大盛りのスープ
私は、【月光のリーベリウム】の中の主人公に恋をした。
一度だって理不尽に膝を折らず、懸命に努力して、健気に奮闘して、人の手に余る災厄にさえ、持てる限りの知識を尽くして立ち向かい……歩み通した道の果てに恋を実らせる、【レティシア】という女の子に。
全力で、応援したいと思った。
初めて彼女の物語を目にした時から、私は妹の、ファンなのだ。
どのルートも良かった。
王子は、複雑だったが。
あんな風に愛されるなら、それはそれで……幸せかもしれない。
いや、甘やかし溺愛系とは意外だった。
騎士団長も、意外だった。
あそこまで余裕のない顔を見せるとは。
乗馬を教えて、一緒に乗馬して……心の底から楽しそうに。
医師長は、応援したくなった。
お互いにちょっと奥手で、誠実ゆえに、もどかしくて。
だからこそ、ささやかな愛の言葉が、宝石のようで。
どのルートでも、私は墓の下だ。
でも、その方がいい。
豪華な寝室で、知識も教養もマナーも何もない、戦う術を何一つ持たない女の子が、どろどろに甘やかされて、見えない鎖で繋がれて、見えない檻に閉じ込められているよりは。
そんなお姉ちゃんになるぐらいなら、断頭台の方がマシだ。
現時点で、妹は、私を慕っている……ように、見えなくもない。
ただ、それは私の身の内の欲望を知らないから。
「アーデルハイド様、どうぞ」
赤毛で三つ編みの、今ではそばかすも消えて綺麗になった配膳係の少女が、木製の器にスープを盛って差し出してくれた。
ジャガイモ多め、野菜もたっぷり。結構、肉も入っているのが嬉しい。匂いからして豚肉だろう。提供せねばならない人数と使い勝手を考えれば、塩漬け豚か。
「ありが……」
多分、自分が思うより、疲れていたのだと思う。
剣を振ったのこそ余興のようなものだが、予定はみっしり入っていて、考えることは多くて、歩いた距離も長くて。
私のお腹から、くぅ~……という音が鳴った。
しん……と、静まりかえり、永遠にさえ感じる沈黙が訪れた。
さっき聞いたシチュエーション。
私は、さっきの配膳係の話は聞いていないことになっている……はずだ。
シエルあたりは察しているかもしれないが、タイミング的にはレティシアの声が聞こえたのでやってきた……という風を装った。
何事もなかったように振る舞えばいいのか、忘れろと言えばいいのか。
何事もなかったように振る舞う場合、ただ流せばいいのか、何か真面目な話でもすべきか。いや、腹が鳴った後に?
求められる演技が繊細すぎて分からず、私はフリーズした。
配膳係が差し出した器を引き戻す。
何をするのかと思えば、おたまを鍋に入れ、器にスープを追加でよそった。
ごろん、とした肉もある。
そして慈愛に満ちた微笑み。
「……大盛りにしておきます……ね」
優しい。
「無限に食べさせたい」
「いい仕事だ」
「俺の分も回していい」
口々に好き勝手言う周囲の奴ら。
公爵家当主であり領主、そして領軍の最高指揮官を、いったいなんだと思っているのかという気安さだ。
しかしこの場は、所属や階級の垣根を越えて交流を深めるためにあるのだから、これが正しいのかもしれない。
距離を縮めすぎだとは思うが。
何も言えず戻り、シエルに勧められた、横長の木箱を椅子代わりに座る。
湯気の上がるスープの入った、温かい器を両手で持って、すっかり日の落ちた空を見上げた。
ベルクホルン連峰の雪をかぶった稜線にはまだ光があるが、もう星が出ている。
初めて会ったあの時、妹を抱きしめなくてよかった。
道を外れたいと思ったことも、何度かある。
この道は、辛いことばかりだと思っていた。
妹と出会ってから断頭台までの、一年と少しの間、なんの希望もない、心を押し殺すだけの日々を送るものだと。
悪役令嬢がどういうものか正確に理解できているかは、今もって自信はないが、演じてみると――そんなには悪くない。
しかし、妹へのいじわるが足りないか。
一応、シナリオ内のいじわるは押さえているが、もっと常日頃から冷たく当たる必要があるのではないか。
私が目指しているのは、断頭台なのだから。
……いや。さすがに断頭台へ送られるのに、『いもうとへいじわるしたから』などという理由はあるまい。
多分、『観客』への心証の問題だ。納得感、と言い換えてもいい。
罪状に心当たりはある。それこそ数え切れないほど。
【月光のリーベリウム】の【シナリオ】の中だけでも一つあるし……私はそれを回避する気がない。
私が悪役だからではなく、公爵家の当主として。
義務と忠誠を。
ユースタシアに安寧を。
――私は、私の役割を果たす。
「お姉様。ちょっと詰めてください」
「は?」
「あ、やっぱりいいです。いけそうです」
何がいけそうなのか。
と聞き返す間もなく、妹は軽くスカートを払って整えると、横長の木箱の空いているスペース……私の隣にちょこんと腰かけた。
そして距離を詰める。
「いただきましょう、お姉様。……あ、もしかして、私を待っててくださったりとか?」
「何を馬鹿なことを……」
元気いっぱいの妹に、ため息をついた。
「あはは……そうですよね」
妹がごまかすように笑う。
……ちょっと寂しそうに、ほんの少し元気をなくして。
「……いえ、そうね」
「え?」
呟いた。
「あなたを待っていたのかも、しれないわね……」
ずっと、待っていた。
妹の存在を『知って』から、四年近くになる。
気持ち悪いほどの強さで頭に刻み込まれた【月光のリーベリウム】の物語を、【テキストログ】を通して、何度も何度も、繰り返し辿りながら、ゲームスタートを待ち続けた。
妹の存在ごと全部が妄想だったら、恋愛小説家になろう、と思うような物語の中で、何度も私は首を落とされた。一行で。
それでも、待っているのが断頭台だとしても、私は、妹がいてほしかった。
そして今、私の隣に、妹がいる。
――それ以上、何を望むだろう?
「…………」
気が付くと、隣の妹は、無になっていた。
目を閉じて、口元を引き結んで、目こそ開けていないが、どこか遠くを見るように、スープの器を両手で持って動きを止めていた。
「……レティシア?」
「……いえ! なんでもありませんアーデルハイドお姉様。ちょっとバグってました!」
大丈夫かと不安になって声をかけると、ぱちっと目が開いて、あまり大丈夫とは思えない様子の答えが返ってきた。
これが、"仕立屋"なら心配いらないのだが。
「いただきましょう、レティシア」
「はい、お姉様」
金属のスプーンを取って、器に口を付ける。
器は持ち上げずスプーンですくって飲むのが正式なマナーだが、テーブルマナーという言葉は、この場にない。いや、むしろこれが正式だ。
テーブルないし。
――懐かしい味だった。
食材のレベルも、調理の腕も、屋敷で供されている料理には及ばない。
でも、いろいろと疲れている時、塩味が濃いめのスープは美味しい。
さらに、野外で、同期達がいて。
隣に、妹がいる。
一息ついたところで、さっき恩を受けた赤毛の配膳係に微笑んで礼を言った。
「ありがとう。美味しいわ」
レティシアも、私の後に続けて感想を言う。
「胸が詰まって涙が出そうなぐらい美味しい……」
配膳係の彼女は、不安そうになった。
「……アーデルハイド様。差し出がましいかとは思いますが……レティシア様にも、ちゃんと食べさせてあげてくださいね……?」
普段、どんなものを食べさせているのかと不安になったらしい。
意識していじわるした時より、効率よく悪評が立ちそうなの、なぜだろう。




