エピローグ:そして予定調和へ
「あーもしもし、私だ。――あーなんだ洋子か。どうした? 今勤務中だが。え、地元有権者の奥様方と交流会があったのを忘れていた? 構わんよ、今、おいそれと地元には帰れない。お前に行ってもらえると助かる。……え、交通費? 秘書の杉沢に言っておいてくれ。ああ、そうだな。じゃあよろしく頼むぞ」
執務机の上に電話の受話器を置いて、黒革張りの椅子に寄りかかったS大臣はメガネを外して目を揉んだ。眼が痛い。ここのところ懸案が重なっていて休息がとれない。
揉んでいた目から指を放すと、目の前の執務机の上に置かれている書類が山積みになっている。目の痛みは治まったが頭が痛い。
あれは明日の委員会で読み上げる答弁、こっちは懸案の某国政変に関する資料……。
政治家は学生みたいなもんだ。S大臣の口癖だ。
世間では政治家先生だの権力の上に胡坐をかいているだのと言われているが、政治家、特に国務大臣に任命されている者にとって国会開会期間とは勉強漬けの毎日である。政治家という商売は専門職ではない。だが、政治家としての最終到達点の一つである大臣職が専門職であるという皮肉。結局還暦を迎えようかというズブの素人が専門知識を勉強し、テレビや他の政治家が見守る中でその勉強の成果を見せなければならないのである。
「さて」
誰に聞かせるでもない独り言をつぶやき、明日の国会答弁の資料を手に取った、その瞬間だった。
ノックの音がした。ノックには人柄が出る。几帳面で折り目正しい三回のノック。うちのかみさんとは大違いだ、と皮肉を滑らせそうになる減らず口を正して、大臣は、
「どうぞ」
と声をかけた。
「失礼します」
うやうやしく声を上げ中に入ってきたのは、見慣れた顔であった。
「なんだ、佐藤君か」
ほっとした声を挙げたS大臣。
「ええ、どうも」
佐藤はS大臣に微笑みかけた。政界などという伏魔殿の中にあってこの男の人懐っこい笑みはもはや奇跡だ、と、政界にどっぷり浸かって国民から「タヌキおやじ」と揶揄されるS大臣が己の身を顧みずに心中で褒め讃えるのは、事務次官を務めている佐藤だ。もう五十代に差し掛かっているだろうに、細身のダークスーツに身を包み、皺ひとつない顔で微笑みかけてくるその姿は三十歳代前半でも通ることだろう。
事務次官は官僚のトップである。つまり、事実上省庁のトップということだ。この事務次官の意向を無視して大臣は職務を行なうことが出来ない。もし大臣が音頭を取って何か政策を行なうとしても、やはり事務次官の協力が必要になる。大臣職にある者は事務次官と折り合い良く上手くやるべし。これが政治家の間に伝わる大臣の心得である。
しかし、佐藤はまるでこちらに気を遣わせることがない。こちらが分からないことを聞く前に資料を用意してくれる。こういう答弁をすると野党から反発を食らうので、ああ切り返した方がいいなどとアドバイスをくれる事もある。政治家の中に口出しを嫌う人間もいるだろうが、元が党の力関係やパワーバランスを持ち前の嗅覚でかいくぐってここまで登ったS大臣としては、手取り足取り指導してくれる佐藤のような次官とは実にやりやすい。
「大臣、奥さまですか」
「ん?」
小首をかしげるS大臣。しまった、とでも言いたげに、佐藤は頭をかいてバツ悪げに顔をしかめた。
「あ、いえ、先程ドアの向こうから誰かとお電話なさっていたのが聞こえましたもので」
「ああ。そうなんだ。地元で奥様方の短歌発表会があるんだと」
「へえ、そうなんですか。政治家の皆さんは大変ですね、そんなお付き合いまで」
「いや、付き合いだと言ってるが、短歌発表会は妻の趣味だよ」
手をひらひら振りながら、S大臣は顔をしかめた。
S大臣の妻である洋子は短歌を趣味にしている。金のかからない趣味だし気にはしていなかったが、毎月のように地元に帰られると交通費だってバカにならない。地元の有権者の支持を妻が代わりに取り付けているのだと割り切って、いつも笑顔で妻を地元に送り出すようにしている。そうじゃないと、妻の機嫌を損ねてしまうからだ。
最初、S大臣に愛想笑いを浮かべていた佐藤だったが、本来の目的を思い出したかのように顔を引き締めて大臣に向いた。
「そういえば、大臣」
「ん、なんだい」
「今日の朝、お渡しした書類に目を通していただけましたか」
「ん?」
今日の朝? S大臣は今日の朝の行動を思い出す。
執務室に入ったのが朝の八時。執務室に入ってすぐ佐藤が入ってきて、確かに資料を渡してきたはず。そして、『必ず今日中に読んでおいて下さい』と言われたはずだ。確か朝一番に読んで……。
「ああ、読んだ読んだ。確かここに……」
いつも読み終わった書類を置いておく文箱にその書類は入っていた。その書類を引き抜いたS大臣はその書類に視線を落とした。最初は読んだことすら忘れていた資料だったが、何枚かを黙読するうちに、ようやくその内容を思い出した。
「あー、なんだねアレ。あの論文みたいなヤツ」
陶器製のナイフが出土する文化だの、女権拡大論者による暗殺だの、蜘蛛の巣を信仰する人々による宗教団体だの。論文と講義録の相の子のような文章。普段執務室で読むような類の書類でないことには気付いていたが、きっと佐藤が渡す書類を間違えたのだろうと決めつけ、けれど一応斜め読みして通読済みの文箱に投げ入れたのだった。
すると、佐藤はメガネをくいっと上げ、口を開いた。
「これは、未来に書かれた文章なんです」
「は?」
「未来に書かれた文章なんです、これ。学者によると、2000年ほど先の未来の文章らしいです」
「冗談を言っているのかな? 佐藤君が冗談とは珍しいじゃないか」
「あの、大臣、もしかして当省で行なっている事業、『スターゲイザー計画』をご存じないんですか」
「む」
名前は知っているが、内容は知らない。
S大臣が知らないと判断したのだろう、佐藤はまるで歌うようにして語り始めた。
「スターゲイザー計画というのはですね」
佐藤は本当にいい男だ、そうS大臣は心の中で呟く。きっと同じやりとりを何度も繰り返しているはずだが、佐藤は嫌な顔一つしない。
数年前、物理学会で驚天動地の大発見があった。先進波が発見されたのである。
先進波とは19世紀には既に予言されていた電磁的な波のことである。
マクスウェルの電磁方程式という電磁気学における基礎的な方程式が存在する。この方程式を解くと、19世紀の人類が検出できた波(遅延波)の他に、もう一つ、その波とは逆向きに飛ぶ電磁波が存在することが示唆された。従来の電磁気学において検出されないもう一つの波は相殺によって消滅すると解されていたのだが、学者の中には「時間軸の逆方向に飛び出す」すなわち未来から過去に向かって遡って運動する波であるという説を展開した一団があった。彼らが主張したのが先進波である。
長らく発見できなかった先進波だが、二年ほど前に検出・発見されたのである。
この先進波の発見がこんなにも騒がれたのには理由がある。その最大の理由が――。
佐藤は言った。
「この先進波は、電磁気的なモノ、すなわち電子機器を使えば必ず発生します。たとえば、我々がどこかにFAXを送ったとしましょう。そうすると、その情報はその目的の人のところに届きます。しかし、その情報は鏡写ししたかのように過去に向かって飛ぶのです」
つまり、先進波は通常の波と同質の情報を持ち合わせているのである。
もしも先進波の情報を読み解くことが出来たなら――。そう、未来を知ることが出来る。
先進波の発見を受け、各国が先進波の検出・分析に力を入れたのは言うまでもない。日本では『スターゲイザー計画』と名前をつけ、潤沢な予算を背景に研究を行なっていた。
「だが、おかしいじゃないか」S大臣は皮肉っぽく顔をしかめる。「確か、その計画は頓挫しているのではなかったか」
当初は大いなる期待をもって迎えられた『スターゲイザー計画』だったが、始動して二年経ってもなお大きな成果を上げることが出来なかった。『有意な情報を持った先進波を発見できていない』というのが、『スターゲイザー計画』側の言い分だった。
佐藤は頭を振った。
「いえ、表向きではそう答弁しました。しかし、違うのです。実はこの計画がスタートしてすぐ、『スターゲイザー計画』はある先進波をキャッチしたのです」
「初耳だ」
「すいません大臣。本来ならお伝えすべきでした」
「いや」
最初こそ自分のヘソが曲がるのを自覚したS大臣だったが、仕方のないことだ、とため息をついた。これだけ大臣がコロコロ交代する国だ。話すだけ無駄というものだろう。俺に話してくれただけ感謝しなくてはならんのかもしれない。そう考え直した。
話を先に促すと、佐藤は続けた。
「その先進波は現代よりも二千年以上後の時代のものでした。その解析そのものはすぐに終わりましたが、その結果目の前に現れた文字列は当然、二千年後の言語で書かれたものでした。日本語を祖語とする言語だったのが救いでしたが、とにかくその文字列を現代語に翻訳するのに約二年かかってしまいました」
こう言って、佐藤は首をすくめた。「言うなれば、古典の知識がまるでない小学生が、古語辞典もなく源氏物語を翻訳するようなもんですよ」と。
「つまり、この論文みたいな文章が、未来のものだ、と」
「はい」
そして、と佐藤は言葉を継いだ。
「この文書には、過去に起こった『大破局』なる出来事が記されています。どうやら未来の人々は、この『大破局』が起こった年を紀元元年にして年号を造っていると思われます。この文書が書かれたとされるのは『2022年』。そして、この先進波が飛んできたのが――」
「約二千年後の未来」
そういうことか。
つまり――。
椅子に身を預けたS大臣はゆっくりと口を開いた。
「大破局なる大異変がこれから数年以内に起こる公算が高い、ということか」
「ええ」
深刻そうな顔で頷く佐藤。
だが、S大臣は苦々しげに呟いた。
「だが、俺にどうしろと?」
どうやらこれは一国の大臣がどうにかできるレベルの事態ではない。この情報の真偽や社会に与える影響、これが間違いだった場合に降りかかってくる責任も含め。
いつもならば明哲な答えを用意しているはずの佐藤は、いつになく言い淀んでいるようだった。あの佐藤でも答えが見つからないらしい。
しかし――。
「佐藤君」
S大臣は机に両肘をついて、蒼い顔をしている佐藤を見上げた。
「ちょっと、一人にしてくれないか」
「え、それは」
S大臣は首を横に振った。
「安心しろ。俺だってこれでも政治家だ」
すると、佐藤は少しだけ笑って見せた。
「わかりました」
くるりと踵を返し、まるで自分の仕事が終わったと言わんばかりに執務室を後にした。その背中を見送ったS大臣は、ゆっくりとその手を電話機に伸ばした。
今の総理大臣は党内各派閥に顔が利くというだけでトップにいる男だ。そういう意味ではS大臣と変わらない。しかし、これだけ重大なこととなると最終決定権を持っているのはこの男を置いて他にない。
が、総理大臣室の内線番号を押し終わる前に、S大臣の電話器に外線が入った。
仕方なく取った。
「ああ、私だ。――なんだ、お前か、どうした? え? ああ、ああ、そうか」
妻だった。地元に着ていく服がなく、政治資金で服を買っていいかと受話器越しに聞いてくる。なぜ俳句会に新調の服が必要なのかとかそもそも最近俺に似てきて丸くなってきたお前の体型じゃあ何を着ても一緒だろうとかこれでも一応国政に参画している大臣の執務室に私事で電話してくるとは何事だとか色んな不平や疑問が脳裏に浮かんだものの、面倒くさくてすべてを飲み込んだ。もしかすると、あの論文の述べる通りこの時代は女尊男卑の時代なのかもしれない。
「ああ、適当に買えばいいだろう。秘書に言えばその分も金を出してくれるはずだ。ああああ構わんよ」
はやく妻との電話を切りたかった。青がいいか赤がいいかなんて心底どうでもいい。いずれにせよ似合いやしないのだ。
「わかったわかった、なんでもいいから。うん、うん、うん」
最後には相槌だけになっていく。
「うんうんうんうんうんうんうんうんうんう」
ゴゴ
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