第七十話 狂気の世界に住まうもの
さかなさかなさかな〜♪
さかな〜を見て〜ると〜♪
SANがSANが〜♪
SAN値がなく〜なる〜♪
隠れるのに選んだ書庫に何かが入り込んできた。
それは人ではない……人の姿をし、魚と蛙とも似つかぬ頭、テラテラと光る鱗を持ち、ヒレと水掻きの生えた生物であった。
その悍ましい生き物は先程の研究日誌で見た『人の姿をした魚』の伝承に記されていた『ディープ・ワン』と呼称されているのにそっくりであった。
本棚の隙間からディープ・ワンが部屋に踏み込むのを目撃し慄く。
まさか、あれが本物のディープ・ワン!?
全身の毛が逆立ち、汗が吹き出る。
あんな物がこの世界に実在するなんて!
だが恐怖している場合ではない。
あの生き物が部屋に入ってきている。
すぐにどこかに隠れなくては!
「クロノス君、一体誰が来たのですか?」
「見ない方がいい。隠れるからこっちへ」
小声でベルを誘導し本棚の後ろに移動し透明マントで全身を覆う。
マナを通して姿を消し、ベルが奴の姿を見ないように頭を抱き寄せ視界を遮る。
あんな物は見ない方がいい。
ヌチャリ、ヌチャリ──と足音が聞こえてくる。
マント越しにじっと様子を伺う。
やがてヌッと不恰好な頭が見え、その姿を目前に現した。
とてつもない悪臭が漂い嘔吐感を覚える。
人間離れした格好のそいつは跳ねるように近づいてくる。
こちらの存在は気づかれていないのか、隠れている本棚を通り抜け先程俺たちが立っていた机まで移動する。
奴は机に置いてあった本を水かきのついた手で掴むと左右に首を動かし始めた。
もしや俺が持っている人の皮で装丁された本を探しているのではないだろか?
何かを探してそいつはキョロキョロと頭を動かす。
その際に俺は奴の体をしっかりと目撃してしまった。
腹は白く、その体は灰色がかかった緑が主な体色だった。
体の大部分は光沢を帯びていて、背中には鱗のような物が見えた。
体型は何となく両棲類を連想させたが頭は魚、面は蛙を思い浮かび上がらせ、これは忌むべき存在なのだと頭の中が警告している。
感情のない顔には閉じることのないであろう盛り上がりギョッとした大きな眼があった。
首の両脇には鰓があり、今も尚開閉を繰り返し呼吸をしている。
奴の動きから眼が離せない。
瞬きをした瞬間、目の前にいるのではと恐ろしくて仕方ない。
頭が締め付けられるように痛い。
視界が霞んで行くような気がする。
無意識の内にとベルを掴んでいる腕に力をこめてしまう。
早くどこかに行ってくれ、頼むから……早くこの部屋から出てってくれ!
祈るようにディープ・ワンを睨み続ける。
すると──ディープ・ワンがこちらを見つめてきた。
まさか、見つかったのか?
そんなはずはない、こちらは透明マントで姿を消しているのだ。
あんな魚の化け物が気づくはずがない。
でも奴はこちらをじっと見ている。
俺の眼をずっと凝視している!
マズイ、仲間を呼ばれる……捕まってしまったら、何かの生贄にされる……殺されてしまう!!
何とかしなければ、何とかしなければ!!
そうだ、今俺とディープ・ワンの間には本棚がある!
この本棚を押し倒して、奴を下敷きにしてしまえばいい!
それで死ななければ、短剣を突き刺して止めをさせばいいんだ!
本棚を倒せば大きな音が出て他の奴らが駆けつけて来るかもしれないけど、同じように皆殺してしまえばいいんだ!
ベルを抑えていた手を離して、本棚へと手を伸ばす。
思い切り本棚を倒せば、きっとこれはすぐに倒れる。
そうだ、押せ、押すんだ──そしてあの魚の化け物を殺すんだ!
押せ、殺せ、押せ、殺せ、押せ、殺せ、押せ、殺せ、押せ殺せ押せ殺せオセコロセオセコロセオセコロセ──!!
「クロノス君……!」
誰かの声が聞こえて、本棚を押そうとしていた手を掴まれる。
それは小さな手で、冷たくて震えていた。
すると先程まで鼻腔を刺激していた磯臭さが消え、代わりに甘い匂いが漂ってきた。
その匂いを嗅いでいると気分が落ち着き、ディープ・ワンを殺そうとしていた殺人衝動が和らぎ消えて行く。
伸ばしかけていた手を止め、ベルが握っていた腕をそっと下ろした。
その間にディープ・ワンはまた蛙の様に跳ねながら部屋を出て行く。
水音が次第に遠ざかって行き、完全にその音が聞こえなくなった瞬間、俺はその場に座り込んでしまった。
「ク、クロノス君!?大丈夫ですか!?」
「お、おぉ……大丈夫……大丈夫……」
息を整えながらベルに答えるが、本当は全然大丈夫ではなかった。
まだ眼がチカチカしていて頭が痛い。
一体何だったんだ、さっきの殺人衝動は……?
もしベルが止めてくれなければ、間違いなく本棚を倒しあの魚を殺した後、俺は暴れ続けていただろう。
どうしてあんな状態になったのか分からないが、あの魚の化け物がディープ・ワンなのだと確かな認識をした瞬間から狂い始めていたのかもしれない。
インスマス教会の奴らはあれと共存していると言うのだろうか?
だとしたらこの教会の奴らは皆狂ってやがる。
あんなのがこの教会にうようよしているのだとしたら、ここに長居しすぎると俺まで狂人になってしまうだろう。
さっさと捕まっているクラウラたちを見つけてここから脱出しよう。
「ふぅ……もう大丈夫だ。ベル、止めてくれて助かったよ。さっきの俺は普通じゃなかった」
「クロノス君、急に力が強くなったからビックリしました」
「ごめん。さっきから甘い匂いがするけど、ベルがこの匂いを出してるのか?」
「はい。頭の花から」
そう言って自らの側頭部に咲く桃白い花──ピンクファイアーに優しく触れる。
そうかベルはアラウネだから、あの花は飾りじゃないんだったな。
「私たちアラウネは体内のマナを練って花から様々な香りを出せるんです。さっきはクロノス君に落ち着いて欲しくて、高揚感を抑える作用の匂いを出しました」
「便利〜。他にはどんなのが出せるんだ?」
「神経を痺れさせる匂いとか、有毒性の匂いとか色々です。と言っても、肉体構造が違うからかハーフの私ではそんなに強い匂いは出せないし、マナの消費も激しいのでそんなに頻繁には使えないんですけど」
「へ、へぇ……」
笑顔で言ってるけどこの子怖い。
つまりベルの機嫌を損ねたり危害を加えたりしようものなら、毒殺されてしまう可能性があるってことだ。
可愛い花には毒があると、肝に銘じてベルと接するようにしよう。
「ところで、さっきは部屋に誰が居たんですか?クロノス君が抑えてたから見えてなくて……魚の臭いがしたんですけど」
「知らない方がいい」
何が居たのかと言われても、あれを上手く他人に説明できる気がしない。
あんな冒涜的な生き物の存在なんて、知らない方がきっといいはずだ。
なるほど、おそらく日誌を書いた人物が取材した人たちも同じ心境だったのかもしれない。
自らの見た正気の世界とはかけ離れた存在を上手く人に伝えることができなかったのだろう。
だがあれの存在をベルに教える必要はない。
話題を逸らす為、「そんなことより」と俺は先程見つけた教会内の見取り図を取り出す。
「教会内の見取り図を見つけたぞ」
「本当ですか!?これで、皆が捕まってる場所が分かりますね!」
床に見取り図を広げ、今自分たちがいる場所を確認する。
やはり俺たちがいるのは地下のようで、下水道に繋がる場所は地下一階の最深部らしい。
一階にも大広間や小部屋があるが、子供たちが捕らえられているもすれば地下しかないだろう。
「誘拐された人たちは、どこにいるのでしょうか?」
「こんなご丁寧に部屋の名前をいちいち書いてるんだ。部外者に入られたくない場所にまで名前を入れたりしないだろう」
だとすれば、今いる書庫から三つ先の廊下にある『信徒用礼拝室』と書かれている部屋の隣だろう。
隣の部屋の存在は描かれているが空欄になっている。
「多分この『信徒用儀式部屋』、この隣の名前の無い部屋に子供たちは捕まってる。早く行って助けよう」
「どうしてそこにいるって分かるんですか?」
「ベルは庭園の肥料や道具を置く場所はどこにしてる?」
「もちろん庭園の近くです。近い方が便利ですし」
「だろ?それと同じだ」
俺の言葉で理解できたのか「あっ……」と小さく納得する。
もう一度二人で透明マントを被ると書庫から廊下へと出た。
目指すは『信徒用儀式部屋』の隣、子供たちが捕らえられているであろう部屋だ。
またディープ・ワンに出会わないことを祈りながら、俺たちは大理石の廊下を歩き続けた。
三日間お付き合いいただきありがとうございました!
またストック溜まったら連続投稿やりますん。
とりあえず次回は日曜日の22時の予定です。




