かすかに残る (3)
「うちの王子がすみません」
シルビオやノア、クリスティアンに向かって、見知らぬ青年はペコペコと頭を下げる。たぶん、彼はカルロス王子の護衛役の人間なのだろう。供をつけていると不審がられるから、彼もシルビオと同じように、こっそりと主人のあとを追っていて……。
「別にお前が謝ることないじゃん。俺たち、何も悪いことなんかしてないんだし」
「殿下!あなたに何かあったら、責任を取らされるのはキシリア側なんですよ!王子の御身に異変が起きたなんて、そんなことがあったら!せっかくのキシリアとオレゴンの休戦もパーになるんですからね!」
悪びれることのないカルロス王子に、従者はコンコンとお説教を……なんだかとてもよく見る光景だと感じたのは、きっとクリスティアンだけではないはず。
「しかし、どうしてまたオレゴンの王子がキシリアの、それも王都に」
ノアが聞くと、王子の従者は大きくため息をつく。
「キシリアはオレゴンと休戦協定を結び、友好状態にある。それで、オレゴンから賓客を招いていたのだが……」
シルビオが説明し、王子の従者はさらにため息をついた。
つまりオレゴンからの賓客とは、オレゴンの王子だったと……。
「いやー、自分が婚約する相手の顔を見ておきたくてさ。それでキシリアに来てみたんだけど、城に行く前にキシリアの王女と出くわしたもんだから、つい」
「おかげで助かったのは事実です」
気楽そうに話すカルロス王子に、クリスティアンは笑う。
最初から、王女と分かった上でカルロス王子は近付いてきたのだ。ついでに、王女を狙っていた不埒者も追い払ってくれて。こちらも護衛がついてはいたが、それでも王子が王女を助けとなってくれたのは間違いない。
「えっ。じゃあ、町の中でぶつかったのもわざと……?」
王女は目を丸くする。
イサベル王女の正体を分かっていて近付くぐらいなのだから、あの男たちのこともその目的を分かった上でわざとぶつかり、遠ざけたのだろう。純粋な人助けだけでなく、王女に近づくきっかけにもなるわけだし。
「助けたとか、そんな大げさに言われると照れるな。でも可愛い婚約者に、良い印象を与えられてラッキー」
にこにこと王子は言ったが、イサベル王女は顔をしかめ、何言ってるの、と反論する。
「あなたと婚約するのは私じゃなくて、私の妹のブランカよ。私はクリスティアンを婿に迎えるって決めてるんだから」
そう言って、イサベル王女はクリスティアンの腕に抱きつく。巻き込まれたクリスティアンは複雑な表情で、そんな自分を見て笑うシルビオは失礼だと思う。ノアもフォローしてくれていいだろうに。マサパンは状況を理解しているのかいないのか、愛くるしい瞳でクリスティアンを見上げ、尻尾を振るばかり。
カルロス王子は顔をしかめ、クリスティアンをにらんだ。
「キシリアの王女の婿……ならやっぱり、お前はエンジェリクの王子だな!?」
王子の指摘に、何言ってるの、と王女が再び反論した。
「エンジェリクには王女しかいないわよ。しかも、私たちよりずっと年下なのに」
「ん、あれ?エンジェリクには、王子がいるって……エンジェリク王家もなんか複雑だから、ヒューバート王の弟がいるとかいないとか……クリスティアンって、それじゃないのか?」
「違います。確かにヒューバート王には弟がいましたが、母方の実家で火災が起きてそれに巻き込まれ、以来消息不明です」
ヒューバート王の弟チャールズ。
歴史に隠れ、彼のことはクリスティアンもほとんど知らなかった。肖像画を見たことはあったが、限られた場所にひっそりと飾られているだけで、どんな人物だったのか、それを語る人間はほとんどいなくて……。
「ちゃんと正しい情報を集めるように言っておきなさい。年齢も性別も、何もかも間違ってるじゃないの」
王女は誤った情報に呆れ、カルロス王子は頭をかく。
「おかしーなぁ……クリスティアンも絶対、高貴な地位にある人間だと思ってたんだけどなぁ……」
首をかしげるカルロス王子に、間違ってはないわよ、とイサベル王女がフォローした。
「クリスティアンのいとこはエンジェリクの王女よ。母親のマリアだってエンジェリク王家の血を引く公爵なんだし、クリスティアンだってやんごとなき身分ではあるわよ。ね?だから私との結婚だって何も問題ないの!」
それは違うと思う――とクリスティアンは否定することもできなかった。満面の笑みで自分を見上げるイサベル王女に、とても首を振ることができなくて。
……ただ。
エンジェリクの王子と指摘されたとき、クリスティアンはまた不思議な感覚に陥った。
誰かとの思い出が、クリスティアンの頭をよぎった。
母の腕に抱かれ、クリスティアンはその部屋を訪ねた。
その部屋は、異様な雰囲気に包まれていた。大きなベッドに横たわる人物を囲み、みな静かに彼を見守っている。
マリアが近づくと、ベッドに横たわる人物は目を開け、マリアに向かって力なく微笑んだ。
「マリア……クリスティアンも一緒か。そばへ……もうほとんど目が見えぬゆえ……」
マリアは彼の枕元にひざまずいて近づき、クリスティアンは彼に向って手を伸ばした。
いつもと様子が違う――それを感じ取っていたが、恐怖は感じなかった。この人はいつも優しくて、自分を見る目には愛情が込められていた……。
「クリスティアン……そなたの成長を見届けられぬことが、何よりの心残りだ。そなたは幼い……きっと余のことも、忘れてしまうのだろうな……」
彼の言葉の意味は分からなかったが、何かを悲しんでいることだけは分かった。不安でたまらなくて、クリスティアンは彼にぎゅっと抱き着く。
「……ニコラス。そなたはもう少しこちらに残り、ヒューバートを支えてやってはくれぬか。そなたには最後まで迷惑をかけるな……そなたとて、アイリーンをずっと待たせておると言うのに」
「彼女は気にしないでしょう。結婚まで私を待たせた分、今度は自分が待つ番だと笑って話しておりましたから。ヒューバート殿下はまだお若く、我が愚息もまだまだ未熟。それを放って行ったら、むしろ叱り飛ばされてしまうかと」
ポーカーフェイスのまま宰相がそう言えば、彼は笑った。
「オフェリア。どうか息子を頼む。手本となる王妃が不在のままそなたも王妃となり、きっといらぬ苦労をかけてしまうことだろう……」
「大丈夫……か、どうかは分からないけれど。私、ずっとユベルのそばにいます。ユベルの妃として、最後の時まで一緒に」
オフェリアは静かに微笑み、彼も静かに頷く。そしてヒューバート王子に視線をやった。
「ヒューバート……余は王としても、父親としても、半端で愚かな男であった。その尻拭いをさせてしまうこと……許せ」
「僕が許しを与えることなど、何もありません」
王子は穏やかな笑顔で言った。
「父上は立派な王でした。歴史家は、父上の功績をあれこれと批評するでしょうが……僕にとっては、誇るべき偉大なエンジェリク国王です」
「そうか……」
彼は笑い、そのはずみに涙がこぼれた。最後の力を振り絞り、マリアに向かって手を伸ばす。
差し出された手を両手でそっと包み込み、マリアは彼に――エンジェリク王グレゴリーに頬を寄せた。王はマリアを抱き寄せ、目をつむる。
「そなたと出会い……なんというか、安穏とは程遠い日々を送ったような気がするな。激しい感情の波に翻弄され、自分でも目を逸らしたくなるような本性を知った……理性を失うほどに誰かを求め、良識もかなぐり捨てるほどの嫉妬にも駆られた……」
笑いながら恨み言を話す王に、マリアもくすりと笑う。
だが、と王は言葉を続けた。
「悪くはなかった……。高潔な王で在りたかったのに、そなたに邪魔され、余はどこにでもいる、つまらない男に成り下がったが……後悔はない」
王は言葉を切り、大きく息を吐く。そろそろ、話をするのも限界だ……。
「王になり、失うばかりだと思っていたが……振り返ってみれば、余は実に幸せな男であった。失いたくないほどに大切なものを数多く得た……最期には、それらに囲まれ逝く……なんと贅沢なことであろう――マリア」
王が再び目を開け、マリアを見た。視力はかなり落ちているはずだが、間近からマリアを見つめる王の目は、しっかりとマリアの目をとらえていた――かつて愛した女性と、同じ瞳を。
「これでお別れだ……余との別れを、少しぐらいは悲しんでくれるか?ふりで構わぬ……若いそなたの時間を奪った余を……憐れんではくれるか……?」
「とても寂しいですわ」
マリアは優しく言った。
「けれど、もうマリアンナ大伯母様にお譲りする時が来たのですね。これ以上私が独り占めしていると、大伯母様がヤキモキしてしまいますもの。グレゴリー様。どうぞ、大伯母様……エドガー様と共に、私たちのことを見守っていてくださいませ」
マリアンナ――エドガー。
二人の名前に、王は穏やかな表情になった。何かを懐かしむように目をつむり、そんな王にマリアは口付ける。
愛する女性と、その女性が生んだ子に抱かれ、グレゴリー王は安らかな最期を迎えた。
――当時のクリスティアンには、それが誰なのか、いったい彼に何が起きたのか分からなかったけれど。
「クリスティアン」
父に名を呼ばれ、クリスティアンはハッと我に返った。周りを見回し、状況を思い出す。
……そうだった。
城へ帰るイサベル王女と、大人しく城へ行ってほしいカルロス王子を送り届けるため、クリスティアンはそのままキシリア王城に来ていたのだ。父が迎えに来てくれるのを、ノアやマサパンと一緒に待っていて……。
「大丈夫か、クリスティアン。王女に、オレゴンの王子まで振り回してきて大変だったんだって?」
ぼんやりしていたクリスティアンを気遣い、セシリオが心配そうに言った。大丈夫だ、とクリスティアンは笑う。
「先ほどカルロス王子とすれ違った。殿下はおまえをずいぶん気に入ったらしい。おまえが普段どこにいるのか――クラベル商会がどこにあるのか、熱心に尋ねてきた」
ホールデン伯爵に言われ、クリスティアンは今度は苦笑いした。
「王族にやたらと気に入られるのは、もはや血筋だな」
そう言って、伯爵はクリスティアンの頭をぽんぽんと叩く。
迷惑なことです、とセシリオは苦々しく言い――あなたもキシリア王家の血を引いてるんですよ、とノアにつっこまれていた。
迎えに来てくれた父と手を繋ぎ、クリスティアンはキシリア王都にある宿へと帰っていく――時折クリスティアンの脳裏に浮かぶ思い出には、気づかないふりをして。
はっきりとは思い出せない。でもひとつだけ、消えることのない疑問があった。
ヴィクトール・ホールデン伯爵こそが、自分の父親――クリスティアンは、それを信じていたい。だから、彼のことは詮索しないことにしよう……。




