誑かされた男 (2)
後宮は平和だった。
マリアの妊娠をきっかけに、シオン太師は後宮の警備を強化し、人事にもかなり口出しするようになった。それまで苦手意識があって、自ら関わることに消極的だったのに。
「マリア様とその御子が、とても大切なのですわ。ご主人様は、本当に自分の子のように思っているのでしょう」
マリアが意外そうにしていると、リーシュは笑顔でそう説明した。
シオン太師は、マリアの子を本当に我が子と思って接してくれている。父親は誰なのか、問われたことすらない。
……口に出すこともできない相手だ。不誠実なことだと分かっていても、父親として振る舞う太師の子として、マリアもお腹の子に接していた。
「ところで、リーシュ、最近ヤンズは忙しいの?シャンタン様が、ヤンズが授業をお休みするのをとても残念がっていたけど」
リーシュの弟ヤンズは、皇帝と皇后の教師を務めていた。
正式な教師が見つかるまでの代理のはずだったのだが、すっかり二人が気に入ってしまって。
ヤンズも、教師が天職であることを感じ始めたらしい。亡き実父や、恩人であるシオン太師の跡を継ぎたくて武官を目指していたが、太師や姉のリーシュはそれにさりげなく反対していて。本人も、ついに自分には向かないことを認め、新たな道を選び始めていた。
そんなヤンズだが、最近は授業をお休みにしていた。
「はい。ご主人様からの頼まれ事で……ヤンズは、本当に忙しいみたいです。私も、ここ数日、あの子の顔が見れておりません」
「あなたにまで会いに来ないとなると、本当に忙しいのね」
ヤンズは、姉にはこまめに会いに来ている。たった一人の肉親だし、姉弟の絆は強い。
それが数日会いに来ないとなると、やはり姉としては心配らしい。
「そう。それじゃあ、会いに行きましょうか」
「は――えっ?」
頷きかけて、リーシュが困惑する。
そんな反応もお構いなしに、マリアは彼女を連れ、後宮を出た。
ヤンズは、刑部の執務室にいた。以前は刑部尚書の部屋であっただろう場所。刑部尚書の座は、いまは空白となっている。元・尚書の私物化が激しかったため、それは一時的に皇帝の権限に――そして、そんな皇帝の後見人であるシオン太師の権限に。
ヤンズは太師の従者でもある。事務仕事を、太師の代わりに手伝うこともあって。
今回も、太師を手伝っているようだ。
それにしても。
「すごい書類量ね。これを、ヤンズが一人で?」
部屋を埋め尽くしそうな量の書類に囲まれたヤンズは、ちょっとやつれたように見える。
「ええ、まあ。刑部の監査も兼ねているので、刑部の人間には任せられませんし。かと言って、他に手伝ってもらう相手も……」
最後のほうは、モゴモゴと口ごもった。
任せられるような相手が、太師にはいないのだろう。宮廷や王都での生活を嫌ってきたから、伝手がないのだ。
「もしよければ、私が手伝うわよ。エンジェリクでは、いわゆる刑部にあたる部署で秘書をしてきたから、少しぐらいは役に立てると思うわ」
「お願いします!是非!」
食い気味に即答され、マリアのほうが苦笑してしまった。
……どこへ行っても、こうなるのね。
そう思いながらも、悪い気はしない。働くのは好きだし。
思いもかけずに身に着けた特技だったけれど、いつまで経ってもマリアを助けてくれている。
書類をせっせと片付けながら、ヤンズに指示を飛ばす。マリアが指示をする立場になるのは、これが初めてだった。
マリアの指示を受け忙しなく書類を整理するヤンズを見ながら――なんか、いまの自分は、デイビッド・リースをほうふつさせるような。
「おい!何をしておるのだ!」
ドスドスと、シオン太師が血相を変えて駆け込んできた。
書類が崩れます、とマリアは叱り飛ばした。
「まだ整理途中なのですから!それを直すところから始めるなんて御免ですよ!」
マリアから本気で怒られて、シオン太師はすまん、と素直に謝罪する。
「い、いや、そんなことより!マリア、こんなところで何をしておる!部屋で大人しくしておかんか!」
「シオン様。後生ですから、マリア様を取り上げないでください!」
今度はヤンズが、シオン太師の言葉を封じ込めた。
涙目で懇願され、太師は怯む。
「この書類を一人で片づけるなんて無理です!マリア様が手伝ってくれないなら、もう書類ぶちまけて死んでやりますから!」
……その台詞、どこかで聞いたことがあるような。
太師は、ぐぬぬ、と言葉に詰まっていた。
「ご主人様。ヤンズに頼らなければならない状況については、私も理解しております。ご主人様は他にもお仕事抱えていらっしゃいますから、結局ヤンズ一人でこなさなければならないことも」
リーシュも静かに切り出し、口を挟む。
「けれど、この量をヤンズ一人で、というのはやはり……。私も、さすがに弟が心配です。どうか、このままマリア様に手伝って頂いて、ヤンズを助けてほしいのですが」
リーシュにまで懇願されては、太師も反論できないようだ。
実際、これは重要な仕事で、なるべく早めに片付けてしまう必要がある。だが圧倒的人手不足なのも、これまた事実なわけで。
「シオン様。これは、私の単なるわがままで済むことではありませんわ。使えるものは使って、早く片付けてしまわないと」
マリアが言った。
「ちゃんと体調には気をつけます。この手の仕事はずっとやってきましたから、無理はしません」
安心させるように、太師に向かって微笑みかける。太師は、顔をしかめて少し悩む様子を見せた後、諦めたようにため息を吐いた。
「……正直に言えば、おまえが手伝ってくれるなら助かる。頼まれてくれるか」
「もちろん。喜んで」
太師からの許可ももらって、マリアは正式にヤンズの仕事を手伝うことになった。
刑部の書類――やはり、警視総監の秘書をやっていた経験は大いに役立った。何もかもが同じというわけではないが、マリアで何とかなりそうだ。
刑部の仕事を手伝うとなれば、刑部の書類や資料を見るのもごく自然なこと。
書類を片付ける合間に資料庫に入り浸るのが、マリアの楽しみでもあった。
資料にすべてが記されているわけではなく、刑部尚書によって隠匿されたもの、捻じ曲げられたものもあるだろうが……得られる情報も……。
「あっ、うわわ……」
クリスティアンの焦る声が聞こえて、マリアは持っていた資料から顔を上げてた。
見れば、高いところにある資料を取ろうとして、資料棚から余計なものもぶちまけてしまったらしい。
あらあら、とマリアは笑う。
「クリスティアンったら。高いところのを取りたいのなら、私に言えばいいのに」
「母上ったら、何を言ってるんですか」
落としてしまった資料を片付けようとすると、クリスティアンが目を吊り上げて怒った。クリスティアンが使っていた脚立を使おうと思ったのだが、ダメです、と畳みかけてくる。
「危ないことをしてはいけません!母上、いまの自分がどういう状態か、ちゃんと自覚してください!」
「もう。みんな大袈裟なんだから」
「まったくだぜ。なんで素直に人を頼らねーんだか。自分でやろうと無茶しやがって――親子そろってさ」
呆れたようなララの声に、マリアとクリスティアンはそろって振り返った。
資料庫の出入り口に、ララが――マリアの護衛も兼ねて、ララも一緒に来てくれていたのだった。
ララなら、脚立がなくてもクリスティアンが手を伸ばしていた棚にまで届く。
それを見ながら、クリスティアンがぷうっと頬を膨らませた。
「僕は無茶なんかしてません。誰もがうっかりやってしまう、ちょっとしたミスです」
「へいへい。そういう言い訳をするところ、だんだんマリアに似てきたな」
「だって親子だもの」
最後の台詞は、マリアとクリスティアン、二人揃ってハモってしまった。
ぶちまけてしまった資料を片付けた後、マリアとクリスティアンが持っていた資料を取り上げ、ララが言った。
「ほら。そろそろ後宮に戻るぞ」
「もうそんな時間?」
あら、とマリアは目を丸くする。
資料庫は、資料の保管のために、窓がない。日の光も届かず、外の様子も見えないので、時間の感覚を失いがちだ。
妊娠中だから、仕事はちゃんと抑えないと。マリアにも、それぐらいの節度はある。
……時々忘れてしまうので、ララがしっかり見張っているのだが。
「刑部のお仕事は、順調ですか?」
後宮へ戻る道すがら、クリスティアンが聞いた。
「だいぶ片付いたわ。後宮で暮らすようになってから暇で暇で堪らなくて、久しぶりの仕事に舞い上がっちゃった」
セイランの後宮に入ってしまうと、マリアは働くことを禁じられてしまった。それが後宮で暮らす女に課せられたルールらしい。
マリアもそれに従って仕事は控え、後宮では勉学と芸事の稽古と……あとヤバい系の料理の研究に専念していたのだが、そんな生活にフラストレーションが溜まっていたようだ。久々の仕事に、はしゃぎ過ぎてしまった。
おかげさまで、未処理の書類もヤンズの体重もずいぶん減った。
「あの書類がなくなってしまったら、仕事をする口実もなくなっちゃうのよね。それは残念……」
マリアの腕を、突然ララが引っ張って来る。自分の後ろに下がらせて……体勢を崩して、マリアは床に倒れ込んでしまった。
ちゃんとお腹をかばって倒れたけれど、クリスティアンが蒼白になって駆け寄ってきて、マリアを気遣う。
だが、ララを責められない。
ララは剣を抜き、マリアを襲おうとした敵と対峙していた。相手が強くて、ララはマリアをかばう余裕がない。
「あんた……自分が何してるのか、分かってんのかよ!?」
「……分かってる。自分が何をしようとしているか、ちゃんとな!」
つばぜり合いとなった剣に力を込め……ララのほうが、圧されている。
やはり、次期将軍と評されるだけあって、ダリスは強かった。彼の実力は本物なのだ。
「その女の腹にいる子ども……その父親は、華煉の男なのだろう!?メイレンが死んだのに、なぜそんな奴が生きているんだ!」
マリアを真っすぐ睨むダリスの目には、紛れもない憎悪が込められていた。マリアのお腹の子を狙って。ララが阻んでくれているが、その剣に迷いはない。
「なかなかやるな。セイランでも、そこまで強い男は少ない。だが……」
つばぜり合いの膠着状態から、ダリスが動いた。
ララの剣を弾き、素早く防御態勢を立て直すララに、強烈な斬撃を食らわせる。ララは、それを防いで……なんとか凌ぐので、精一杯だ。
「手加減しながら、俺に勝とうとか……舐めるんじゃねえっ!」
ダリスの攻撃をもろに受け、ララが吹っ飛んだ。
クリスティアンは必死でマリアを背中にかばい、ダリスの前に立ち塞がる。マリアはクリスティアンを抱きしめて、自分の腕の中にかばおうとするのだが、クリスティアンが嫌がって……。
ダリスも、少しだけためらっているようだった。だけど、たぶん……彼は本気だ。クリスティアンも、マリアも、容赦なく斬るつもりでいる。
でもそのためらいが、ララに復活する猶予を与えた。
「……ざ、けんなよ!こっちだって、本気なんだっての!」
思わぬララの反撃に、ダリスも怯む。
「俺の目的は復讐じゃなくて、護衛なんだよ!殺せばいいってだけのあんたに、馬鹿にされる覚えはねえ!」
マリアの護衛をやっていると、無茶ぶりな戦いを強いられるのもよくあること。
ララは相手を殺してはいけないのに、相手はララを本気で殺しにかかってくる。そんな条件でマリアを守ってきたのも、もう一度や二度ではない。
復讐に取りつかれたダリスであっても、ララは彼を殺すことはできない。セイランで、セイラン皇族を勝手に殺してしまうわけにはいかない。ダリスが、マリアを本気で殺そうとしていても……邪魔をするララやクリスティアンすら、手にかけるつもりであっても。
いまのダリスを止められる人間は、一人しかいなかった。
「ダリス!止めぬか!」
シオン太師の攻撃には、ダリスも耐えられるはずがなかった。剛腕な太師の剣に、ダリスの剣は折れ、完封された。武器を失った甥の顔を容赦なく殴り飛ばし、太師は兵士たちに捕縛を命じる。
連行されるダリスの後姿を苦々しい表情で見送り、床に座り込んだまま呆然と事の成り行きを見守っていたマリアを、太師が抱きしめる。
「無事か。駆け付けるのが遅れてすまぬ」
「いえ……助けてくださって、ありがとうございます」
太師を抱きしめ返しながら、マリアは大きくため息をついた。
今回のことは、ただの始まりにすぎない。マリアのお腹の子は、このセイランで歓迎される子ではない。
たまたま最初に行動を起こしたのがダリスだった。それだけだ。
この子は、生まれるべきではない――そう分かっていても、自分を守ってくれる太師の腕に甘えて、マリアは我が子を愛しんでいたかった。




