68.曰く、夢現、その境は曖昧とか。
男が、泣き叫ぶ子供の四肢をむんずと掴み、引き千切る。
悲鳴が、絶叫が、眼鏡の向こうで響き渡る。
シキミは、勇気という勇気を掻き集め、思わず背けてしまいそうになる目を、必死にその場に繋ぎ止めていた。
飛び散る鮮血を映し出す赤い瞳は、今日見たエイデンと同じ色。
己の手で壊し、殺めてゆく有り様は、その瞳の奥でどう見えているのだろう。
まだ日の明るいうちに、閑静な屋敷の中で、こんな惨劇が繰り広げられていたなんて、一体誰が考えられたというのか。
穏やかな午後の光に照らされた、この部屋だけが異質だ。
マッティアのふくよかな身体が、荒い息に合わせて上下に揺れている。
アア、オオ、と漏れ出すような母音の羅列は、結局意味を成さないまま垂れ流されていて。最早声も出せず、虫の息の子供たちは、母の遺骸に寄り添うように倒れ込んでいた。
暖炉の傍で煤に塗れ、諦めを宿した虚ろな瞳が、狂ってしまった父親を無感動に見つめている。
思わず伸ばしかけた手は、しかし、全て幻であることを思い出して下げられる。
握りしめた手は、今はひたすらに無力だ。
恐ろしいというよりも、ただただ哀しかった。
流れた血は、血溜まりとなって床に広がっている。
光すら呑み込んでしまいそうな黒い染みは、ゆっくりと大きくなっていた。
散々暴れまわったマッティアは、暫くすると苦しげに胸を抑えて、たたらを踏んだ。
ふらふらと、彼は家族の死体から離れてゆく。まるで自分が仕出かした事から逃げるように。数歩進んで、ぐらりとその身体は傾くと、やがてどうと倒れ伏した。
そのまま、彼は動かなくなって、部屋には静寂が戻ってくる。
濃い血の臭いが鼻につく。
幻のはずなのに、ただの記憶の筈なのに。この身体が、過去へと飲み込まれてゆくようだ。
浅くなる呼吸を沈めるように、大きく吸って吐いた息に咽る。一つ、二つと流れる涙は、呼吸が苦しくなったからだと言い訳をした。
やがて早送りのように夕陽は落ち、部屋には夜がやってくる。
月の明るい夜だった。窓から差し込む銀の光が、凄惨な光景を幻想に包み込もうとしているようだ。
何人死のうが、惑星は回り続ける。それは、きっとどの世界でも同じこと。
折り重なった骸は、死んだ光に照らされて、一層白かった。
「……あーあ。失敗」
──ほんとに脆くて嫌になっちゃうなぁ。
無邪気であどけない声が、鼓膜を小さく震わせた。
シキミの視界を、月光を編み込んだ様な、美しい銀髪がふわりと揺れる。暗闇のようなメッシュが、まるで触手のように蠢いた──気がした。
前触れなく、突然現れたのは幼い少女。
真っ赤な瞳が、塵芥でも見るかのようにマッティアの亡骸を見つめる。
子供か夫人が抵抗した時に、ひっかかって外れてしまっていたのだろう。床に落ちた小さなカフスボタンは、少女の手によって拾われた。
ふん、と一つ。心底馬鹿にしたように、彼女は鼻を鳴らす。
侮蔑の視線は、ゆっくりと部屋全体に注がれる。
──バチリ、と音がしたのではと思う程、その瞳はあまりにも明瞭とシキミの瞳を捉えた。
柘榴のような毒々しい紅色が、きゅうと細められる。
獲物を甚振る獣の瞳。
命を命と見なさぬ、静かな軽蔑。
「────み た な」
ひゅ、と息が詰まる。
三日月に吊り上げられた口角を確認する前に、シキミの身体は踵を返し、駆け出していた。
幻だ、幻のはず。
だって私は、眼鏡をかけているだけ。記憶を見ているだけ。舞台の観客だったはず。
──それとも、気が付かずにステージの上へ?
恐怖で上がる息が、夜の視界を曇らせる。
今にも彼女が追いついて、あの幽鬼じみた白い手を伸ばしているような気がして、恐ろしくて振り返ることもできない。
部屋を抜け、廊下を走り、門を抜け。気配に怯えて街を駆る。
泣きたくないのに、また涙が出てきた。息が苦しい。怖いなら来なければよかったのに。好奇心は猫をも殺す。あぁ全くだ! 今この瞬間から胸に刻んだ。
慣れぬ全速力の逃亡で、吸い込む夜の冷えた空気が胸を潰す。
「でもっ……これで、はっきり…………しッ、ぶえぇ!?」
「……あぁ?」
入り組んだ、どこかの路地裏の、その一角。
突然目の前に現れた人影に、シキミは盛大に突撃した。
恐る恐る上げた視線の先。あまりお育ちのよろしくなさそうな男たちが三人。
腹立たしげにこちらを見た男が、一瞬逡巡してから、舌なめずりをしたのが見えた。
嗚呼、一難去って、また一難。
はいすみませんでした。……では返してくれなさそうな気配に、シキミの足はジリジリと後退の準備を始めている。
「……へぇ、お嬢ちゃん。こんな夜遅くに家出かな?」
「いけない子だなぁ……危ないぜ、こんな夜にお遊びしてちゃ」
「う……あ……いや、あの」
ニタニタと下卑た笑みを浮かべ、伸ばされた手に戦慄する。
──まずい。やっぱりマズイぞこの状況は。
何がって? ──そりゃもう、決まってる。
「妾の主に、何ぞ用でもあるのかぇ」
チリチリと首を刺す殺気じみた気配と、抜けてゆく魔力に嘆息する。
──うっかり偶然、私のせいで。何故か巻き込まれてしまった哀れな彼らに、幸あれ。
空中にふわふわ浮かんで勝手に牽制してくる刀怖すぎるな…………。
誰を出すか迷って、結局三パターンぐらい作っては消し、作っては消ししてました。ウケる。
ここまで読んでいただきありがとうございました。





