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泉に落ちた婚約者が雑草役令嬢になりたいと言い出した件

作者: 雨宮羽那


 容姿端麗・頭脳明晰。誰もが羨み憧れる、公爵令嬢エリシェラ・リンドグレン。

 面白みがなくてつまらない──そう思っていた俺の婚約者が、奇天烈で愉快な女へと変貌したのは、つい数日前のことだった。


 (さて、どうしてこうなったんだか……)


 エリシェラの屋敷へと向かう馬車の中、窓の外へと視線を向けながら、俺は先日の出来事を思い返していた。


 

 ◇◇◇◇◇◇

 

 

「ルーカス殿下、本日はお誘いいただきましてありがとうございます」


「こちらこそ。君とデートがしたかったんだ」


「まぁ……。わたくしもですわ、殿下」


 静かな泉のほとりを並んでゆったりと歩く。

 森の奥深くにひっそりと佇む泉の水面は澄み切って水底までがよく見えた。

 木々の葉擦れの音だけが響き、ひんやりとした空気が漂っている。

 

 俺は隣を歩くエリシェラへちらりと視線をやった。


 森へ差し込む木漏れ日が、エリシェラの金の髪を柔らかく照らしていた。ゆるやかに揺れるその髪は、光を受けて淡くきらめいている。


 整ったその容姿は、まるで繊細なドールのようだ。

 貴族学院においては学年一位の才媛で、家柄も申し分ない。穏やかで人柄もよい。

 そんな非の打ち所のないエリシェラを、周囲は女神のようだと評した。

 

 (女神、ねぇ。俺からしたら、何も感情を読み取れないつまらない女だけど)


 本音を押し隠し、俺はエリシェラをエスコートしながら薄っぺらな笑みを貼り付ける。

 

 つまらないのは彼女だけではない。

 ……俺も似たようなつまらない男だ。

 俺だって、完璧な王太子を演じているのだからおあいこだろう。


「はぁ……。やっぱり殿下とエリシェラ様が並ぶと絵になるわねぇ……」

「ほんと、目の保養だわ……」


 ふと、メイドたちがささやきあう声が耳にはいった。

 

 彼女たちの言葉通り、傍から見れば俺たちはさぞや仲睦まじい恋人同士に見えていることだろう。

 現にメイドだけではなく、護衛としてついてきた騎士たちも、泉を散策する俺たちを微笑ましそうに見つめている。

 しかし俺たちの関係は上辺だけのものだった。


 俺は、大陸屈指の大国ローデンティアの王太子で、エリシェラの父――リンドグレン公爵は大臣を務めている。


 歳も近く、家柄も釣り合う俺たちは、幼い頃に互いの両親によって決められた許嫁だった。

 長年の幼なじみとしての情はあれど、愛も恋も何もない。

 それでも仲睦まじい恋人同士のように振舞っているのは、暗黙の了解のようなものだった。

 そう振る舞うことが互いの家――ひいては国のためであると、お互い理解していたのだ。


「それにしても殿下、どうして今日はこちらに?」


「……この泉には王家にのみ伝わる言い伝えがあるんだよ」


「まぁ。そんな大切なものをわたくしに教えてくださるのですか?」


「何を言う。君は俺の婚約者。将来の王妃。王家も同然じゃないか」


 にこりと笑う。

 言葉に嘘はない。

 

「……そのようにおっしゃっていただけて光栄ですわ。それで、どのような言い伝えで?」

 

「泉を覗けばその人の未来や過去が見える――そんなおとぎ話じみた言い伝えさ。おもしろいだろう?」


 伝承なんて信じちゃいない。

 実際何度か泉には足を運んだことがあるが、過去も未来も見えたことなど一度もなかった。

 

 だけれどもしかしたら俺は、心のどこかで期待していたのかもしれない。

 このつまらない婚約者の本音がどこにあるのかが、少しは分かるかもしれないと。


「それは、興味深いお話ですわね、殿下」


 エリシェラは泉を近くで見ようとしてか、1歩足を踏み出そうとした。

 森の中の泉だ。地面は湿気を含んでおり、ところどころ木々の根が地面から浮き上がっている。


「エリシェラ、足元には気をつけて――」

 

 俺が声をかけたその時だ。

 言ったそばからエリシェラが木の根に足をひっかけ、泉へと倒れ込んだのは。


「エリシェラ!!」


 この泉は浅瀬だ。大人の膝ほどの深さしかない。

 しかし、溺れはしなくとも、貴族の令嬢が泉に落ちたとなれば一大事だ。

 使用人たちが慌てふためくなか、咄嗟に俺は泉の中へ踏み入ると、エリシェラを抱えあげた。


「なにをしてる! エリシェラ……!」


 全身ずぶ濡れになったエリシェラを泉のそばへ下ろす。

 見下ろせば、エリシェラはどこかぼんやりとした様子で俯いていた。

 泉に落ちた衝撃によるものだろうか。


「…………でん、か?」


 やがて、エリシェラがゆらりと顔をあげた。

 ここではないどこかを彷徨っていた青い瞳が、俺へと焦点が定まる。

 その瞬間だった。

 彼女の瞳に、光が戻ったのは。

 ……否、今まで見たことがないほど、はっきりした光が宿ったのは。

 

「って、ええ!? ちょっと待って、殿下ってあの()()()()()……っ!? ()()……人生の()()が目の前にいる! なんで――!?」


「…………は?」


 そんな意味の分からない……そして今までのエリシェラからは到底想像もつかないほどの間抜けな叫び声を上げて、彼女は気を失った。


 

 ◇◇◇◇◇◇



 結局その後、エリシェラが発熱していたようでデートはお開きとなった。

 ……あの奇妙な叫び声の理由は分からないままだが。

 

 そうして数日が経ち、俺は見舞いと称してエリシェラの屋敷へ出向こうとしていたのである。


「殿下も甲斐甲斐しいことですね。わざわざ自ら出向かれるなんて」


「仕方がないだろう? 最愛の婚約者殿が倒れられたのだから」


 揺れる馬車の中、隣に座る侍従へ適当に返す。

 受け答えをしながらも、俺の頭にはエリシェラの奇妙な叫びがいまだ残っていた。

 それに、真っ直ぐに俺を見つめてきた強い視線も。

 

 (……最愛、ね。自分で言っておきながらおかしな気分だ)


 いつもは気にならないはずの、関係を装う言葉が今日はなぜだか引っかかった。

 俺は果たしてエリシェラをどう思っているのか。


 あの時泉でエリシェラは、真っ直ぐに俺を見て「人生の推し」と言った。


 (……推し、とはなんだったんだ?)


 見舞い、なんて表向きの理由だ。

 本音を言えば、エリシェラの変貌のわけが気になって仕方なかったのである。


 

 ◇◇◇◇◇◇


 

 リンドグレン公爵の屋敷へたどり着くと、すぐに客間へと通された。

 しばらく待っていると、扉がわずかに開く音がした。


 (エリシェラ?)


 視線を向けるものの、そこに人の姿はない。


「…………」


 だが、扉をよく見ると、ほんの少しだけ開いていることに気が付いた。

 その隙間をさらに観察すると、青い瞳がこちらを覗いているではないか。


 (なぜ扉の隙間からこちらの様子を伺っているのかな……?)


 隙間から覗いているのは、どう考えてもエリシェラだ。

 淑やかで、女神のようだと評されてきた今までの彼女からは想像できないが。


「……エリシェラ。そこで何をしているのかな?」


「ひい!」


 ソファに座ったまま扉の向こうへ声をかけると、なんだか間抜けな悲鳴が上がった。


「ほら、お嬢様! 殿下がお待ちですよ! さっさとお入りくださいな!」

「何があったかは存じませんが、ルーカス殿下なら大丈夫ですって〜」

 

 ……次いで、侍女たちの応援するような声も。


「も、申し訳ございません、殿下。前世の推しの来訪にすっかり気が動転してしまいまして……」

 

 ようやく扉が完全に開き、客間に姿を現したエリシェラは、肩にブランケットを巻き付けていた。

 先程の醜態を気にしているのか、取り繕うような笑みをうかべ、俺の前に腰を下ろす。


「体調はもう平気?」


「ええ、ご心配おかけしましたわ。来週からは学院にも顔を出せるかと思います」


 静かにそう答える彼女はいつものエリシェラのように思えた。

 ……しかし、わざとらしいくらいに明後日の方を向き、俺の顔を見ようともしないのはなぜなのだろう。


「あの殿下が……わざわざお見舞いに来て下さるなんて……」


 エリシェラは胸の前でぎゅっと手を握りしめ、ぽつりと呟いた。

 

「はぁ……。我が推しはなんて尊いのかしら。これは主人公ちゃんの登場が待たれますわね……」


 (とうと……なんだって? さらにわけがわからない単語が出てきたが、なんだ?)


 エリシェラはそこではっとしたように口元を押さえた。

 自分が口走った内容に気づいたらしい。

 

「で……殿下」


 エリシェラがふと、震える声で俺を呼んだ。

 視線はまだ合わない。


「真剣なお話がございますの。聞いていただけますでしょうか」


「なにかな」


 エリシェラはたっぷりと息を吸い込むと、覚悟を決めたように俺の方へ視線を向けた。

 今日初めて、エリシェラと視線が交わる。

 

 一瞬、息が止まった。

 エリシェラの視線が自分に向けられたことに、胸の奥がわずかに緩む。


 ほんの少し安堵したのも束の間、彼女は次の瞬間、とんでもないことを口走った。


「わたくしとの婚約を破棄してくださいませ……!」


「…………はぁ?」


 呆気にとられる俺をよそに、エリシェラはさらに続ける。


「わたくしはこの先の未来、殿下に捨てられる運命なのですわ。先日、泉を覗き込んだ時にはっきりと思い出し――じゃなくて、理解いたしましたの」


 (……俺が、エリシェラを捨てる?)


 ありえない。

 そんな未来を想像したことすらなかった。


 (俺の隣にいるのは、エリシェラに決まっているだろ?)


 反射的にそう考えてしまうくらい、エリシェラが自分の隣にいる未来が当然だと思っていた自分に気づいた。


 (……くそ。なんだ、調子が狂うな)

 


 そもそも俺たちの婚約は国や家のために決められたものだ。

 俺やエリシェラの感情だけでふいにできるような簡単なものじゃない。

 そんなことは、エリシェラだってわかっているはずだろう。

 なぜなら彼女と俺は、長年暗黙の了解として恋人のように振る舞ってきたのだから。

 

「急にそんなことを言い出すなんて……。やはり、まだ体調が優れないのかな?」


 自分の感情への戸惑いを隠しながら、俺はエリシェラの顔を覗き込んだ。

 その一拍後、


「ひいい! ちっか! 無理無理無理無理神々しすぎて無理!!」


 エリシェラは俺から逃れるかのように、ソファの背もたれにぴたり張り付き、顔を真っ赤にしながら左右に勢いよく振った。


「そんなに俺のことが嫌いだったのか、エリシェラ」

 

「ちっ、違いますわ! 断固として!!」


 俺の声にかぶせるようにして、エリシェラが強く声を上げた。

 

「殿下は今までプレイしてきた乙女ゲームの攻略対象中、最推しの最推し! 前の人生でのわたくしの生きる糧! そしてこれからも永久にわたくしの――」


 推し。

 またその単語だ。

 それだけではなく、さらに意味の分からない単語が複数出てきたが……。


 俺が口を開こうとした直前、部屋の隅に控えていた使用人たちがひそひそとざわめきはじめていたことにようやく気づいた。


「お、お嬢様……! 婚約破棄だなんて……!」

「殿下にそんなことをおっしゃるなんて……! お怒りを買いでもしたら……最悪、公爵家取り潰し……っ!?」

「ど、どうしましょ、どうしましょ……! だ、旦那様を呼んで! 今すぐ!」


 使用人の一人が慌てたように走り去っていく。


 (まずいな)


「エリシェラ、一旦落ち着いて――」


 これ以上騒ぎが大きくなるのは色々と面倒くさいことになりそうだ。

 どうにかエリシェラを落ち着かせようと、俺が声をかけたその時。


「殿下ぁぁぁぁ!!」


 廊下の向こうから地響きのような足音と声が響き、ばあんと勢いよく扉が開かれた。

 顔をはねあげれば、騒ぎを聞きつけたらしいリンドグレン公爵――エリシェラの父が真っ青な顔をして客間へ飛び込んできているではないか。

 公爵は勢いそのままに俺の目の前までやってくると、床に頭を擦り付けんばかりに深々と頭を下げた。


「も、申し訳ございません、殿下! 娘はまだ熱があるようでして! それはもう大層な高熱で! 幻覚を見ているようでして! どうかお気になさらずに!」


「お父様!? わたくしは幻覚など――」


「黙りなさい!」


 ぴしゃりと一蹴すると、公爵はエリシェラの腕を掴んで引き立たせた。


「殿下、本日はこれにて……! 申し訳ございません!」

 

「お父様ったら! わたくしはまだ殿下にお話したいことが……!」


 エリシェラはまだなにか叫んでいるようだった。だが、そのまま公爵に引きずられるようにして客間から連れ出されていった。


 (……一体なんだったんだ)


 残された俺は、深く息を吐き出すしかない。

 エリシェラが泉に落ちてからというもの、調子が狂って仕方がないのだ。



 ◇◇◇◇◇◇



 週が明けた昼休みの時間帯。

 俺は、学院内でエリシェラの姿を探していた。


 というのも、見舞いに行った際にエリシェラから『婚約破棄してほしい』と言われたことが、ずっと心に引っかかっていたのだ。

 あの後、客間へ戻ってきた公爵から『後生だから娘の発言は忘れて欲しい』と再度頼み込まれ、エリシェラ本人とは話ができていないままうやむやになってしまった。

 

 先週のエリシェラの言葉を信じるなら、今日から彼女は学院に復帰しているはずだろう。


 年頃の近い貴族の子女が行き交う廊下を足早にぬけながら、俺は自嘲気味に息を吐いた。


 (……つまらない女、だったはずなのにな)


 そう思っていたはずなのに、今は胸の奥が落ち着かない。


 俺はなぜ、エリシェラに振り回されているのだろう。

 そしてなぜ、それを面白く思い始めているのだろうか。


 (それにしても……エリシェラはどこにいる……?)

 

 同じ学年ではあるが、俺とエリシェラはクラスが違った。

 このだだっ広い学院内で、目的の人物一人の姿を見つけるのはかなり難しい。

 

 校舎中を一通り探し終わり中庭へ足を向けたところで、ようやくエリシェラの姿を見つけた。

 花壇の近くで、見慣れた金の髪が揺れている。


「エリ――」


 俺はエリシェラに、声をかけようと一歩踏みだして……ふと、足が止まった。

 エリシェラの隣に誰かがいる。

 

(……誰だ、あれは)


 エリシェラの隣にいるのは男だった。

 学院の制服を着ているということは、生徒であることは間違いないだろう。

 男子生徒は、抱えていたいくつかの袋をエリシェラに渡している。


 いつもなら、気にもとめないはずの出来事。


 それなのに、今日はなぜだか胸の奥がひどくざわついた。

 それもこれも、エリシェラが男子生徒へ向けて見たことがないほどの満面の笑みを浮かべていたからだ。

 エリシェラの笑顔が、自分以外に向けられていることが気に入らない。

 

 (なんなんだ。この間から調子が狂う)


 エリシェラからあんな笑顔を向けられたことなど、俺は一度たりともないのに。

 いつだってエリシェラは、取り澄ました穏やかな微笑みを浮かべているだけで――。


 (なんだってこんなにいらつくんだ)


「エリシェラ」


 気づけば、俺は二人の間に割って入っていた。

 エリシェラの肩を自分の方へと強く引き寄せ、男子生徒へにこりと笑みを向ける。

 いつも以上に目が笑っていないことは、自分でもわかっていた。


「君……俺の婚約者に何か用かな?」


「殿下!? あ、あの、これは……!」


 男子生徒はびくりと肩を跳ね上げると、慌てた様子で手に持っていた残りの袋を掲げて見せた。


「ひ、肥料です! リンドグレン嬢が重そうに抱えていらっしゃったので……! ただ運ぶのを手伝っていただけでして!」


「肥料……?」


 確かに男子生徒の言葉通り、袋にはでかでかと大きな文字で『栄養満タン! 美味しい野菜のための肥料!』と明記されていた。


 ……どうみても、花壇に咲き誇る花用ではなく野菜用だ。


 (なぜ野菜用? ここは学院の中庭だぞ)


 周囲に花壇はあるものの、当然ながら野菜などひとつも植わっていない。

 美しく咲き誇る花々がそこにあるだけだ。


「そ、それでは失礼いたします!」

 

 俺が困惑している間に、肥料袋を隅に置いた男子生徒はそそくさと中庭から去っていった。


「あら、運んでくださったお礼を伝えそびれたわ……」


 エリシェラは呑気にそんなことを呟いている。

 だがそれよりも、だ。

 我が婚約者は、貴族の学び舎たるこの学院で一体何をしているというのか。

 俺は眉をひそめながら、エリシェラへと視線を投げた。


「……それで、エリシェラ。何をしていたんだ……?」


「あら、もしかして殿下もご興味がおありですの?」


 尋ねると、エリシェラはぱっと顔を上げた。

 俺が「何に?」と問い返すよりも早く、エリシェラは中庭の奥の方を指し示した。

 

「殿下、こちらですわ!」


 仕方なく彼女に案内されるままについて行くと、そこには小さな畑のようなものが広がっていた。

 土はふかふかに耕され、既にいくつか苗が植えられているようだ。支柱までしっかりと立てられてある。


 学院の中庭に、こんな場所があっただろうか。

 ……いや、先週までは確実になかった。

 

「……これは?」


「わたくしの……菜園ですわ! もちろん、先生方には許可を取っております!」


 誇らしげに胸を張っているエリシェラに、こちらはめまいがする心地だった。

 果たして今までのエリシェラは、こんなにまで行動力のある、予測不能な令嬢だっただろうか。


「……一つ、確認していいかな」


「はい!」


「これは授業かなにかの一環かな?」


「いいえ!」


 元気よく否定しないで欲しい。

 エリシェラの回答に脱力してしまうのを感じながら、俺は額を押さえた。

 当のエリシェラ本人はというと、なぜだか神妙な顔つきをして、胸の前で手のひらを握りしめていた。

 

「わたくしはこの先の未来、殿下に捨てられる身。主人公ちゃんに害をなしたとされ、公爵家からも……国からも追い出される可能性がございます」


 (……またそれか)


 エリシェラが泉に落ちてからというもの、彼女はよく分からない言葉ばかりを口にする。

 推しだの、主人公ちゃんだの、俺がエリシェラを捨てるだの。


「そうなった際にも一人で生き抜けるよう、自給自足ができるようになりたい――その一心で屋敷の花壇すべてを菜園に変貌させようといたしました結果、お父様に『頼むから大人しくしていてくれ』と泣きつかれてしまいました」


 (……リンドグレン公爵も大変だな)


 エリシェラはしゅんと肩を落としているが、残念ながら俺としては公爵の方への同情を禁じ得ない。


「そのため、今度は学院の先生方に『領民の心を知るために作物の勉強がしたい』と訴えかけましたところ、こちらは『貴族の(かがみ)だ。中庭の空いているスペースを使って良い』とご納得していただけましたわ!」


 (……おそらく教師陣は、エリシェラがおかしくなっていることに気づいていないから菜園に許可を出したんだな)


 学年一の成績をもつ公爵家の令嬢である彼女が「領民の心を知りたいから作物を手ずから育ててみたい」などと申し出れば、教師陣はいたく感動したに違いない。

 ……彼女の言動が、数日前とはまるっきり別人レベルにまで変わってしまっていることを知らなければ。


 菜園の話は、とりあえず一応の理解はできた。

 だが、肝心の「婚約破棄」うんぬんについてはまだ聞けていない。


「エリシェラ」


 俺が名を呼ぶと、満足げに菜園を眺めていたエリシェラがこちらを振り返った。


「……その、先日言っていたことだが。君は本気で、俺との婚約を破棄したいと思っているのか?」


 俺の問いに、エリシェラがぱちぱちと瞬きを繰り返す。

 ほんの一瞬に過ぎないはずの沈黙が、いやに長く思えた。

 やがて、エリシェラは覚悟を決めたように背筋を伸ばし、見慣れた穏やかな微笑みを浮かべた。


「ええ、もちろんですわ」


 胸の奥が、一瞬で冷えたような気がした。

 冗談ではないのだと、その声音だけで理解してしまったのだ。

 エリシェラのたった一言に、思いのほか自分が堪えていることに、余計戸惑う。


「わたくしは物語に華を添える背景……言うなればその辺の雑草……」

 

「……雑草?」


「はい。主人公ちゃんと殿下がイチャイチャキャッキャしているところの壁になりたいのです」


「壁……?」


「今はまだゲーム開始一年前。主人公ちゃんはわたくしたちの前に現れてはおりません。ですが、現れたとしても、おふたりを邪魔するつもりなんて爪の欠片ほどもございません。シナリオ通りの悪役令嬢なんて、もってのほかですわ」


 エリシェラの声は、確かに俺の耳に届いている。けれど、言葉の意味が一つも頭に入ってこない。


 (……まぁ、面白いからこのままでもいいか)

 

 もうエリシェラの発言の意味を考えるのを放棄してもいいだろうか。

 彼女の奇天烈な発言を聞いているうちに、俺の胸の冷え込みはいつのまにやら消え去っていた。


 (……少なくとも、『俺のことが嫌いだから婚約を破棄したい』と言っているわけではなさそうだ)


「殿下は最推しではございますが、推しの幸せのためならば、潔くさっさと身を引きます。そうしてあわよくば草葉の陰からキャッキャしてるおふたりを見守りたい……」


 エリシェラは胸の前で両手を組み合わせ、うっとりと目を細めている。

 まるで幸福な未来を夢見る少女のようだが、語る内容は理解不能だ。

 

「そう、わたくしは悪役令嬢などではなく……雑草役令嬢になりたいのです……!」


「……なんだって?」


「もしくは木の役Bでも可ですわ! 木の役Aの隣で、そっと風に揺れておりますわ!」


 木の役……B?

 ということはAもいるのだろうか。


(本当になんなんだ、この子は……)


 胸の奥がぞくりと震えた。

 背筋をなぞるような形容しがたいほどの熱が、ゆっくりと這い上がってくる。

 

(エリシェラはこんなに……面白い女だったか?)


 俺は思わず身震いし、そしてごくりと唾を飲み込んだ。


 ――俺は興奮していたのだ。

 目の前にいる、意味の分からないおかしな女に。


「……決めた」


 短く言葉にすると、思考がより明瞭になった気がした。

 エリシェラはきょとんと目を瞬かせている。


「君とは絶対に婚約破棄しない。手放さないことを誓う」


「え!? そ、それは困りますわ! 主人公ちゃんと殿下の恋模様を遠いところから眺めるいう、わたくしの今世の楽しみが……!」


「よく分からない子のことなんて知らないよ。俺が隣で見ていたいのは君だから」


 俺の言葉にか、エリシェラの顔が一瞬で真っ赤に染まる。

 その表情の変化に、思わず呼吸を止めてしまった。

 どうしようもなく……彼女から目が離せない。

 

 (……エリシェラがつまらない女だなんて、どこが?)

 

 数日前の自分に教えてやりたい気分だ。


 俺の婚約者が奇天烈で愉快で、予測不能で――そして、とても愛らしいのだと。

 エリシェラが泉に落ちてからというもの、俺の人生はとんでもなく面白くなってしまったのだと。


 俺とエリシェラの攻防戦は、まだ始まったばかり。

 


 

 

 

少しでも楽しんでいただけましたら幸いです(* . .)))


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最後までお付き合いくださり、ありがとうございました〜!

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