかじろじろ観察されて、緊張してきた。


軍師さん、近すぎだって!


思わず後ずさると、まとめた紙に足をとられて、後ろへ体が倒れた。


思わずめのまえの軍師さんの羽織の紐を引っ張った――――



「きゃっ!んぐ!?」


思わず目を閉じると、背中に本がぶつかった。


それから、唇に何やら柔らかい感触が……


目を開けると、軍師さんのドアップ。


その後ろで馬越さんが、赤い風呂敷を落とした。



軍師さんを押し退けて、馬越さんの横をすり抜けて、宿を後にした。



――キスした?


いや、これは事故だ



家族以外と


幼稚園の時に充としたキス……記憶にないが写真はある


以外との、ファーストキスが――――


「……軍師さん……」


涙がじんわり浮かんできた。


嘘だ……


「嘘ーー!!」


叫ぶと通りの人が振り向いた。



神社の境内で、口をすすいだ。


うがいをした。


また柄杓でくんでうがいをした。


またくんで…………



「――そんなに嫌やったんですか?」


顔を上げると馬越さんが、隣にいた。


「嫌です……初めてなのに……こんな事故だなんて……」


「事故?」


口を手の甲で拭いた。


「後ろに転けそうになって、軍師さんの着物を掴んでしまって……転けてこんなことに……ふぇ……」


涙が出て喉の奥が痛くなった。


「……軍師さんも災難でしたね」


「ひどーい!ファーストキスは好きな人って決まってるのに!」


「ふぁーすときす?すきな人?口付けのことですか?接吻なんて、口が付いただけですから、気にすることではないでしょう」


もう一度、柄杓で水をくんでうがいをした。



「何を言ってるんですか!私にだって理想のファーストキスがあったのに!」


また水を口に含んだ。


「……そうか。事故か……あかん。殴ってもうた……」


馬越さんは右手を開いたり閉じたりしながら呟いた。


「え?殴ったって……軍師さんを?」


「……謝ってきます」


持っていた風呂敷を渡して、


「……浪士組を首になったら、責任取って下さいよ」


文句を言いながら、神社を出ていった。




殴った……責任……



「え!?馬越さんが首になる!?」


境内の裏で、風呂敷に入っていたいつもの袴に着替えて、宿へ戻った。


「なんで殴るかな!」


無理矢理キスでもされたと思ったのだろうか?


「……?でも、それでなんで、殴るかな?馬越さん関係ないのに……」


心配してくれたのだろうか?


「……でも、殴らなくても良くない?」



宿の前へ着くと、中から軍師さんと馬越さんがちょうど出てきた。


「先程はすみません……?」


謝ろうとすると、馬越さんに腕をつかまれた。


「許しはもらいました。妹のお雪さんが無礼を働いたと」


「妹のお雪さんて?」


「沖田さんに呼んでくるように言われてたんです。早く戻りましょう!」



どういうことになっているのか、訳もわからないまま、唇の端が青くなっている軍師さんを置いて屯所へ戻った。


「ねえ、馬越さんどういうこと?」


「……面倒になりそうなので、妹にしたんです。福田さんや言うたら、軍師力を使ってものにされそうでしたから……感謝して下さいよ」


「……だから、どういうこと?」


馬越さんは、屯所の近くで足を止めた。


「胸のないこまちさんを好きな人なんです。軍師さん」


「……全然分からないんですけど……?」


馬越さんは大きくため息をついて、八木邸の門へ消えてしまった。







私の心配をよそに、うっちゃんは菱屋から八木邸へ引っ越してきた。


持ってきた荷車の荷物が部屋に入りきらなくて、八木さんちの母屋の部屋の片隅にも置かせて頂くことになった。


「……なんで、妾の荷物を預からなあきまへんのや?」


おかよさんが、文句を言いながら母屋の入り口に竹で編んだ四角い入れ物を運んでくれた。


両端を二人で持ちながら


「……すみません。どこにも置くところがなくて…」


謝ると


「なんで、福田はんが謝るんどす?庭に投げといたらええねん」


「そやな。それもういらん長着やから、良かったらどうぞ」


うっちゃんがにこにこ笑って、四角い入れ物……こうりと言うらしいから、着物を取り出して、おかよさんへ渡した。


「おかよはん言うたな?まだ若いんやから、これはどうやろ?ほら、顔が明るく見えるやろ?」


オレンジ色の着物を、胸に当てた。


確かに、おかよさんにすごく似合っていて、いつもより若く見えた。


「いらんわ!こんなもん」


「似合うてるのにな~なあ?福田はん?」


頷くと、うっちゃんは


「だったら、焚き物にでもして。菱屋の着物は全部片付けますさかいな」


こうりの中には、まだまだ綺麗な着物がたくさん入っていた。


「福田はんも変装用に持っていったらええ……これ何か、馬越はん好きそうやん」


淡い桃色に白の花模様。


「……井上はんなら、そっちの青いやつ」


「え?なんで、二人の趣味知ってるんですか!?」


おかよさんが、こうりからは別の派手な赤い着物を取り出した。


「そやな……井上はん意外と玄人好みかもしれへんで?」


「そやろ?馬越はんは可愛らしいのが好きやねん」


「ああ!分かるわ~あんたよう見てますな?」


二人は急に仲良くなって、私に取っ替え引っ替え、着物を合わせた。


おかよさんも、何着か着物を貰って


「……ところで、福田はんは馬越はんとどうなってますの?」


「……どうって……?」


二人を見ると、うっちゃんは笑って


「早うせな、うちが貰いますよって、発破を掛けなあきまへんな」


二人で楽しそうに笑った。


こんな感じで、最初は疎んじてたおかよさんも八木の奥さんも、うっちゃんと話すうちに、仲良くなっていった。


……たまに、口喧嘩も聞こえて来ますが……



朝になって、稽古の時間だなと布団の中で伸びをすると、外に人の気配がした。


最近、うっちゃんが、いきなり早朝に起こしに来ることが度々あった。


一度は間違えて、隣の布団へ潜り込んで、沖田さんが真っ赤になって飛び起きて、縁側から庭へ落ちたことがあった。


「うっちゃんでしょう?おはようございます」


起きて障子を開けると――


「あれ?誰もいない……?」



梅雨も終わると、昼間の日射しが急に強くなって、一気に夏がやって来た。


明け方はまだひんやり湿気をおびた心地好い風が吹く。


朝霧の湿度の高い空気の中、深呼吸した。



少し離れた土蔵の扉が開いて、隊士が出てきた。


「――馬越さん?」


こんなに朝早く何してたのかと声を掛けようとすると、後から軍師さんが出てきた。


馬越さんは目が合うと、真っ直ぐこっちへ歩いてきて、いきなりお腹を押された。


開いた襖の間から、沖田さんの布団へ背中から倒れ込んだ。


倒れながら、馬越さんが舌打ちしながら障子を閉めるのが見えた。




「……は、よろしく伝えてくれたか?」


軍師さんの声が聞こえた。


「……はい。ですが……」


「がっ!?んだ!?福田ー!!」


沖田さんがお尻の下から、飛び起きた。


「お梅さんか!?」


怯えたように回りを見渡す沖田さんに


「うっちゃんじゃないですよ……馬越さんと軍師さんが土蔵から出て来て、いきなり部屋へ押されて……」


沖田さんは眉をしかめて


「……ああ。馬越くん災難だな……」


呟くと布団をたたみ始めた。


「災難?」


「武田さんにこき使われて、いつも一緒にいるから、変な噂立てる奴もいるし……いや、誤解だって分かってるさ……」


「誤解って?」


沖田さんは口をつぐんで、袴に着替えた。


「ねえ、誤解って何ですか?」


「別に誤解だから知る必要はない」


朝稽古だと、とっとと部屋を出ていった。




慌てて着替えて、部屋を出ると、馬詰さんが竹刀片手に頭を下げた。


「おはようさんです。今朝から父も一緒に稽古に参加します……ご指導よろしくお願い致します……」


「おはようございます……ご指導は私は出来ませんよ?」


馬詰さんは困った顔をして、


「土方副長が足から習えと……福田さんと一からやれと言われました」


……足?足さばき?


「……あの、馬詰さんは剣術の心得は……」


「ありません……」


照れたように笑う馬詰さんを見て、何でそんな人を入れたのかと疑問が沸いたけれど、


「それは私もか。他に得意な事があるんだろうな……」



取り合えず、井上さんに習った摺り足を二人に教えた。


馬越さんの噂って何だろうかと思いながら、足を動かした。


「真面目に教えてるか!」


永倉さんが腕を組んで、庭の端の方で摺り足をしていた私達に寄って来た。


「……これで大丈夫ですか?」


不安気に足を動かすと、持っていた木刀を右足と左足の間に入れられた。


「両足を揃えるな!かかとまでしか左足は来ない!」


永倉さんが右足を出して、木刀を振り上げた。


左足をかかとまで引き付けて竹刀を下ろした。


「この動きを百。始め!」


馬詰親子と始めようとすると、私だけ永倉さんは呼んでその場を離れた。




朝稽古の中をすり抜けて、八木邸へ入った。


部屋には近藤局長と山南さんがいた。


永倉さんが稽古へ戻ると、私が座る間もなく、山南さんが口を開いた。



「新見局長は君に何か頼み事をしたのかね?」


――頼み事?


立ったまま、それは大坂で公家に取り入れと言われた事かなと考えた。


「芹沢局長の所のお梅さんがね。影でこそこそしてると、言ってきたらしい。何でも、芹沢局長の知らぬ所で、都の公家に取り入ろうとしてるらしい」


隣で近藤局長が困った顔をして頷いた。


「会津に捨てられる事とは何かな?福田君」


山南さんの雰囲気が変わった。



――私がうっちゃんにそんな話をしたのは事実だけど、でも、新見局長が公家に取り入って、本当は何をしたいのかは分からない


近藤局長とは考えが違うから、次の就職先を探してるのかな……


でも、それって裏切り者って事で、会津に顔向け出来なくて、浪士組は捨てられて、皆クビ?


「え!?クビ!!」


思わず口に出すと、山南さんはため息をついた。


「……誰か首になるのかね?」


「いえ!あの……それは……」


考えても、どう答えたら良いのか、全然浮かんでこなかった。



もし、井上さんの話した芹沢局長達が、浪士組を抜けて尊攘派の公家の所へ行ったら、本当に会津に捨てられてクビになるのだろうか?


だけどそれだって、芹沢局長達が本当にそうするつもりなのかも分からないし……


憶測でものを言って、近藤局長との仲が悪くなったりしたら、嫌だし……



黙って考えていると、近藤局長が口を開いた。


「今、考えていることを話してみなさい」


体の力がふっと緩んで、全部正直に話した――



ただ、新見局長に公家と仲良くなれと言われたことは黙っていた。





もう朝稽古も終わるなと、厨に向かって歩きながら、ため息をついた。


近藤局長変な心配はしなくていいと言われた。


山南さんは憶測でものを言ってはならない……何か気が付いたら、いつでも話に来なさいと言われたけれど……


「――話して良かったのかな……」


こんなとき井上さんがいたら、相談出来るんだけどな……



厨から、安藤さんの笑い声が聞こえてきた。


山野さんが、お櫃を抱えて出てきた。


「福田さん!今朝の味噌汁は不味いですよ……安藤さんが砂糖入れましたからね」


いつもの爽やかな笑顔で、横切って行った。


「癒されるわ……」




「俺も癒されたいわ……」


気が付くと、隣に頭から埃を被った馬越さんがいた。


「福田さん、今日非番ですよね?ちょっと付き合ってください」


「え?私、非番なの?」


頭の埃を取ってやると


「……風呂入りたい……」


確かに、埃の中に飛び込んだみたいに、着物も肩の所まで真っ白になっていた。


そう言えば、今朝土蔵から出て来たよね?


「……私も、お風呂入りたい。お梅さんの所に借りに行きましょうよ!……それから、ちょっと話聞いて貰っていいですか?」


大坂での出来事は馬越さんも知っているから、相談したい。


「――はい」


……?


今、変な間があったけれど何だろう?


「じゃあ、後で。着替え持っていきますね」


「――非番はお雪さんにはならないですよね?」


「……ならないですけど、何で?」


馬越さんは可愛い顔をしかめて、


「いえ。ならないならいいんです……」


ちょうど、お膳を抱えたおかよさんが出てきた。


前を通りながら


「馬越はん。回りくどい事言わんと、娘の姿でお風呂行きましょう言わな、福田はんはぼんやりやから、伝わりまへんで!その方が可愛い言わな~!その先はまだあきまへんで!町を歩くだけで我慢やで!」


馬越さんはおかよさんのお膳を奪うように取って


「何の我慢も福田さんならする必要はないですよ」


「何言うてますの?馬越はんもぼんやりか?」


二人は話ながら、前川邸へ行ってしまった。



お梅さんのお店に行くのは久しぶりだった。


お風呂を沸かしに行った馬越さんを待っている間、お昼の準備を手伝うことにした。


茄子を縦に八つに切って、煮浸しの下ごしらえをした。



「えらい手際が良くなりましたな」


お梅さんに褒められた。


「――で、いつまで浪士組にいるん?」


隣でとんとん野菜を刻みながら、お梅さんは手元を見たまま質問してきた。


「……昨日お客はんに、家茂はんが江戸へ帰って攘夷が始まったら、兵は江戸へ戻るって聞きました。浪士組も江戸へ戻るんでっしゃろ?」



――そんなことを、大坂で井上さんが言っていたのを思い出した。


「賄やら救護ならまだしも、戦へは女は行けん。福田はんもそろそろ身の振り方を考えなあかん。三郎はんも家に戻らなあかんことになやろし……」


「え?馬越さん家に戻るんですか?」


「――――そうや。だって三郎はんのお父様は、今……」




「薪が湿ってて火が付きませんでしたよ」


馬越さんが裏口から入って来て、台の上にあった漬物を口に入れた。



お梅さんが買い物に出て、二人で店番をすることになった。


足りない箸を机に補充しながら


「……馬越さん浪士組辞めるんですか?」


さっき聞いたことを質問した。



「辞める?……確かにこのままあの軍師さんと二人っきりで過ごさなあかんのなら辞めたいですね。俺は井上さんみたいに、誰かの面倒をつきっきりでみるのは、合ってないみたいです。今更ながら、井上さんには頭が下がります」


台を拭き終った馬越さんは、椅子に腰掛けた。



「さっき、永倉さんに呼ばれてましたけど、何の話だったんですか?」


「……そのことなんですけど……」





大坂からの出来事と、うっちゃんの話。


井上さんの話は憶測で話すべきではなかったんだろうかと、胸にため込んでいた事を吐き出した。



「――それで近藤局長はどうしろと?」


「どうもないです。山南さんと一緒で、憶測でものを言うな。何かあったら話に来なさいって、それだけです……」



「――それ、だけな訳ないでしょう?」



馬越さんは席を立ってお茶を入れ始めた。



「俺なら、新見局長を動向を調べて、いらんことしてたら止めさせます。それでもだめやったら、辞めてもらいます。芹沢局長の事だけでも、会津に文句言われてるんです」


「でも、新見局長がしてることがいらんことかどうかは分からないじゃないですか!芹沢局長だって、浪士組のためにお金借りてるだけで……」




「――ええかげんに、決めたらどうですか?」


目の前の台に、湯呑を置かれて着席した。


ぽつりぽつり、語気もいつもの無表情で、馬越さんは独り言のように話した。



「…………どっちも福田さんにしたら、恩のある人ですけど、ええ人たちじゃないんですよ?かたや大義名分のために人を殺めてもいいと思ってる人やし、土足で屋敷に上がり込んで、金を盗んで行くような人なんですよ……」


「――それは!」


「ええとこだけ、見られる呑気さは羨ましいですけど、浪士組はそんな所じゃないんです。それにも気付いてないんですか……どんだけお気楽極楽なとこで育ってきたんですか……」




おきらくごくらく?



だって、私は言われてたよ?


人の悪口は言ってはいけません。


いいところを見つけましょう。


悪いことをした人にも、きっと理由があるはずです。




「もし、井上さんが言う様に、新見局長が尊王攘夷派の公家と会っていたら――あの人たちは、許しませんよ」




謝ったら許してあげましょう。


仲直りしましょう――




「――殿内さんのこと知ってるんですよね?」


「!?」



馬越さんも知ってたの!?



馬越さんは目の前に腰掛けて、じっと私の返事を待っていた。


でも……


私の頭は、おきらくごくらくに育ってきたので、近藤局長達も芹沢局長達も浮かんでくるのは――



「――頑張れって言ってくれたんです。行くところがないならいてもいいって……どっちか選べなんて……出来ないよ…………」





「……最悪を考えることも、覚えた方がいいですよ」





最悪?





「――何それ?なんか悪いことがあるの?浪士組がなくなるとか?分裂するとか?誰かが出て行くとか!?」



分かってるよ


そんなこと言われなくても!


本当は分かっていたけれど、考えるのが嫌だっただけで





「また誰かが誰かを殺すってこと!?殿内さんの時みたいに、新見局長を沖田さんが殺すってこと!?」






叫んで、立ち上がると、涙が台に落ちた。





ここでは人を斬って褒められるんだよ?


ねえ……井上さん……そうだよね…………?



分かってるのに


考えないようにしてたのに



「――馬越さんのバカ……だったら、どうしたらいいんですか――――!」




台にこぼれた涙を袖で拭って顔を上げると、台越しにハグされて。





キスされていた――





閉じていた長い睫毛が震えて、いつもの可愛い黒目がちな瞳が開いた。


唇が離れて、もう一度ハグされた。



「――風呂入りますか?先にどうぞ」


耳元で囁かれて、涙がまた込み上げてきた。



「――うがい……します?」


体を離されて、湯呑を差し出された。



頷いて湯呑を受け取って、そのままお風呂へ向かった。









「――何これ……」


湯船につかって、唇を指でなぞってみた。




何これって、キスされたよね?


馬越さんにキスされた…………


ぎゅってされて、何か柔らかっ!ってキスされた……



「――何でキスした?」



軍師さんと同じで事故?


いや……ちゃんと顔が少し横むいて近づいて来て……


「でもでも!!胸のある永倉さんにキスするか!?なんか間違ったんだよね!そうだね!間違ったんだね!!」



湯船に鼻まで使ってため息をつくと、ぷくぷく泡になった。



間違ってなかったら…………?


いや、ありえないし!そんなこと!!




ぐるぐる考えていたら、すっかりのぼせて吐き気がしてきた。


お湯から上がるとめまいがして、着物だけ着ると、風呂の入口にしゃがみ込んだ。


「――えらい長風呂だと思ったら、気分でも悪くなりましたか?」


馬越さんが目の前にしゃがみ込んだ。



馬越さんのせいで、こうなってんのよ!


「……吐きそう……水下さい……」


「――そんなに嫌やったんですか?傷付くわ……ほんまに……」


「そうじゃなくて……」


目の前が暗くなった。




体が浮いて抱き上げられた。


「……重い……」



馬越さんの声を聞いて意識がなくなった。



――ゆらりゆらり……


体が浮いてて怖い……


落とされないか怖い……





「気い付いた?福田はん」



目を開けると、お梅さんが心配そうに上から覗いていた。


黒目がちの大きな目が馬越さんに見えて飛び起きた。


「すみません!私、長風呂し過ぎて……」


「はいはい。聞いておま。顔の赤みも引いたから、もう大丈夫やろ?」


着物一枚で、袴もはいていないことに気付いて、慌てて頭の上にあった風呂敷から着替えを出した。


「……馬越さんは?」



お店には二人だけで馬越さんの姿はない。


「何でも、浪士組を首になる様なことを仕出かしたとかで、出てくる言うたきり戻らんわ」


「……クビ?」


何を仕出かしたのだろう!?


荷物をまとめて、お水を一杯貰って屯所へ向かった。






クビ……


何だか最近このワードが良く出てくるな……



不意に醤油の焦げたような美味しい香りが漂って来た。


「お腹すいたなあ……」


匂いに誘われて、路地に入ると、目の前にいかにも浪人風の男が立ちふさがった。


着物も汚いし、頭もぼさほざでひげも伸びている。


そう言えば、ここでは髭を伸ばしている人を見たことがないなと思いながら回れ右をすると


「まて。懐の物をおいて――」



後ろも見ずに、大通りへ駆け出した。


強盗!?


チンピラ!?


追い剥ぎ!?


とにかく!悪い人だ!!



とれだけ走ったかわからないけれど、人通りも多くなって、足を止めて後ろを振り返るとさっきの男は見当たらなかった。


「――福田さん……」


後ろから名前を呼ばれて、悲鳴を上げた。


「……何も……してないのに……」


振り返ると、馬詰さんの息子の方が馬越さんに腕をねじ上げられていた。


「何もしてない?こっそり店までつけてましたよね?」


馬越さんの言葉に馬詰さんはうなだれて


「……すんまへん」


小さく謝った。


「二人は仲がええけど……その……二人で連れ立って……福田さんに何かあったら……」


馬越さんは手を離して


「何かあったらなんですか?」


馬詰さんはふうと息をついて


「馬越さんは娘なら誰でも話しかけるし、女慣れしてるし……福田さんにも手をつけるんやないかと……」


馬越さんの可愛い目が丸くなった。


「……確かに女の子好きだもんね」


でも、私に手をつけるって?


ないない、絶対ないない~


「……あ、キスされ……た」


唇の感触を思い出して顔が熱くなった。


馬詰さんが首をかしげて


「きす?てなんですか?」


「何でもないです!間違っただけですから!!私、先に帰ります!!」


恥ずかしくてこの場をすぐにでも立ち去りたかったのに、馬越さんに二の腕を捕まれた。


「間違ってないです」


引き寄せられて、左の頬をかじられた。


「!?」


頬をかじられたことなんて初めてで、どう対処したらいいのか分からなくて固まっていると


「何しとんじゃ!われ!!」


馬詰さんの口から、とんでもないドスの効いた声が飛び出して、馬越さんの横っ腹に蹴りが繰り出された。



――え?何?今のは?



馬越さんは蹴りをかわして


「……そっちこそ、猫被って気持ち悪いわ!」


右フックを繰り出した。


馬詰さんが手のひらでそれを受けると、二人は掴み合になった。



――え?


馬詰さんてこんな人だった?


何か頼りないキャラじゃなかった?



掴み合ったまま硬直状態の二人を眺めながら、必死に記憶の中の馬詰さんを思い出してみた。


「昔から全部女を持って行きよって!このこましが!!」


――あれ?


馬詰さんのこんな声は聞いたことがないぞ?


「知るか。それは己のせいじゃ。ボケ」



――ああ、この無表情で毒吐くのは、いつもの馬越さんだ


「お芳はんもお孝はんも捨てよったくせに!!」


「――ちゃうわ。お前が怖いから、恋仲の振りしただけや。二人ともあの後すぐに縁談が決まったわ」


「はあ!?怖いて、何が怖いねん?お前と違うてわしは一途や!」


「……一途過ぎて怖いんや」



――二人は知り合い?


「二人は……恋のライバルだったんですか?好きな子を取り合った仲とか?」


――二人に無言で睨まれて、一歩下がった。



「馬越!お前のせいで福田さん怖がってるやろ!?」


「……お前の化けの皮が剥がれたからや……」



馬詰さんは頭をかかえてその場にしゃがみ込んだ。


馬越さんは気にも止めないで、屯所の方に歩き出した。




――どうしよう……


いまいち、馬詰さんがどんな人かよく分からないけれど



「……帰りましょう」


手を差し出すと、いつもの気の弱そうな目で見上げた。


よく見るとイケメンさんなんだけど、うつむいてばっかりいるから気付かないんだけれど。



「……俺、怖いですか?」


「……怖くはないですけど、何で猫被ってたのかなとは思いましたけど……」



手を握って馬詰さんは立ち上がった。


「――喧嘩して船問屋首になったんです。その前も親方ともめて……ええ加減にどうにかせなと思いまして……」



「それで大人しい振りをしてたんですか?」



二人で少し先を行く馬越さんの後を追う様に通りを歩いた。



「別に、浪士組では大人しくなくてもいいと思いますよ?逆に大人しくない方がいいんじゃないでしょうか?市中見回りに行ったり、不逞浪士の捕縛とかって、怖い人の方が迫力あるし……私なんて、女みたいだって、一緒に行っても馬鹿にされるだけだけど……」


「女……ですよね?」


頷いて通りを左に曲がった。


「そうなんですけど……今まで男の振りをしていたので、何か今更女ですって言うのが、恥ずかしくて……局長は女だと言ってもいいって言われてるんですけど、なんかこのままの方が楽なんですよね……」


馬詰さんは頷きながら


「俺も今更、大人しいの止めるのもなんや気が重いですわ……柔術が得意ですと入隊したんですけど、実は喧嘩しかしたことないなんて言えんです……大人しい奴やったら、無難に過ごせるかと思ったんですけど……」



「じゃあ。二人とも猫被っときましょうか?」



馬詰さんはこっちを不思議そうに見つめて、頭をかかえた。



「……あかんて、もー!」


そのまま馬越さんの所までダッシュして、お尻に蹴りを入れた。


その後、馬越さんから後頭部とお腹にパンチを入れられたけど。



二人の姿が前川邸の門の中に消えて



「……実は仲良しなのかな?」


じゃれる姿に微笑ましく思っていると、背中に硬い物があたった。


「――その……懐のものを……置いて……」





さっきのぼさぼさの物取りに背中に短刀を突きつけられていた。



思わず両手を上げて、回れ右をすると男からものすごい匂いがした。



「臭っ!――あ……」


挑発してどうするんだと後悔したけれど後の祭りだ。



男の短刀が喉元の正面に突きつけられた。




――こういう時は素直に従った方がいいよね?


お金や物はまた働いたら戻ってくるけど、命は一度きり……



懐から最近もらった給金の入った巾着を取り出そうとして……


「――あ、あれ?ない……え!?」


持っていた風呂敷を地面に広げて、着替えた着物をかき分けた。




「何してんだ?福田?」


顔を上げると、沖田さんと山野さんが覗いていた。



「財布がないんです!給金もらったばっかりなのにー!!」




「こちらは誰ですか?」


山野さんがいつもの爽やかな笑顔で微笑んだ。



「物取りです。懐のものを出せって言われて……財布がなくって……ん?」


「ん?物取り?」


「物取り?」



三人で顔を見合わせて、逃げ出そうとした男を捕まえた。







「何で物取りを入隊させるかな?」



隊士が増えて、病人がいないときは空いている救護室の十二畳も寝床にしようという案が上がった。


沖田さんと近藤局長が反対して、相変わらず沖田さんと私で占領している。


文句を言いながら布団を敷く沖田さんの隣に、いつもと変わらず私も布団を敷く。



「そうですよね!普通、奉行所に突きだしますよね!私、着物切れてたんですから!」



なんでも、旅の途中で路銀が無くなり、私なら弱そうでお金を持ってそうだったので襲おうとしたらしい……



「……そんな人入れて大丈夫なんですか!?」


「背中の傷は大丈夫じゃないぞ……敵に背を向けて……恥だな、恥」


沖田さんが布団にもぐりながらあくびした。



「だって!普通逃げるでしょう?背中切られたのは……気付かなかったし……」


「まあ、お前は隊士でもなんでもないから言ってもしようがないけど――」



――はいはい。私は隊士でも男でもないですよ。



灯りを吹き消して、布団に潜り込んだ。



「でもでも!物取り入れなくって良くないですか?」


「……だよな。それは俺も思った。何でも同郷のよしみとかって、武田さんが言い出したって……どうでもいいけど……」


「――武田軍師さん?」


そう言えばと、沖田さんが寝返り打ってこっちを見た。


今日は月が出ていて、障子越しに部屋が薄明るい。


「軍師さんに福田の妹のお雪はどこに住んでいるって聞かれたけど……お前、何してるんだ?」


「何もしてません!馬越さんが妹のお雪ってことにしてた方がいいって言うから――私もよく分からないんですけど……」


「してたほうがいいって?」


「はい。何でも胸のないこまちちゃんを好きなんだって、軍師さん。訳わかんないし」


沖田さんの目がくるりと左に回って、向うへ寝返りを打った。


「――お前、本当におやじに好かれるな……」


「え!?私、軍師さんに好かれてるんですか?何で?」



沖田さんはもう返事をしなかった。




――暑い……暑い……


「――暑っついって!」



布団を蹴飛ばそうとしたけれど、身動きが出来ない。



「……早く出て行ってくれないかな……」


沖田さんの不機嫌な声が足元でした。



部屋はまだ薄暗いから、朝じゃないよまだ。



首をめぐらすと、右の掛け布団の端を踏んで座っているのは、


「……財布返しに来ただけなんですけれど……このアホが……」


馬越さんがいた。



「こいつが不審な行動してましたから、福田さんの身を案じて付いて来た次第です!」


左の掛布団の端に馬詰さんがいた。



「福田さん、財布置いときますね」


馬越さんが枕元に巾着を置いて立ち上がった。



「あ!財布!!ありがとうございます…………?」



布団から体を起こすと、左の馬詰さんの視線が気になった。


何だか泣きそうな顔をしている。


「どうかしました?」


「沖田助勤とはどういう……いえ、何でもないです!」


急に立ち上がって、馬越さんを押しのけて部屋を出て行った。



「……面倒くさ……」


馬越さんが呟いて


「……もっと面倒臭いの来ましたけど……」


開け放した障子の隙間から、山崎さんが見えた。




沖田さんに話があると、馬越さんと部屋を追い出された。


眠い……雑魚部屋で寝ようかな……


ふと馬越さんと目が合って、お梅さんのお店でのことを思い出した。


一歩離れて


「どうぞ。休んで下さい!私は山崎さんが帰るまで、待ってますから」



何で今日は満月なんだろうか


馬越さんの顔が見えるってことは、私の挙動不審な顔も見えてるってことだ。


早く寝てよ


どっか行ってくれー!



馬越さんはいつもと変わりない可愛い顔で見下ろしていた。



私だけ居心地悪くて馬鹿みたいじゃん!


なんでキスとか噛みついたりしたの?


キスしたから私の事好きとかそういう深い意味はない――よね?




ああ、そうか!


馬詰さんも言っていたけれど、女好きだから皆にしてるから、馬越さんの中では大したことではないんだ、きっと



てことは、私の事女だって思ってるの!?



でもでも、今まで、胸のある永倉さんって言ってたし、私だって友達だと思ってるし、うん、友達だ



――でも、友達にキスってする?



「――お前は西洋人か……」




「福田さん」


声を掛けられて、体がびくっと不自然なほど飛び跳ねた。


「俺、前から思っていたんですが、その餅みたいな頬、かじってみたかったんですわ」



――はい?



「甘そうな口も吸ってみたかったんですわ」



――なに?



「他にもしたいこといろいろあるんですけど……」


そこまで話して、馬越さんは口を押えた。



「……気持ち悪……」


そのまま厠へ走って行ってしまった。




一人取り残されて、私はまた、さっきと同じ一人では絶対に解けない疑問と格闘し続けた。


しばらくして山崎さんが救護室から手招きした。


もう考えすぎて、頭は爆発寸前だ。


「明日から二人で薬の行商に行くで――」


「――嫌です……」



良く考えたら、最近の問題で何も解決していないじゃないか!



近藤派か芹沢派かどっちに付くかと言う事も


新見局長の事も


うっちゃんが何か言いふらしてることも




「……嫌とかありえまへんな……この居候が……」


嘘笑いの大きいつり目を見上げて


「男の人って好きでもない人にキスとか出来るんですか?キスって分かりますか?口付けのことです。接吻の事です!」


口に出すと、もっと目が大きくなった。


「聞いてます?ねえ!どうなんですか!!」



「……そりゃあ、出来んこともない……けど……」


「……最低……」


もう考えすぎて頭がぱーんてなりそう!


「私ひとりで馬鹿みたいじゃないですかー!!」



ぷつり、涙腺が切れた。



「何福田を泣かしてるんですか……?」


沖田さんの呆れた声が聞こえたけど、もう泣きやむことは無理だ。


「酔うてますか?これ?」



散々泣いて、横隔膜がおかしくなって、布団にもぐって朝が来た。





「――なんかすっきりしたー!おはようございます!沖田さん!今日も暑くなりそうですね!」



思いっきり泣くと心がリセットされて元気になるって本当だ!



「……お前……性質……悪過ぎ……」


布団から出てこない沖田さんを残して、雑魚部屋へ向かった。


おまさちゃんも言ってたけれど、ぐじぐじ悩むのは体にも心にも悪い。


さっさと解決できる問題は解決してすっきりしよう。



あいかわらず、臭い雑魚部屋の隅で布団を畳む馬越さんを見つけた。


「おはようございます。昨日の事で聞きたいことがあるんですけど……」


「……はい」


寝起きでいつもに増して機嫌の悪そうな馬越さんの前に正座した。


他の隊士が朝稽古に出て行った。




深呼吸して、立ちっぱなしの馬越さんの袴を引っ張った。


しぶしぶ座る馬越さんの寝癖気味の前髪を見ながら



「……何で口付したんですか?」



小声で質問すると、眉間にしわが寄った。


「……そんなことを、わざわざ朝っぱらから聞きに来たんですか……」


「そんなことって!馬越さんにしたら、そんなことかもしれないけれど、私にしたら一大事で!」


頭に来て立ち上がった。


「分かりました。そんなことだったんですね!失礼しました。もう気にしません。さようなら!」


馬越さんはすわったままぼんやり見上げて


「……俺だって一大事ですわ。何で永倉さんの口吸いたいなんて思うのか……昨日から、胃の腑の具合が悪くて……」


「私は永倉さんじゃないです!」




「――お前らあほか?」


山崎さんが眠そうに目をこすって、手招きした。


「あほって!だって馬越さんが!!」


――口付されたなんて組の芸能記者なんかに言ったら、とんでもないことになると、言いかけた言葉を飲み込んだ。


「へいへい。痴話喧嘩なんて恥ずかしゅうて見てられまへんわ。福田さんは近藤局長が、馬越さんは武田さんがお呼びです」


馬越さんはのそりと立ち上がって、私の二の腕をつまんで


「――しゃあないやろ。触ってまうねん……」


ぼそり愚痴って部屋を出て行った。




「――不憫な奴っちゃな……」


「二の腕触られた……太いの気にしてるのにー!」





山崎さんに連れられて、朝稽古の隊士の前を通って、八木邸へ向かった。


まだ八木邸の道場は基礎の石の上に柱が組んであるだけだ。


その前で近藤局長と山南さんが、基礎を眺めていた。


挨拶すると、八木さんの母屋の方へ歩いていった。


「近頃は隊士も増えて、活気が出てきたな!問診票も出来たかね?」


近藤局長の質問に答えながら、厨の前まで歩いてきた。


「新しい隊の編成を考えているのだが、山崎君は地理にも明るい。監察にしたいと思うが……」


近藤局長はそこで言葉を切った。


「――日の浅い隊士は見習いとして、鍛えろと言う意見もあってね」


山南さんが口を開いた。


「今回は……」


「承知」


山崎さんは少し笑って頭を下げた。


じゃあ、同じくらいに入った他の監察になる予定の人もなれないのかな?


「では、福田君は山崎君と。頼んだよ」


山南さんに肩を叩かれて、二人が前川邸へ向かっても、山崎さんは頭を下げたまま動かなかった。



「……山崎さん?」


声をかけると息を吐いた。


「――前の肩書なんざなんの役にも立たねえって知らしめろ」


土方副長が、おにぎり片手に厨から出てきた。


「侍だか、どこの道場だか知らねえが、俺は使えねえ奴は下げるし、使える奴は上にする――そうしてえんだが」


おにぎりを頬張った。


――なんで、こんな時間に朝稽古にも出ないで、おにぎりを頬張っているんだろう……副長……


「何か持ってこい。使える奴だと、俺は思っている」


山崎さんは今度は笑わずに


「承知!」


と答えた。



――多分、感動的な場面に遭遇しているんだけど……


もう一口頬張った土方副長の頬に


「……あの、ご飯粒付いてますよ……」


指摘すると後ろから山崎さんに、ひざカックンされた。



何故か最近八木さんちの母屋にいる、うっちゃんを訪ねて着物を借りた。


私の持っている女物の着物は、今の季節には暑すぎる。


「この単は?でも、絹はあかんか?行商ならこっちやろか……麻やし涼しいし」


藍色の長着と幅の狭い生成りの帯を借りた。


帯の結び方を文庫しか知らないと言うと、


「貝の口の変り結びの出来上がり!小さいお太鼓みたいやろ?」


手鏡で帯を見せてくれた。


「ひらひら蝶結びとか――」


今度は前で、帯の先を何枚か重ねて羽のたくさんある蝶を作ってくれた。


「かわいい!」


「はじめに残しといた、てを巻くとさっきの貝の口。終わりの、たれを巻くと文庫や蝶や。やってみる?」


髪もそれなりに整えてもらった。


最初に習った小さいお太鼓を作ってみた。



日差しも強いからと、頬かむりをして、足に脚絆、手甲、首が焼けない様に、手ぬぐいも巻いて――



「福田君、水筒は持ったか?」


芹沢局長が、ボーリングのピンの形をした漆塗りの水筒を持って来てくれた。


それから、袖の中から懐紙に包んだ金平糖をもらった。




――どっちを選ぶのですか?




手の平にのせられた金平糖を見つめながら、その言葉が頭をよぎった。


「どう致した?芝居見物で貰ったものだ」


「次は福田はんも一緒に行きたいわ」




――あの人たちは許さないですよ




「……行ってきます…………」




――さんの時のように




暑いのに背中がぞくりとした。



「どんだけ待たせるつもりや――」


外で待っていた山崎さんがこっちを見て、眉を寄せた。


「すみません!お待たせしました!」


山崎さんはいつもの袴姿だった。


「あれ?行商人ではないんですか?」



「――誰がお雪になれ言うた……」


山崎さんの後ろで、島田さん、川島さん、林さんが、三人三様のコメントを投げてきた。



「福田君!?また見事なもんだな!」


「……先日よりも出来がええな」


「先生。救護班辞めて、そっちでも食っていけそうだな」



!?なんで皆さんここにいるのー!?



「……さて、長屋でも見に行きましょか」


「山崎さん!娘の格好じゃなくても良かったとか!?」



着替えてくると言うと、おもしろいからと島田さんに手をつながれた。


「父と娘やな」


川島さんの発言に


「せめて夫婦にしてやれ」


林さんが突っ込んだ。



先を行っていた山崎さんが戻って来て


「すんません島田さん。ちょい訳がありまして、福田さんを隠して外へ連れて行きたいんですわ。羽織の下に入りますか?」


「なんだこそこそして?」


島田さんにお姫様抱っこされて、羽織の下へ入れられた。


林さんが羽織の紐を結んで、何も見えなくなった。


でも、足は出てると思うんだけど……



「ご苦労」


永倉さんの声がした。



ぐらぐらして怖いんですけど!


それにむしむしして――汗臭い!!



「――いやいや。まだこちらへ移るには片付けなければならないことが多すぎてな」


おや?


武田軍師さんの声。


島田さんがくるりと体の向きを変えて走り出した。



怖いって!!!



いつ落とされるかと、腕にしがみついていたら、急に地面に降ろされた。


羽織から出て、新鮮な空気を思いっきり吸い込んだ。



そこは細い路地の薄暗い住宅街だった。


少し離れた井戸端で、子供が三人遊んでいた。


一緒にいたお母さんがこっちを不審気に見ていた。



「――はじめから怪しまれてどないすんねん」


山崎さんが家の扉を開けた。



男四人に女一人……


確かに、近所に引っ越して来たら、気になる構成だ。



「兄弟とかって無理?」


林さんが頭を振った。


「腹違いでも似てなさすぎる……」



入ってすぐ土間があって、畳二畳位の板間があって、奥に四畳の畳があった。


「これだけ?狭まっ!」


「文句言うな」


山崎さんはそういうけど、竃もないし、もちろんお風呂もない。


厠もないよね!?


トイレがないってどうなの!?



部屋を見渡していると、三人は


「……屯所には近いが、もう少し三条界隈や旅籠の方がええちゃうん?」


「旅籠に泊まるにも、隠れ家は必要だろう?」


「他にも候補はあるんです。行ってみますか?」




刀を差した者が四人(+行商娘)も一緒にうろつくと目立つということで、山崎林組と川島島田福田組に分かれて、三条を進んで行った。



前を行く山崎さん達から少し遅れて、人混みを縫って行く。


「何だか湿気が凄くて、じめじめしますね……」


着物の袖を腕捲りしたいくらいだ。


息をついて足を止めた。


島田さんと川島さんは気付かず先へ行く。


何気に振り返ると、打ち水をしていた人越しに見知った顔が柱の影に寄りかかるように隠れた。


「――佐伯さん……?」


「早く来い!」


島田さんに呼ばれて慌てて駆け寄った。


「すみません!……あの……」


島田さんはに左手をつながれた。


「後に佐伯。前に新見局長……だろ?」


「え?新見局長?」


後ろを見ようとして頭を掴まれた。


「新見局長は山崎達に任せて……あ?」


島田さんが声を上げて、目だけでその視線の先を追った。


佐伯さんが横をすり抜けて、そのまま山崎さん達に何か話して先へ進んだ。


川島さんが山崎さん達に何事か尋ねると


「邪魔すんなやて。新見局長の尻尾はわしが掴む言うとったらしい……」


島田さんは左手を掴んだまま


「……仲間割れか?」


「さっさと割れて無くなれ」


山崎さんは吐き捨てるように言って、人混みを見つめた。


「――今日は俺らは人気者みたいやな」


皆で一斉に振り返るけれど、私には何も分からなかった。


島田さんは大きな声で笑って


「いい機会だ。追手を巻く稽古でもやるか!それ!」


「あ!待ちや!どこで落ち合うねん!」


駆け出した島田さんは足を止めた。


「――あそこは?三条小橋の――」


「よし!一番最後は飯を奢り」


島田さんの大声で、三条小橋の何処なのか聞こえなかった。


四方へ走り出した四人に取り残されて、通りに一人で立ちすくんだ。


「――だから何処なの?」


ゆっくり回りを見回しても、怪しい人なんて全然分からないし……


ため息をついて、暑さを避けるために涼しそうな日陰の路地へ入った。


お財布に入れてある、馬越作成京都地図を取り出した。





――そんなことを、わざわざ朝っぱらから聞きに来たんですか


ふと、今朝の馬越さんの言葉を思い出した。


――そんなこと……


「ムカつく……永倉さんとか言うし!」


私だけ気にして馬鹿みたい!


もう、忘れよう。


馬越さんの半径一メートル以内は立入禁止にしよう!




地図から三条小橋を探した。


とにかく、そこへ行けばみんなと会えるかもしれない。


「追手を巻く稽古って言われたから、真っ直ぐ向かうのはダメだよね?」


でも、追手っている?


積んであった、桶の影から通りを覗いてみた。


こっちの通りへ走り込んできた人とぶつかって、桶が崩れて落ちた――







――――頭が痛い


鈍い痛みで横たわったまま目を開いた。


崩れてきた桶が頭に当たって……




「――ここはどこ?」


何故か知らない部屋で布団へ寝かされていた――


頭に包帯が巻かれている。


体を起こすと枕元に、手甲と頬被りに使っていた手拭いが置かれていた。


痛む頭を押さえて、部屋の障子を開けた。


「気がついたか?」


声のした方へ振り返ると新見局長がいた

――







びっくりしすぎて、立ち竦んでいると


「鬼ごっこも疲れるな。俺を探っても何の手柄にもならぬのに、ご苦労なことだ」


「私!探ってなんか!!」


「――お主ら監察ではないことは承知だ。俺の事など近藤達は気にもとめていないだろうからな……」


いつの間にか外は雨で、立っていた廊下にも雨が吹き込んできた。


「お前、俺が尊攘派の公卿に近付こうとしていると、近藤に話したらしいな?」


――話したら斬り捨てる


前に言われた事を思い出して、体が冷たくなった。


「お蔭で俺は局長を外されて、副長へ降格だ」


新見局長は庭を眺めたまま静かに話した。


逃げなければ斬られると思うと、余計に体が動かなくなった。


「芹沢局長は、あの女のせいで耄碌されたらしい……会津の加護などいつまで受けているつもりか。さっさと浪士組など抜けて――」


新見局長が言葉を切って、こっちを見た。


「――また、言いつけるか?」


怖くて首を横へ振って後退った。


「俺が怖いか?」


近付いてきた新見局長から、お酒の匂いがした。


後退さると背中に誰かがぶつかった。


「やっと見つけましたわ。芹沢局長が探してはります」


佐伯さんが息を切らせて、私を押し退けて新見局長の前に立った。


「――お前なぜここへ……」


「……同じ事をわしも尋ねてええですか?新見副長」


佐伯さんは笑顔でそう呼んだ。


「ここはお互い秘密にしといた方がええんとちゃいますか?福田さんも、仲良しなんて知れたら、流石に近藤局長もお怒りになるやろうからな……」


佐伯さんの言っている意味が分からなくて、首を傾げると


「あれ?福田さんは気を失ってたから、誰に助けられたか知らんのかいな?」


助けられた?


「そうや。土佐の勤王党ってあかんやろ……」


「何それ……?」


思わず呟くと、


「とぼけてもあきまへん。新見副長も顔見知りみたいやし?」


「……だからそれなんですか?」


本当に知らないんだけど?


新見局長……副長?を見ると、薄く笑って


「わしも知らぬ。福田君が運び込まれたから知り合いだとここまで付いて来た次第。勤王党とはな……」


勤王?


「え!勤王って浪士組の敵ですか!?」


「そうだな。有らぬ疑いが掛かる前に戻るか」


慌てて新見局長の後を着いて行った。



そこは何かのお店みたいで、広い土間のある玄関まで行くと、女の人が草履を持って来てくれた。


男の人が外に止めた荷車から積荷を下ろしていた。


「世話になった」


新見局長が女の人に声を掛けて外へ出た。


「気が付かれましたか?医者を呼んで来るて出て行かれはったんですけど……」


「……あの。私をここに運んだ人って……」


「坂本はんのお知り合いです。確か、なんとか蔵って呼ばれて……なんやったかな?」


「……坂本はん?」


どこの坂本はんだろう……



考え込むと佐伯さんが


「ほんまに心当たりがないんか?土佐や土佐!」


土佐の坂本さんて言えば、有名人は坂本龍馬だろうけど……


そんな有名人とは知り合いではないし



「あ!坂本地蔵!」


女の人がぽんと手を打った。


「そや!確かそんな名前や!」


「近藤局長と知り合いの人なんです。江戸にいたころの」


佐伯さんに話すと、眉を寄せて黙ってしまった。


「髪の毛くせ毛で、大きい犬みたいな人でしょう?」


「それは坂本はんでっしゃろ?地蔵はんはなんか根暗で……いえ、口数の少ない背の高いお人でっせ」


佐伯さんが黙って店を出て行ってしまった。



「……それ、私の知ってる地蔵さんと違います。お世話になりました。戻ってきたらよろしくお伝えください。またお礼に伺います」


店を出てすぐに笠を被った侍とすれ違った。


どこかで会ったことがあるような気がしたけれど、追っ手を撒く稽古をしていたことを思い出して、佐伯さんの隣に並んだ。


雨は小降りになって、濡れてしまったけれど、暑さの中で逆に心地よかった。



「私どのくらい寝てたんですか?」


「半刻も経ってない」


「半刻って……一刻が二時間だから、一時間も経ってるの!?やばい!三条小橋に行かないと!!」


佐伯さんは何か考え事をしているのか、地面に視線を落としたまま足を止めた。



「佐伯さん、ここってどこですか?」


「うるさい。さっさと鬼ごっこの続きにでも戻れや……」



仕方なく通りの人へ道を聞いて、三条小橋へ向かった。


途中で頬かむりと手甲を忘れてきたことに気付いた。





小橋に立って川の流れを見つめた。


うつむくと頭が痛い――


「――もうみんな帰っちゃったかな……」


小橋の上で、行き交う人を眺めてしばらく待ってみた。


持っていた手拭で濡れた着物を拭いて、頭にかぶった。



通りの人も傘を差している人はほとんどいない。


遠くで雷の音がしてあきらめて屯所へ向かおうと橋を戻った。



前から歩いてくるのが山崎さんだと気付いて駆け寄って頭を下げた。



「すみません!遅くなって――――!?」


山崎さんに腕をねじ上げられて、声を上げた。


「何するんですか!」


「――言い訳は屯所で聞く」


そのまま屯所まで、何を聞いても黙ったままの山崎さんに引きずられて行った。




泥にまみれた足のまま、八木邸の門を潜って玄関に投げ込まれた。



奥に土方副長と山南さんがいて部屋の襖が閉じられた。


いつもと違う雰囲気の二人に、雨に濡れた体が寒気がした。



「あの……なんで……」


「土佐の勤王党と知り合いなのはいつからか?ここに入る前からか?」



――またその名前



「だから私は知らないって……」




山南さんが膝の前に座った。


「知らない人は君の妹の名前を呼んで助けたりしないだろう?」


「それは――坂本地蔵さんだと思います。でも、助けてくれたのが坂本さんではないみたいで……」


「地蔵?」


山南さんと土方副長が顔を見合わせた。



「近藤局長の江戸のお知り合いで、前に公事宿に行ったときに会って……あ、忘れてたけど、皆が大阪に行ってる時にも、訪ねて来て……」



「それはあの、坂本のことか?」


土方副長がぼそりつぶやいた。


「……だろうな。おさなさんの所の坂本さんでしょうね……」


「地蔵って名前が違うだろう……」


「変えたのではないか?」



二人は黙ってしまった。


隣にいた山崎さんが口を開いた。


「福田さんを助けた者は、背の高い痩せて色黒で、歳は二十四、五」


「名は?」


土方さんの問いに、山崎さんは


「店の者は地蔵と言っておりました」



また沈黙が訪れた。




あのっと勇気を出して質問してみた。



「土佐勤王党って、浪士組の敵ですか?」



包帯を巻いた頭を山崎さんの叩かれた。



「そこかい!」


「え!だって、勤王って言うけど、近藤局長の知り合いだし、さっきから訳わかんないんだもん!」



土方副長がため息をついて腰を上げた。


「とりあえずこいつに女の格好をさせるな。妹やらも死んだことにしろ!ついでに兄も死んでもらってもいい!」


怒鳴って部屋を出て行った。



――今、死ねって言った?




「福田さん死ねて言われてますが」


山崎さんがもう一度念を押した。


「何で私が死ななきゃならないんですか!!!」


「何でて、土佐勤王党と仲良しなんてな」


「仲良しじゃないって!」




「福田君。部屋で謹慎。山崎くんは見張り」



山南さんは静かにそう言った。






――謹慎




いつもの救護室の隣の部屋に入って、襖を立てて閉めて部屋の真ん中に正座した。



「……何で……謹慎?死んでいいって言われるの……?」



深呼吸して少し頭を落ち着かせた。


濡れた脚絆を脱いで、包帯をほどいて髪を下ろした。



うっちゃんから借りた着物は裾に泥が跳ねて汚してしまった。



隣の部屋からは、時たま物音がしたり、隊士が訪ねてきたりしていた。



お昼ご飯を食べていないのでお腹は空くし、のども乾いた。


荷物の中から芹沢局長に借りた水筒を見つけてお茶を飲んだ。



――なんで謹慎……



お茶を飲んで少しはっきりしてきた頭で、考えてみることにした。




多分。


一番の問題は「土佐勤王党」に知り合いがいると思われたこと。


よく分からないけれど、長州とかと同じ浪士組の会津の敵なんだろう。


近藤局長の知り合いの坂本地蔵は勤王党の人。


今日助けてくれた人も、勤王党の人。


そんな人と浪士組の隊士が会っているのが分かったら、会津に面目が立たない。


都合が悪い。


「……そんな隊士、邪魔なだけだ。クビにした方がいい。死んでくれた方がマシ……だから、死んでもいいって?」




襖があいて、御膳が隙間から差し出された。


「――ようやく事の次第に気付いたんか?」


山崎さんの手だけが見えて、襖がまた閉まった。




「でも!今日の事は不可抗力だし!勤王党なんて知らなかったし!近藤局長の知り合いだし!坂本さんは勝先生って人の所で、海軍を作るって言ってたし……それに参加しないかって、近藤局長を訪ねて来たんです……」



何も言ってくれない襖の向こうに諦めて、膳の前で手を合わせた。




今日の汁は全然味がしなかった。





布団もなくて、畳にいつのまにか横になって眠ってしまっていた。


襖が開いて暗闇にぼんやり灯りが見えた。



――近藤局長……?



その手が頭に触れた。


眠たくてめまいのする頭で体を無理矢理起こした。



「……申し訳ありません。私――」


「坂本さんが海軍に誘いに来たそうだね。勝先生とは開国論者の勝麟太郎か……」


うなづいて、その名前に井上さんが嫌な顔をしたことを思い出した。


「変わった人だとは思っていたが海軍とはな。土佐勤王党とは全く逆ではないか」


近藤局長は少し笑って


「……いい話だが少しわしとは考え方が違うな。違うし、もうここを放り出してなどいけないだろう?隊士を残して一人だけ……」


また頭に手を置かれた。


「福田君を助けたのは坂本さんではない。覚えているか?公事宿へ行く途中、もう二人いただろう?桂さんともう一人――」


「――あ、櫛の人?」



あの時、私の頭に櫛を刺した人!?


未だにあの痛みは忘れていない。



「――岡田以蔵。人斬りだ」



――人斬り?



「――だと思う。山崎君に聞いた年格好がそっくりそのままだ。わしも迂闊だった。まさか、坂本さんや桂さんが真昼間からそんな奴といるとは思わなんだ。土方、山南副長にも怒られたよ」


近藤さんは頭をかいて、はははと笑った。



「笑い事ではないな。福田君を危ない目にも合わせたし、新見さんにも迷惑をかけた。それに、お雪は可愛過ぎるから、変な虫がすぐ寄ってくるし……しばらくは、お雪は禁止にする」



「え?」



「やはり男の格好でいろと言う事だ」



部屋を出て行こうとする近藤局長を慌てて引き止めた。


とても聞きづらいけれど、意を決して聞いてみた。



「私、土方副長に死んでいいって言われたんですけど……私はどうしたらいいんですか?」




「――間者ならそうするよ」



近藤局長はいつもと変わらない顔でこっちを見下ろした。

「違うよな?福田睦月は――」



違うよ、近藤局長……


そんな言い方、まるで……



「――疑ってるんですか…………私……」



「間者は外からだけ入ってくるものじゃないだろう。組内でも最近はうっかりすると――」



近藤局長の姿が揺らいで見えて、鼻の奥が痛くなった。






局長がいなくなった部屋で、じっと正座したまま膝の上でこぶしを握った。



――私は疑われてた?



間者は外からではなく組内でもって言ってた。


それは、芹沢局長派の間者って事?


確かに私はどっち付かずで、馬越さんにも言われたことだ。



「でも、何を探るって言うの?近藤局長が何か芹沢局長に悪いことしてるって言うの?そんなの知らない……」


知らないし、知りたくもないし




「私……疑われてたの……?」



喉の奥が痙攣した。


襖が開いて、暗闇の中に人が座った。



「福田さん。近藤局長がこれを福田さんにだそうです」


馬越さんの声が、何かを畳の上へ置いた。



「謹慎らしいですけど、何かやらかしましたか?」





いつもの不愛想な声で、張りつめていたものが切れてしまった――




「近藤局長が死にそうな顔してましたけど、本当に福田さんの事になると、見苦しいほど動揺して――」




腕を伸ばして、馬越さんの着物を掴んだ。


そのままその胸に顔をうずめた――


ただもう、考えるのもおっくうで、泣くことしか出来なかった。





――どれだけ泣いたか、少し心が落ち着いて、眠気でうとうとし始めた。


濡れた着物から顔をずらして、濡れていない所へ頬をずらした。


このまますとんと心地よく眠りに落ちて――



「――寝ようとかしてます?」


耳元で馬越さんの声がして、意識を引っ張られた。


「……馬越さんて、声低いですよね……顔とギャップ……」


鼻をすすって重痒いまぶたを開けた。


喉仏が見えた。



「……あのね。私、間者だって疑われてたみたい……」


言葉に出すとまた喉の奥が痛くなって声が震えた。


「それも……芹沢局長の……」


また涙が浮かんできた。



「馬越さんの、言う通りだった……どっちつかずだから……」


「――あの」


「そんなに相手の事を探るほど、二人は仲悪かったんですね……私、全然気付かなかった……」


馬越さんから離れようと思うけれど、心地良すぎてダメだ。


「――足が痺れた……」


背中に腕が回って、馬越さんは足を崩した。



「……でも、やっぱり私は二人とも大好きです」



目を閉じると耳元に頬ずりされた。


それと同時に外から、すすり泣きが聞こえた。



頬ずりが顎まで来て目を開けた。


「――ねえ何か聞こえない?」


「――聞こえない……」


首がくすぐったくて一気に目が覚めた。



「!?何してるんですか!!」


胸を押して距離を取った。



今こいつ首に噛みついたよ!?



「……ええのかなと思って……」


「ななななっ何がええんですか!?」


「すり寄ってくるし」


「すり寄ってなんか……なんか……」



暗くて顔は見えないけれど、こっちの畳に手をついたのは分かった。


外でのすすり泣きが号泣に変わった。



「見えなくて永倉さんだと言う事を忘れてませんか!?」


座ったまま後ろへ移動した。


「――ずるい。自分の触りたい時だけきて」


「それは!……すみません……」


確かにそうだなと思ったけれど、


「騙されてはいけない!触るだけで終わる気がしないし!って、私何を考えてるんだー!?とにかく!!好きでもない人とこんなことしてはいけません!!!」



外で誰か泣いてるのも気になるし!



「――好きやったええんですか?」


「馬越さんが好きでも、それはお互いに同意の上で……え?」


「……ごちゃごちゃと井上さんみたいやな」


馬越さんは後ろ手で障子を開けた。



外で、近藤局長が号泣していた――



――その夜から


何かが変わったのかと言われれば変わったのかも知れないし、変わってないのかもしれない……


相変わらず私は芹沢局長とも近藤局長とも同じように接している。


あの夜、泣いていた近藤局長から、二人の間に、何かしらの亀裂があるとは聞いた。


悲しいけれど理解した。


考えないようにした。


諦めた。



「じゃあ、いつか浪士組も別れるんですか?」


その質問に、近藤局長は


「そうならないようにしたい」


と答えた。



だから、もう私はこの事は考えないようにした。


「大坂行きの船であった男、覚えてますか?」


朝餉が済んで救護室へ戻ると、馬越さんがふらりやって来た。


部屋には私一人。


あの夜から二人きりになるのが気まずい……


馬越さんはなんとも思ってないみたいだけれど……


「船酔いの人?」


「はい。島津藩の。何だか似てたんですよね……さっきすれ違った男」


ふーんと返事をして、腰をあげた。


「私、薬をもらいに吉川先生の所へ行ってきます!」


やっぱり二人きりだと気まずい……


「俺も――」


「大丈夫です!馬越さんは軍師さんの手伝いとかあるでしょう?」


慌てて草履を引っかけた。


「――避けてます?俺の事?」


「そんな事はないです!」


「あんなの気にしないで下さい」


馬越さんも隣で草履を履いて、雑魚部屋へ入っていった。





――あんなの……あんなの……あんなの!?


「あんなのじゃないし!バカ馬越!!」


文句を言いながら、吉川先生宅へ向かった。


歩きながら今朝、うっちゃんに着物を返しそびれた事を思い出した。


汚してしまったから、洗濯して返さなければ――


「……洗濯もお風呂も入りたい……」


じっとりとまとわりつく湿気に、ため息をついた。




先生は留守で、お光さんが一人で顔を出した。


奥には患者さんがいるみたいだ。


「近頃はお裁縫習いに来いへんな」


お光さんは相変わらず美人で、凛としている。


「兄も福田はんが押し掛けて来ないから、寂しそうやで」


「……来てもいいんですか?」


「さあて。塗り薬はこれ。水当たりはこっち。あと、これ」


お光さんがべっこう飴を手のひらに乗せてくれた。




「甘いもん食べたら元気になりますよって――何かあった?」


首を傾げたお光さんに、首を横へ振って答えた。



何かありすぎて、上手く話せる気がしない。


それのこのことは、誰にも話せない。


浪士組の局長が仲が悪いなんて、そんなこと言えない。





「そう」


「お宮ちゃんは元気ですか?」


奥の襖が開いて、顔が覗いた。


「――沖田はんは?」


お宮ちゃんが口を開いた。


「こんにちは。沖田さんはお仕事」


目の前まで歩いてきて、紙を手渡された。


「沖田はんにあげる。福田はんやないで、沖田はんにやで!」


頷くと、手を引かれて外へ連れ出された。


「早う渡して!」


「はい……沖田さん良く遊びに来るの?」


「福田はんには関係あらへん」


「すみません……」


相変わらず私は嫌われているらしく、しっしっと手で追い払われた。

沖田さんにお宮ちゃんからの手紙を渡す前に、八木邸のうっちゃんを訪ねた。


部屋には誰もいなくて、厨を覗いてみた。


おかよさんと八木の奥さんが、山南さんと話をしていた。



「あ!福田はん!ええところに来た。来月からお食事は浪士組でって話してましたんや」


山南さんが振り返った。


謹慎を言い渡されてから、ちょっと私の中でわだかまりが出来てしまった――


山南さんだけではない。


近藤局長も土方副長も――他の人たちもそういう風に見られていたのかと思うと、いたたまれなくなる――



奥さんが寄って来て耳元で囁いた。


「おかよさん。ご懐妊でしばらく無理はさせられへんの」


「え?赤ちゃんが出来たんですか!?」


おかよさんは大きな声で!と恥ずかしそうに手を振った。



「それに、福田はんや安藤はんらも米は炊けるみたいやし、大所帯でここでは間に合わへん。あっちの屋敷にも厨はあるんや!使うてへんだけで」



「私からも申し出たんだ。ずっと食事の面倒まで見てもらうのは心苦しくて。私たちも前川邸へ移ろうかと思っている」


山南さんはいつもの穏やかな口調で話した。


それから、前川邸の厨の掃除を始めた。


八木邸の道場を作りに来ている、大工さんも竃を見に来てくれた。


「――変なのに付きまとわれてへんか?」


「変なの?」


「ほれ。あそこ」



大工さんのごつごつした指の先に、厨を覗きに来ていた隊士がいた。


安藤さん、山野さん、杉山さん、佐々木さんともう一人の佐々木さん、中村さん、それから――名前忘れたひとが二人……



首を傾げると、大工さんが伏せておいた桶に腰掛けた。


「娘が弁当届けると言うが、こんな所に来させへんで」


「皆、そんな変な人じゃないですよ?」


「どやろな……あんた一人だけ浮いてるし……あんたのが変な人なんかな?」


「え?私浮いてます?!」


「わしは好みやけどな」


「あ、ありがとうございます……」


どれと、大工さんは立ち上がって八木邸へ戻って行った。




「おっさんに言われてもな。嬉しくないわな」


安藤さんが水瓶を運んできた。


「嬉しいですよ!棟梁渋くてかっこいいじゃないですか」


「そんなの公言したら、毎晩おちおち寝られなくなるわ……恐ろしや……」


杉山さんが炭を持ってきた。


竃に火をつける。





煙が部屋に充満した――




「なんでこんなに煙……げほげほっ!」


皆で咳き込んで外へ出た。


「湿気ってたろ!?」


「何を燃やしたんだ?」


灰を被って真っ白になった安藤さんを見て、山野さんが笑った。


私もつられて笑った。




「火事かーー!?」


藤堂さんが安藤さんに桶で水をぶっかけた。


皆で文字通りお腹を抱えて笑った。



こんなに笑ったのは久し振りだった。




沖田さんへお宮ちゃんからの手紙を渡そうと、救護室へ戻った。


部屋には山崎さんしかいなかった。


「幹部の皆はんは八木邸に行きはったで」



だったら後で渡そうと、お光さんに貰った塗り薬を山崎さんへ渡した。


天気もいいし、うっちゃんから借りた着物を洗おう。



「――着物って、普通に洗っていいんですか?」


うっちゃんの着物を広げて、山崎さんへ見せた。


「――普通って何や?」


「だから、洗濯桶に入れて、水で」


山崎さんは何か言おうとしたけれど


「……持ち主に聞いたらええ」


「あ!そうですね。聞いてきます」




着物を抱えて、門を潜ったけれど足が止まった。



八木邸には幹部の皆さんがいる。





――私、疑われてた





「――もし!浪士組の――」


「!?」



悲鳴をかみ殺して振り返った。


ちゃんとまげを結った侍が三人立っていた。


「局長らはこちらか?」



「はい!」


八木邸へ案内しながら、名前を聞くのを忘れたことに気が付いた。


どうみても、ちゃんとしたお侍さんだけれど。


会津とか、公事宿の役人さんとかそっち系だよね?



八木邸から出てきた永倉さんへ三人をお願いして、母屋の方へ向かった。




「福田!」


永倉さんから呼び止められて振り返ると


「お茶!」


「はい!」


厨へダッシュした。




中におかよさんとうっちゃんがいて、飛び込んできた私に目を丸くした。



「すみません、お茶を下さい」


おかよさんは土瓶から急須へお湯を注ぐと、うっと口を押えた。


「貸して」


うっちゃんが代わりにお茶を入れてくれた。


「具合が悪いんですか?」


「ややこがおるから」


うっちゃんの言葉に、それはつわりなんだなと理解した。



病ではないからと、おかよさんはお茶を持って行ってくれたけれど、やっぱり顔色が悪い。


八木のおかみさんからも休んでもいいって言われているけれど、無理をして出て来ているらしい。



「大丈夫じゃないですよね」


「朝からよう戻してるしな」


ところでと、持っていた着物をうっちゃんが指さした。


汚してしまったので洗い方を訪ねると、麻の古い着物だから、洗い張り出さなくてもいいって言われた……



「洗い張りって何ですか?」


「……着物洗ったことないの?」


「……多分、母は結婚式とかに着たのは、クリーニングに出していたと思うけど」


「くりにんぐは知らんけど、着物を解いたら桶につけて押して洗い。それやったら簡単やろ?その綿の着物と一緒でええ。絹はあかん。分かる?」




分かったような分からんような……



「着物を解くって何ですか?」


うっちゃんは驚いた顔をして


「今日はお天気やし、うっちゃんが一から教えたります」


それから、町へ糊と伸子針を買いに行った。


すぐに屯所に戻るのかと思っていたら、うっちゃんは地図の上の方へ歩いて行った。


「どこ行くんですか?」


「洗い張り習いに。うちはそんなことしたことあらへんので」


「え!?」



うっちゃんは何か企んだように笑って、通りがかった男の子に声を掛けた。


「菱屋の多吉呼んで来て。お姉はんが呼んでる言うたら分かる」


そういって、小銭を握らせた。


男の子は頷いて、紺色ののれんのかかった、大きな着物屋さんに入って行った。


「……菱屋ってうっちゃんがいた所?」


「そうや。来た来た」



店から男の人が飛び出してきて、うっちゃんを見つけると反物を片手に持ったまま走ってきた。


そしていきなりその反物でうっちゃんの頭を殴った。


「なっ!?」


思わず身構えると、うっちゃんは笑いだした。


「相変わらず容赦ないな」


「どの面下げてこの町歩いとるんじゃ!何の連絡も寄越さんき、壬生浪の慰み者になって、どこぞの河に鎮められとうかと――」


うっちゃんが脛を蹴って、男の人はその場にうずくまった。


「誰が慰み者や。こら!」


「……いらん心配でしたな」


「あんたこの子に洗い張り教えたって」


多吉さんがこっちを見上げて、立ち上がった。


「また、こんな可愛らしいのを取り込んでええ身分ですな。もう局長には捨てられましたか?」


うっちゃんはまた脛を蹴って


「そんなにうちに戻って来てほしいんか?うちのこと好きでたまらんもんな?なんなら昔貰った文を、旦那はん宛に送って――」


「殺んぞこら。あれは間違いやったと言うたじゃろ?」


うっちゃんは妖艶に微笑んで


「ほな。付いて来て」


「今から洗うても乾かんで。明日暇を貰うけん、そいでええな……」


「しゃーない。帰ろ」


多吉さんに頭を下げて、さっさと歩いて行くうっちゃんの後を追いかけた。


「相変わらずどん臭いな……少しは加減せいっちゅうねん」


うっちゃんは頭をさすりながら微笑んだ。


「洗い張りは明日になった。何しよか?市でも覗いてく?甘いもんでも食べて行こか?」


「あ……私、今日は非番ではないので帰らないと」


「そんなに一生懸命やっても、あの人ら福田はんのことなんて、小間使いの一人としか見てへんで。なんかあったら女なんて捨てられて終わりや」



――うっちゃんの言葉で体が冷たくなった



「特に、近藤はんや土方はんは伸し上ることしか考えてへん。福田はんの事なんて、構う余裕もないし。伸し上ったら伸し上ったで、他に綺麗な女を囲って、福田はんなんか見向きもせえへんようになる」



そんなことないよって言いたかった。


近藤局長は私にいつも優しい言葉をかけてくれるし、謹慎処分の時も、今の浪士組の事を分かりやすく話してくれた。


土方副長は……私の事をどう思っているのか分からないけれど、夢の話をしても出て行けとは言われてないし……


死んでもいいって言われたけれど――



「――だから成り上がり者って嫌いや。ぎらぎらして蹴落として、体の良い思想を吹いて、そのためなら何してもええと思ってる」


うっちゃんは微笑んだままこっちへ振り返った。


「だからうちは、井上はんを床に誘ったんやけどな」


「――え?」


「だって、あの人どうみてもええとこのお武家はんやで?妾になったら楽できるし、優しいし、人に関心がないから束縛せえへんやろうし、好きなことのびのび出来そうやん?」



――えっと



成り上がりで私は捨てられる発言だけでも、打撃を受けて気を失いかけてたのに――



床に誘った発言で、遠くなった意識を無理矢理殴られてまた現実に戻された。





「え?なんや?あかんかった?井上はんだけやないで?お梅姉はんとこの馬越はんも誘ったんやで?何でも実家は廻船問屋らしいで?」



うっちゃんはにこにこ顔を覗き込んできた。



またどこか殴られた――




「――浪士組に女が一人で、ちやほやされてんの自分だけやと思ってたん?早う寝て、体で繋ぎ留めとかな――取られるで?」



「!?」


「あー喉渇いたな。何食べてく?せやけど、ここも廃れたな。生糸が高くて織物が出来へんて、機織りの音、全然せえへんし」





――なんだろう、この感情――


悲しいし悔しい。


絶望怒り恥ずかしい……




「またあかんこと言うた?でもうちはおかしなことはなんも言うてへんで?誰も、福田はんに教えてやらへんから言うただけで。福田はんの事好きやから言うただけやで?」



「――え?」


「――うちのこと嫌いになった?別にええけど」


笑顔で歩き出したうっちゃんの細い背中を眺めた。



抜いた衣紋の細い首が少し右に傾いていた。


心がぐったり


頭は混乱……



前川邸の門を潜って、何人か隊士とすれ違った。


「福田さん。飯はまだだろ?」


「……いいです……」


うつむいたまま救護室へ向かった。


中で沖田さんが昼餉を食べていた。


「飯は?」


「……いらない……」


背を向けて、縁側に腰かけた。


「腹でも痛いのか?」


首を横へ振って、お宮ちゃんの手紙を思い出した。


「……お宮ちゃんから」


畳に置くと、沖田さんはちらりと見ただけでご飯を口に入れた。


目だけがきょろきょろ世話しない。


「……気になるなら早く見たらいいのに……」


急に咳き込んで、お茶に手を伸ばした。




「……私もお茶飲もうっと……」


沖田さんの隣で急須からお茶を注いだ。


ぬるめのお茶を一気に飲んだら、少し頭がはっきりした。



「……沖田さん……私、疑われてますか?芹沢局長の間者だって――」


何の感情もなく言葉が出てきた。


「――何だそれ?」


沖田さんは漸く手紙を手に取った。




「――私がどっちの局長とも仲が良いから、探ってるみたいに見えたの。近藤局長に言われた」


「ふーん。それは知らなかった。まあ、最初は浪士組を探りに、志士さんが送り込んだ間者ではないかと、疑ってたみたいだけど――」


「そんな……最初から……」


ため息と同時に何故か笑ってしまった。


「でも、越後の長岡藩にもそんな娘の届出もないし、嘘ついてまで何でここへ居たがるのか……怪しい以外ないだろ?」


「……確かに」


良く考えたらその通りだ。


良くそんな怪しいやつ置いてくれたもんだ。


「だけど、何だかんだでまだいるもんな。芹沢局長の間者は……無理だろ?近藤局長の間者なら――」


沖田さんはため息をついて


「とにかく、間者だと疑われたくなかったら、近藤さんに断りもなしにお梅さんと出歩いたり、勤王の志士とかと会ったりするな」


沖田さんの手が頭を撫でた。


「――坂本さんは変人だから、巻き込まれたら面倒臭いし……お前も災難だったな」


暖かい手に固まってた体が、つい緩みそうになった。


「――気持ち悪……沖田さんが優しい……」


「俺は……近藤さんに頼まれたら、福田にだって優しく出来る」


沖田さんが無理矢理微笑んだ。


「やっぱりそうか……一つだけ聞いていい?」


沖田さんが笑うのをやめた。



「私の事、間者だと思ってる?」


「――俺が送るなら、もっと美人で、隊士を丸め込めて、何事もそつ無くこなす優秀な間者にするけどな」


即答した沖田さんの頭にあった手を払った。


「思ってないんだ」


「思うか馬鹿」





ぐーとお腹が大音量で鳴った。

沖田さんの膳のめざしを、口に入れた。


「お腹空いた~苦っ」


「馬鹿!俺の!」


苦いめざしを飲み込んで


「私も昼餉もらってきます!」


少し軽くなった体で、厨へ走った。


前川邸で使えるようになった竈から、冷たくなったご飯をよそった。


「――あ、まだありますか?」


馬越さんが水瓶から柄杓で水を飲んで、土間に座り込んだ。


――どうしよう……


噛まれた首の痛みを思い出した。


「――ありますよ。おかずは味噌汁しかないですけど……」


――床へ誘ったんどす


うっちゃんの言葉も思い出した。


さっさと二人分をよそって、積んであったお膳に乗せた。


「ここに置いときますね!」


土間に座ってうつむいたままの馬越さんの前をお膳を持って駆け抜けた。




ため息をついて、後ろを振り返った。


馬越さんはそのままの体勢で座っていた。


数歩歩いてもう一度振り返った。


「……あれ?馬越さん?」


全然動かない。


「――ああ、もう!」


意を決して戻って、項垂れた肩を箸で突ついてみた。


「……ご飯、置いときますよ?……寝てるの?」


手で肩を押すと体がぐらりと傾いて、土間にこめかみから倒れた。


「わ!馬越さん!?馬越さん!?」



目を開けない馬越さんを揺さぶっていると、安藤さんが隣に座った。


「どうした?おい!」


安藤さんが馬越さんの頬を叩くと、うっすら目を開けた。


「救護室へ運べばいいか?」


頷いて馬越さんの手のひらに血が滲んでいるのに気が付いた。


意識はあるけれど、ぐったり横になったままの馬越さんの手を消毒した。


薬が染みるのか時々顔をしかめた。


「疲労困憊、満身創痍だな……」


ここまで運んでくれた安藤さんが、馬越さんの顔を覗き込んだ。


「……何か弱味でも握られておるのか?」


馬越さんは薄く目を開いたけれど、すぐに目を閉じてしまった。


「弱み?」


「武田軍師専属隊士……」


「……仕事ですから。安藤さんも賄いやってるやないですか?それと同じことです……」


馬越さんは目を閉じたままそう言った。


「……確かに仕事なら真面目に取り組まなければならないが……」


安藤さんが馬越さんの着物の合わせを開いた。


胸には鎖骨の辺りから、青痣が縦に付いていた。


「どうしたんですか!?こんな――」


「……落ちただけです。落ちた下に荷物があって……骨は折れてませんよ。大したことないですから、少し休ませて下さい……」


「……でも……」


安藤さんに肩を叩かれて、救護室の外へ出た。




「……安藤さんは何か知ってるんですか?あの痣、軍師さんのせいですか?噂があるって沖田さんも言ってたけど、馬越さん軍師さんから……」


「いや、確かに綺麗な面構えだが、馬越さんは――」


安藤さんの困った顔を見つめた。


「パワハラ受けてますか!?」


「そういう趣向はなさそうだしな――?ぱわ?何だ?」


二人で暫く顔を見合わせて、お互いの言葉の意味を考えた。



「馬越は大事ないか?」


島田さんが大きな図体で、間に走り込んできた。


「全然大事なくないです!大丈夫じゃないです!!何であんなひどい痣が出来てるんですか!?」


島田さんに詰め寄ると


「それは屋根から落ちて――」


「何で屋根から落ちたんですか!?」


「……猫が降りれなくなってうるさいと……」


「猫?」


安藤さんともう一度顔を見合わせた。


――事のあらましはこうだ


島田さんは林さんと、浪士組を語り、店の品を持ち去った浪士の探索に出ていたらしい。


そこで、人だかりに出くわした。


屋根の猫がうるさいと、矢で射殺そうとしている所だった。


そこへ軍師さんが屋根へ上り、猫を助けたらしい。


さっさと降りたらいいのに、何故か馬越さんを呼んで、自分の所まで上らせた。



「何でも、高いところが苦手なのを忘れていたらしい……」



馬越さんは猫と軍師さんを背負って、梯子の側まで来たけれど、どうしても軍師さんが降りられない。


「猫はとっくの昔に、逃げて行ったがな」


背負ったまま梯子を降りる途中で軍師さんが暴れて、落ちたらしい……


「馬越は武田さんを庇って、腹から落ちたんだ。災難だった……」


安藤さんは、うっと声を出して、自分の胸を擦った。


いつの間にか、林さんも島田さんの隣にいた。


「昨日は、武田のせいで川へ落ちていたぞ」


「林さんも見てたか?馬に引かれそうにもなっていたよな?」


そこへ、川島さんも参加した。


「荷車へぶつかって、積み荷を引っくり返したのも、武田のせいやで?」


「災難だな……」


三人は同時に呟いて、雑魚寝部屋へ戻って行った。


ゲッと安藤さんの喉が鳴って、振り返ると、軍師さんがこっちへやって来た。


安藤さんもそそくさ厨へ戻って行った。



目の前で止まった軍師へ両腕を開いて、通せんぼをした。


「馬越さんは大怪我をして、絶対安静中です!立入禁止です!」


「福田君。君も災難だったそうだな」



――いや、災難はあなたのせいでしょう?


カラシ色の羽織の紐をいじりながら、軍師さんはこっちを下から上へ一瞥して


「妹君はどうしておる?先日、妹のせいで有らぬ疑いをかけられて、謹慎を命じられたそうではないか。近藤局長もさぞやご心配なされたご様子。いくら親族とはいえ、局長の手を煩わせてはいかんな」


ぽんと肩を叩かれて、一歩下がった。




――忘れていた感情が甦ってきた。



――ワタシハウタガワレテイタ……



「――それとも、わざと煩わせたのか?妹を使って……?」


「そんなこと、するわけないじゃないですか!」


軍師さんは暫く黙ったままこっちを見つめて


「……女子のように怒るのだな」


「!?失礼します!」



踵を返して、救護室へ逃げ込みように戻った。


そっと障子を開いて、馬越さんの様子を伺った。


仰向けで横になった胸が規則正しく上下していた。


奥に、お膳が起きっぱなしになっていた。


ため息をついて、縁側へ腰掛けた。


「……何か、疲れた……」


そういえば沖田さんはどこへ行ったんだろう?


たくさんの事が一度に起こって、もう気持ちもぐちゃぐちゃだ。


パンク寸前……




こんなとき、井上さんがいたら、話を聞いてくれるだろうか?


それとも、怒られるかな……


きちんと片付けなさいと言われるかな……



立ち上がって、隣の部屋へ入って、筆と帳面を広げた。



「――片付けよう。まず、ぐちゃぐちゃの原因を書き出そう」


落ち込んでも、泣いても、何にも解決はしない。


誰かに相談するにも、上手く言葉に出来ない。



筆の先を舐めると、紙に落とした。


薄い炭が紙に滲んだ。



「きちんと整理して、自分はどうするか決めなければ」





――そもそもここは夢なんだと言う事は、どっかに置いとこう。



まず、私はどっち派か。


「……どっち派でもない」


大体!良く考えたら隊士でもないし、救護班件雑用係だし、女だし、どっち派になろうが浪士組にとっては、関係なくない!?



「問題はそこじゃなくて、疑われてたってことだ……」


それは、越後出身とか医者とか嘘ついてるからしょうがないんだけど。


「……そうだ。しょうがない。だって、夢だって言っても頭おかしいって思われるだけだし。はい。疑われるのはしようがない。次」


しょうがないで、終わらせていいのか?!


「……これはすぐには解決しそうにないので、後で要相談」


次!


「うっちゃん発言」


――これは、ちょうど本人が隣で寝ているので、聞いてみよう



襖を開けて、馬越さんの枕元に座ると可愛い目が開いた。


「あの!馬越さんはうっちゃんに……その……誘われましたか?それで、その……床へって、その……井上さんも誘ったって……それって……うっちゃんと……」


やっぱり聞けないと、立ち上がった。




「――なんでそないなこと聞くんですか?」


「……そうですよね!私には関係のないことですよね!今はうっちゃんは芹沢局長と付き合ってるんですよね!失礼しました!!」


袴を掴まれて、前に手をついて倒れた。



「井上さんの事は知りませんが、俺は誘われましたよ」


胸が痛くなった。


「それから、実家の事を色々聞かれて、浪士組辞めたら一緒に連れて行けと、誰もいない部屋で無理矢理……」


「もういいです!」


「念書を書かされそうになって逃げました。あの後、くしゃみが止まらなくて。俺、粉の匂い嗅ぐと、くしゃみが止まらなくなるんです。童の頃から」


「え?」


振り返って目が合うと


「何かやらしいこと思ってましたか?」


「失礼しました!!」



襖を閉めて帳面の前に戻った。



「――うっちゃんが床に誘ったって言うから……」


でも、井上さんの事は分かんない――



あ、また胸が痛い……



「……次!えーっと、何だっけ?土佐勤王党とは関係ありません。これはもう近藤局長も新見副長も分かってくれているはず。沖田さんも知っていたし。次!……馬越さんが最近セクハラ多し……」


閉じた襖をもう一度開けた。


十センチくらいの隙間から声を掛けた。



「――あの、どうして最近私に触るんですか?」



こっちに足を向けて寝ている馬越さんの顔は見えない。



「……どうしてでしょうね」


「どうしてって!女の子なら誰でも触るんですか!?」


「……俺、声は掛けますが、触ったりしないですよ。そんな奴嫌でしょう?怖いやないですか……触っていいなら喜んで触りますけど」



「――私は触っていいって言ってないですよ――」



少し間があって


「――あ!気付きませんでした」


「もう触らないで下さい!」


襖を閉めて、帳面の前に座りなおした。




「あれ?帳面がない……」


「……で、悩みは解決か?」


背後から声がして振り返ると、山崎さんが帳面を眺めていた。


帳面と奪い返そうとすると、ひょいとかわされてしまう。


「疑われてる?そんなん、ここに居る奴、皆疑われてるで?」


「――え?」



「俺かて疑われてるわ……はじめに言うてたこととちゃうやん――て、落ち込んでもしゃあないからな」


そう言いながら、馬越さんの部屋へ入って行った。


「診せてみい。これは折れてんで!しばらく福田さんにちょっかいは出せへんな」


「骨折してるんですか!?」


山崎さんは、馬越さんの着物の襟を開いて、


「右のここ!」


あばら骨の辺りを指で押した。


馬越さんが顔をしかめた。



意外と逞しい胸と顔を歪める表情が艶っぽくて、顔が熱くなった。


「……何、赤くなってんねん」


「……いいいいえ!着やせするタイプなんだなーって……折れてるんだ……」


「そや、ここな」


二人で胸を突っついていると



「――治ったら容赦へんで触る」


馬越さんに睨みつけられた。












*****--*****--***---**----re--****--***--*--



久美ちゃんが学校に来なくなって、一週間が過ぎた。


それは突然で、最初は風邪でも引いたのかなと思っていた。



メールの返事も


「大丈夫!元気」


から、返事が来なくなって家を訪ねると


「ちょっと疲れたみたいね。お腹が痛くて学校行けないの」


久美ちゃんのお母さんが玄関先で教えてくれた。


誰にも会いたくないと言われて、プリントだけ渡して帰った。




「どうしたんだろうな」


席替えで隣になった充と休み時間に、久美ちゃんの話をしていると


「何も聞いてないの?」


ザッキ―が後ろの席に座った。


「――一緒にいたのに気付いてなかったの?久美さん、演劇部で浮いてたよ。福田さんを突き落とした先輩がばらしたんじゃない?」


「――!?」


「自業自得だけどね。自分を好きな先輩を使って、主役になったんだから」


「違う!久美ちゃんは……」


ザッキ―はしばらくこっちを見つめて


「……福田さんの事が好きで、皆に見られたくなくて突き落としたって言った?それ、嘘だよ。やさしいパパとママがいて、初恋のお兄さんには妹とと同じようにしか見られないって言われて、演劇部で一年で主役もやって、自分より可愛くもないのに好きだって言ってくれる幼馴染もいて、そいつにも振られて、主役出来なくなったのに、裏方が楽しいとか言い出して、センスがいいって先輩たちには褒められて……」


深呼吸してザッキーは続けた。


「成績だって休んでたのに私よりいいし、睦月のこといいなって言ってた男子に、どんな子って聞かれて、悪く言ったら逆に私がヤバいみたいな?」


「……もういいよ」


充がザッキ―に声を掛けた。


私は息をするのを忘れていたみたいで、息苦しくて空気を目いっぱい吸い込んだ。



「逆恨みだけど、そんな友達が側にいたら、分からないでもない」


私はショックだったけれど、こくり頷いていた。



何も知らなかった。


久美ちゃんがお兄ちゃんを好きだったのも、そんふうに思われていたのも。



「嫌いになろうと思ったけれどダメなんだって」


「もういいって!」


充の声で休み時間で騒がしかった教室が静かになった。


「好きなんだって。福田さんの事」



教室が息をのんだ。


マジ?って囁く声も。





「――あー、それ分かる」


充が机に肘をついて頭を抱えた。


「俺、久美ちゃんと語れる気がする。つーか、今から語ってくるわ」


充は鞄を持って教室を出て行った。




今はまだ三時限目の休み時間だ。



「……ザッキ―君。私どうしたらいい?」


ザッキ―は少し笑って


「両親が離婚して、お兄さんが久美ちゃんと付き合って充と取り合って、演劇部でどうしようもない位センスの悪さを披露して、成績最下位を取って留年して……簡単だよ?」


「無理それ」


「僕は福田さんより、松永久美さんの方が、執念深くて好きだけどな。美人だし」


「え?久美ちゃんのこと好きなの?」


「うん。告ったら即振られたけど」


「マジ!?」




「……松永さんに振られたんだって」


「それで福田さん?うわー最悪。誰でもいいの?」



まわりの囁き声が聞こえてきて、ザッキ―は噂話の元へ歩いて行った。


「ううん。福田さんは苦手なタイプだから、もう一回、松永さんに頑張ってみようと思ってるんだけど、どう思う?キモい?あきらめた方がいいと思う?」


話しかけられた藤岡さんは、顔を真っ赤にして


「……えー、どうかな?久美ちゃんは可愛いけど、調子乗ってるって言うか……ザッキ―振られるなんてね?」


まわりもうんうん頷く。


「調子乗ってるんじゃないよ?ずっと好きな人がいるんだって」


「ええ?そうなの!?」


「見かけによらず、そうなんだって」


「へー」





途中から、話が頭に入らなくなった。


帰りに久美ちゃんの所へ行こう。


「……成績最下位は無理だけど、お兄ちゃんのどこがいいんだ?イケメンでもないし、優しくもないし、面白くもないし……」



チャイムの音。




私だって、そんな羨ましがられる人間じゃない。



――好きなんだって。福田さんの事



んーっと伸びをして、引き出しから教科書を出した。



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