冬の夜 (3)
フランシーヌ軍と出くわしたという報告を聞いた時にはヒヤリとしたが、その後は落ち着いたものだった。フリードリヒ王太子はフランシーヌ軍のことをずっと気にしていたが、国境からも離れ、騎士たちの大半が不可解な侵入者のことも忘れ始めた頃。
不穏は、ベナトリアの王都からやって来た。
「あの騒がしい連中は何ですか?」
マリアは天幕から顔をのぞかせ、外で見張りをしている修道士シモンに尋ねる。
ベナトリアの騎士です、とシモンは答えた。
「ただし、王太子殿下が指揮する聖堂騎士団とは違い、国王直属部隊です。前触れもなくやってきて……殿下も不愉快そうです」
シモンの言うとおり、騒がしい一団を出迎えるフリードリヒ王太子は不愉快そうな表情をしていた。直属部隊の隊長らしき男から書状を受け取り、内容を読むなり目に見えてイライラし始めた。
しばらく直属部隊の男たちと押し問答をしていたが、やがて諦めたようにため息をつき、マリアのいる天幕にやって来た。
「……陛下からの命令で、王都に戻ることになった」
天幕に入ると、王太子は不機嫌さを隠すことなく話す。
「ヘルマン、オットー、クンツ、スヴェンも同行させ、登城しろと」
「お待ちください。それでは、隊長格がすべて不在ということになってしまいます」
同行者の名前を聞かされ、シモンが焦ったように口を挟んだ。王太子は重苦しくため息をつき、そのとおりだ、と相槌を打つ。
「だから連中が来たんだとさ。自分たちが代わりに指揮を執ると――これも陛下からの命令だ。はっきり言わずとも、頼りにならん連中だ。ずっと城勤めで、前線に出たことなど……いったい何年前の話だか。そこでだ、シモン。俺たちが不在の間、おまえに騎士団の指揮を任せたい」
修道士は王太子の提案を予想していたようだが、浮かない表情だった。
「私も最近は畑仕事に勤しむばかりで、前線からは何年も離れてしまっていますよ」
「構わん。それでも連中よりはましだ。マリア、あいつらには気を許すなよ。騎士としての誇りも自制もないやつらだ」
王太子の忠告に、マリアは不安を覚えた。
城からやって来た連中は、見るからに無能そうで。尊大が服を着て歩いているような男たち……大柄ではあるが、そのほとんどは脂肪……十人程度だというのに、鍛えられた騎士たちを前に、なぜそんなにも自信満々でいられるのか。
実力を隠しているのかもという考えは一瞬だけ浮かんだが、力量の差が分かってないだけだろ、とララに一蹴され、霧散した。
ベナトリア王の命令で王太子たちが騎士団の陣を離れた後、マリアはなるべく自分の天幕に引っ込んでおくことにした。聖堂騎士団の騎士たちは、横柄な直属部隊の振舞いに常にピリピリしているし、マリアもイライラさせられた。
王太子に後を任された修道士シモンは聖堂騎士団と直属部隊の板挟み状態で陣営をまとめ――それはもう、傍目から見ていても気の毒なほどの激務だった。
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですよ。聖堂騎士団で前線に立っていた頃も、傲慢な貴族と血の気の多い部下との間でよく調整役をやっていましたから。面倒になったら、サクッと消してしまうコツも心得ております」
実に良い笑顔で言い切ったが、それでも心配ではあった。
――いっそサクッと消してくれてもいいのに。
「これからも天幕に引きこもり続けることにするわ。私が出しゃばると、シモン様の手間を増やしそう」
シモンとの話し合いを終えて天幕に戻る間も、例の連中はあからさまにいやな視線を送ってくる。それを無視して自分の天幕に戻り、マリアはため息をついた。
「……ああ。私がサクッと消してしまいたい」
「一応ここ余所の国で……あいつらは余所の王様の部下だし、やめとけ」
ララに言われ、マリアはもう一度ため息をつく。
……やっぱり、独断で勝手に片付けてしまうのはまずいわよね。
進行ルートが気に入らないと口出しする――自分たちを先頭に置け、やっぱりお前たちが先に行け、と命令をコロコロ変える――こんなところで休めるか、と宿営に文句ばかり……。
おかげ様で、マリアはいまだセイランへの国境どころか、王都にすらたどり着けないでいる。フリードリヒ王太子が戻ってきてくれれば……せめて王都で合流できれば、あの不愉快な連中も追い払えるのに。
「そーだな。あいつらのせいで、全然進めねーよなぁ……足止めばっかりで……」
話しながら、ララは言葉を切った。何か考え込んでいるようにも見えて、マリアは首を傾げ、ララに声をかけようとした。
「失礼します。オルディス公爵、お湯をお持ちしました」
外から騎士に話しかけられ、ララはそっちへ行ってしまった。マリアもいつものように、衝立の向こう側に回って準備を始める。
騎士がお湯を持ってきてくれたら、それで身体を拭くのがマリアの日課。お風呂に入れたらいいのに……。
「なにを――無礼な真似は――!」
服を脱いでいたマリアは、不穏な声に振り返る。お湯の入った桶を持ったまま、ララも驚いて振り返っていた。
天幕に誰かが入ってくる物音――それも複数……マリアの許しも請わずに、ずかずかと入り込んできて……。
「……何の御用でしょう?」
衝立を払いのけた男たちを真正面に見据え、マリアは一切の動揺を見せず冷たく言った。
ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべる男たち――国王直属部隊の、恥知らず共。
肌着だけとなっているマリアに、ララが急いでマントを着せる。マリアの肌はこんな男を喜ばせるためのものではないが……こんな男たちのために、恥じらったり、怯んだり――そんな可愛らしい反応をするつもりはない。
「あんたは大事なお客さんだ。俺たちなりに、もてなしてやろうと思ってな」
そう言って近づく男たちに、マリアは手近にあった水差しを取り、中身をぶちまける。頭から水を浴び、男たちが悪態をついた――いまは、水浴びに適した季節ではない。
「このクソ女、何を――!?」
「躾けのなっていない駄犬には、身体で思い知らせるしかないもの。これで思い出したでしょう。どちらが上なのか」
空っぽになった水差しを床に転がし、マリアはおろおろとしている聖堂騎士団の騎士に視線をやる。
「追い出して」
マリアの短い指示に、騎士がぱっと動く。すぐに同僚を呼び寄せ、仲間と共に無礼な侵入者を引きずり出した。
「離せ!俺たちが誰だか分ってるのか!直属部隊だぞ――お前たちのような辺境の田舎者が――!」
「そんなものを振りかざしても無駄よ。ここでは私の命令が最優先に決まってるじゃない。その私が、命じているのよ」
国王直属隊の兵士たちは、聖堂騎士団の下っ端騎士よりは格上らしい。だが当然、そんなものはマリアの前では無意味。マリアの命令に従っているだけの騎士を止めることはできない……が、もちろん連中も納得したわけではないだろう。
敵意をむき出しに自分を睨みつける男たちを見送り、マリアは何度目になるのか分からないため息をついた。
「……結局、厄介なことになりそうね」
シモンの負担を増やさないよう自重していたつもりだが、どうやら徒労に終わりそうだ。
しっかり、彼らの敵愾心を煽ってしまった。
「遅かれ早かれこうなったさ。たぶんあいつら……揉め事を起こすためにここに来たんだろう」
水差しを拾いながらララが言った。
「揉め事を起こしに……それは……誰を困らせるためなのかしらね」
それ以上のことは口に出さず、マリアは服を着なおした。もう今日は、身体を拭く気にもなれない。
聖堂騎士団で問題が起これば、責任を取らされるのは当然……。
――ベナトリアの王は、王太子にそこまで感情を拗らせているのだろうか。
決定打は、その日の夜に起きた。
夜も更けてあたりが静まった頃。
いつもならとうに眠りに落ちている時間なのだが、野蛮な兵士たちとひと悶着あったせいで、その夜マリアはいつまで経っても眠れずにいた。
胸の奥がざわざわと。落ち着かなくて……。
「敵襲だ!」
危険を知らせる声に、マリアはぱちっと目を開け、すぐに寝台から飛び起きた。武装を解かずに見張りをしていたララが急いで外に出て、状況を確認しに行った。
旅用の大きなマントを頭から羽織り、ララの帰りを静かに待つ――無意識のうちに緊張して、息を殺して待機していた。
ララが戻ってくるとそちらに駆け寄り、思わず彼の服の裾をつかんだ。
「フランシーヌ軍だ。旗に鷲の紋章があった……たしかにあれは、デュナン将軍直属部隊がつけてるシンボルだ」
報告はそれで十分だった。
剣がぶつかり合う音、悲鳴、怒声、馬のいななき……のんびり話をしている間も、考えている余裕もない。
とにかく外に出て、シモンに合流する――それしかない。
なのに、マリアの前に立ち塞がる敵は、フランシーヌ人ではなかった。
「どこへ行くつもりだ」
そのニヤニヤ顔を、ぶん殴ってやればよかったとマリアは後悔した。水をかけるなんて、その程度では済まさず。一発思い切り。
そうしていたら、少しぐらいは気も晴れただろうに……。
「おまえら、どういうつもりだ!?状況が分かってるのか!?」
ララは堪らず怒鳴りつけた。
フランシーヌ人の攻撃を受けて、同胞のベナトリア人が必死で戦っているというのに。彼らは自分たちに恥をかかせた小娘への復讐を優先した――マリアですら、嘘でしょう、と呆れたくなった。
「だから、じゃねえか。いまなら全部、フランシーヌ軍のせいにできるからな。あいつらも、お前を助けてる余裕はない……」
兵士たちは剣を抜き、本気でララに斬りかかってきた。
ララを殺して、その次は。
……考える必要もない。
返り討ちにしてしまえ、というには人数が多すぎるし、それに、こんなところで体力を消耗している場合ではない。敵は目の前のベナトリア人だけではないのだから。
マリアが確認せずとも、そんなことはララも理解している。兵士の剣を適当にいなし、マリアの手を引っ張って逃げ出した。
ララに引っ張られ、マリアは全力で走った。マリアが全力を出しても、ララのスピードには勝てない。強く引っ張られた腕や肩が痛くて……何度か足がもつれて転びそうになったが、ララはそれを強引に走らせて……。
とにかく必死で、マリアはララについていった。喧騒が完全に消えるまで。
そうして走り続けて、いったいどれぐらいの時間が経っただろう。ようやくララが止まり、マリアは立っていられなくなってへたり込んだ。
……たぶん、もう立てない。
座った途端、一気に疲労が襲ってきた。足がガクガクと震え、とても力が入らない。
「大丈夫か」
「……ええ。でも、さすがに限界みたい……今夜はもう……」
「分かってる。かなり離れたっぽいし、今夜はもう動かないほうがいいだろう。夜が明けるのを待とう」
ララの言葉に、マリアは苦笑する。
夜が明けるまで、しばしの休憩――東の空は白い。夜明けまでそんなに時間はないだろうから、せいぜい気休め程度にしか時間は取れない。それでも、ホッと大きく息を吐けば、強張っていたものが少しだけほぐれたような気がした。
「シモンたちと合流したいが、上手くやらねーと……」
フランシーヌ軍に、あの直属部隊の兵士たち。どちらと出くわすこともなく、シモン率いる聖堂騎士団に……。あの奇襲を受けて、シモンたちが無事なのかどうかも分からないけれど。
「……なるべく良い方向に考えるようにしようぜ。そうでないと……」
ララが言葉を切った。マリアは微笑み、自分の隣に座るよう、ララを促す。ララが座ると、彼にぴったり寄り添った。
「こうしてると、昔を思い出すわ。お父様が逮捕されて……オフェリアの手を引っ張って、必死で逃げたあの日のこと。あの時の私も、なるべく自分たちに都合のいいように考えることにして……」
そうしないと、歩き出すこともできないから。
本当は、自分たちの目の前は真っ暗。進む道は、先が続いているのかどうかも分からないほど不安定なもの――そんな事実から、必死で目を逸らした。
「俺にも、覚えのある感覚だ」
ララも、笑いながら言った。
「大丈夫よ。あの頃を思えば、大したことないわ。これぐらいで弱音を吐いてたら、あの時の私たちに笑われるわよ」
強がりがなかったわけではないけれど、それは本音でもあった。
きっといまの自分たちなら、どうにでも切り抜けられる。あの頃とは違う――もう、何の力も持たない、無垢な少女ではなくなった。




