雪の朝
朝、自室のベッドで目覚めた私は、やけに静かなことに気がついた。
この気配は――と、原因に思い至って、ベッドから抜け出して肩に一枚羽織ると窓に寄った。
私の部屋は警備のためもあって二階にある。
副産物として庭を見下ろせるが、壁が高いために外の景色は見えない。
窓から見える空は晴れ晴れとしていい天気だった。
しかし、視界の白さと眩しさは、それとは関係ない。
「……積もりましたのね」
王都では珍しいドカ雪だ。昨夜はずいぶんと降ったらしい。
窓を開けると、冷気が頬を撫で、目が覚めていく。
眼下では、使用人達が雪かきを――
「あ、お姉様!」
……ん?
なぜ、雪かきをする使用人達に混ざって、ヴァンデルヴァーツの至宝たる、爵位継承権第一位を持つ少女の姿が見えるのかは、とても不思議だ。
率直に言って、私の理解力を超えている。
この世には、理解できぬことがあるものだなあ、と思わず遠い目になりそうになるのをぐっとこらえ、目の前の現実に向き合うことにした。
「レティシア。……そこで、何をしていますの?」
「雪かきです!」
それは、見れば分かる。
使用人達に借りたものか、少し大きい、目の詰んだベージュの羊毛セーターと、ポンポン付きの白いマフラーが可愛い。
足下も少しだぼっとしたズボンで、乗馬服以来のスカートではない格好も、よく似合っている。
そして手には雪かき用のスコップ。
雪かきは男性使用人の仕事のはずだが、彼女の周りには女性使用人達ばかりだ。
それが顔に出ていたのか、レティシアが続けた。
「通いの人達が、この雪でほとんど来てないらしくて……」
なるほど。確かにベラのように家が近所の者以外、通いの使用人がいない。
そこでなぜ、次期当主である貴族令嬢が雪かきをしているのかは……レティシアだから仕方ない、と諦めることにした。
それが彼女のいい所だとも思う。
私と違って使用人達にも慕われ、溶け込んでいるレティシアだが、さすがに雪かきを押しつけられることはあるまい。
ならば、自分から手伝いを申し出たのだろう。
きっと、そういうところで、好感度が上がっていくのだ。
現に私は、いつもと違う彼女の格好や、自然に使用人達を気遣って嫌味なく一緒に働くレティシアの姿を見て、好感度が爆上がりしている。
けれど、それは見えない壁があるようにどこか遠く――
「お姉様も一緒にどうですか!」
どことなくセンチメンタルな気分になりかけた瞬間、その曖昧な憂鬱さが、どこかへ行った。
今日は、お仕着せであるいつものメイド服ではなく、レティシアの倍はありそうなセーターを着ている赤毛のベテランメイド、ベラが慌てて彼女の肩を掴む。
「あんた、何を!? 当主様に雪かきをさせようってのかい!?」
「だいじょうぶですよ、ベラさん。お姉様は心の広いお方です」
小声だが、ばっちり聞こえている。
多分、ベラが正しい。
しかしレティシアは、そのまま笑顔で私に向けて手を振った。
いったい、そのメンタルの強さはどこから来るのか。
ユースタシア広しといえども、私を『心の広いお方』と呼ぶのは、多分レティシアだけだろう。
おかしいな。
私、あの子に意地悪してるはずなんだけどな。
なんで、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の現当主を、そんなに屈託なく誘えるのか。
しかも雪かきに。
そこで、彼女の表情がこの距離でも分かるほど曇った。
「……あ、でも。お姉様みたいな方は、雪かきなんてしたことない……でしょうか?」
ようやくそこに気づいたのか。
しかし。
「……舐めないでちょうだい。これでも私はユースタシアの女よ」
シエルに一通り仕込まれた。
ユースタシアの王都では、たまに今日のように大雪が降ることはあるが、普段はそこまで積もらない。
けれど、もしかしたら、雪の深い地域で逃亡生活を送る事態に陥る可能性もあるかもしれないから――と。
そのおかげで色んなスキルが身についたのだから、文句を言うつもりはない。
シエルには、感謝している。
……でも、彼女がいったいどんな事態を想定して、私に教育を施してきたのか、気になった。
私は、ヴァンデルヴァーツ家の当主だ。
我が家には先祖代々の財産があり、権限がある。
私が、それを生かすための教育を受けたのは、間違いない。
……ただ、今の私なら。
もしも、ヴァンデルヴァーツ家の当主でなくなったとしても、生きていける気がした。
一人で、どこか遠い所で、ひっそりと生きていくだけなら。
そして、もし。
もしも。
一人ではなかったとしても。
妹一人分ぐらいなら、その食い扶持も稼げる気がした。
眼下のレティシアが、黙り込んだ私に向かって、首をかしげる。
ベラ達は、ハラハラしているらしい。
私は、ふっと笑った。
「着替えて行きますわ。……首を洗って待ってらっしゃい」
そしてにいっ……と笑う。
ベラ達は顔色を変え……。
レティシアは、にこっと笑った。
「はい! 首を洗ってお待ちしています!」
……毒気を抜かれる。
東方の国では、毒魚の内臓を漬け込んで毒抜きして食べる珍味があると聞くが、今、じわじわと毒抜きをされているのではないか、という気分になった。
窓を閉めると、ゆっくりとベッドに向かって歩き。
そのまま勢いよく布団の中に飛び込んで、悶えた。
「うちの妹が可愛すぎる……!」
枕に顔を埋めるようにして、抑えた声で叫ぶ。
動きを止め、ゆっくり五秒数えて、起き上がった。
「……はあ」
これは【公式イベント】なんかでは、ないのに。
ベッドを下りて布団を軽く整えると、『外出用』の服……要は、貴族であることを隠してお忍びで視察したりする時の服が収められているクローゼットを開ける。
少し迷ったが、黒色である以外は、レティシアが着ていたのと似たウールのセーターを選ぶ。
ちょっとだけお揃いっぽくしたいとか、そういうことはない。断じてない。
これが雪かきにはちょうどいい、活動的な格好だから。
……と、どこへ向かってしているかも分からない言い訳をしながら、服を選んでいく。
ある引き出しを開けたところで、二つ並んだぽわぽわの耳当てが目に入った。
一つは元の色だろうベージュで、一つは黒く染められている。
お姉ちゃんアイによると、いきなり冷え込んだのもあって、動いていても寒そうで……レティシアの頬も耳も、赤くなっていた。
「…………」
迷いながらも、耳当てを手に取った。
二つとも。
「あ、お姉様!」
庭に出ると、どことなく緊張した様子の女性使用人達。
まあ、当然だろう。
一人増えれば作業の負担は減るが、それが当主――しかもヴァンデルヴァーツ家の――となれば、心労は溜まるに違いない。
でも、せっかく妹に誘われたし。
恨むなら、レティシアを恨んでもらおう、といっそ清々しい責任転嫁を心の中で果たし、そこはかとなく恨めしい視線を華麗に無視することに成功した。
私を笑顔で迎えた妹に向けて、手に持った耳当てを投げつける。
「わ」
面食らった様子で、それでも反射的に受け取るレティシア。
「これでもくれてやりますわ」
「これ……?」
首をかしげる様も可愛いレティシア。
「耳当て……ですか?」
「ええ。余っていたから――」
花の咲いたような笑顔になるレティシア。
そしていそいそと、耳当てをつける。
「お揃いのプレゼント、嬉しいです」
「……よく見なさい。あなたのはベージュで、私のは黒です。お揃いなどではありませんわ」
「色違いでお揃いですね」
譲らないレティシア。
多分、工房が同じなのだろう。確かに、私が手に持っている黒い耳当てと色違いで同じ品らしいので、妹の言っていることは正しい。
でも、それをわざわざ言う必要が……どこにあるというのか。
それが、嬉しいのでなければ。
いったい、どこに。
「…………」
私は、無言で耳当てをつけた。
うちの妹が可愛すぎて、生きるのが辛い。




