ショーウィンドウの向こう
「あ、お姉様。あれって」
「あら……新刊、出ていたのね」
ガラス製のショーウインドウは、ユースタシアの王都のような大都市ならば普通に見るようになってきた。
しかし大きな一枚板のガラスは、今もって高価。つまりショーウインドウ自体が高級店の証明に……あるいは高級感の演出になる。
レティシアが、ガラスに触れないように気をつけながら、それでも手を伸ばすように上げて、じっと中を見る。
透き通ったガラス板の向こうにあるものは、綺麗に見える。
手が届かないものを、人は美しいと思うから。
ショーウインドウの向こうにあるにあるそれは、開かれた赤いドレープ付きカーテンと、統一感を持たせた赤い布で飾られた一角に鎮座していた。
水色の布で装丁された本。念のため書名を確認するが、間違いなくうちの図書室にもずらりと並んでいる『女当主とメイド』シリーズだ。
「本屋さんって、こう、敷居が高いですよね……」
しみじみと呟くレティシア。
ちら、と控えめに添えられた値札を見ると……銅貨はもちろん銀貨でさえなく、金貨で数えねばならなかった。
そういう買い物を、妹はまだ経験していないだろう。
領地経営をしていると、それこそ桁が違う額が動くので、感覚が麻痺しがちだ。
「では入りましょうか」
「えっ!?」
レティシアが、ばっと勢いよく、視線を本から私の顔へ向ける。
「慣れなさい。あなたは公爵家の令嬢よ。ことさらに立場を見せつけろとは言いませんが、その身に流れる血と誓った忠誠において、ユースタシアの貴族としての自覚を持ちなさい」
「は、はい」
ぎこちなく頷くレティシア。
彼女の伴侶になる相手には、この妹の純真さを損なわず、しかし、貴族あるいはそれに比肩する者としての力があるといい。
木製のドアは、重厚に見えてするりと開いた。
「いらっしゃいませ、アーデルハイド様」
カウンターの向こうで、燕尾服を着こなし、丁寧に手入れされた白い髭の老紳士がうやうやしく挨拶した。
「ご予約いただいている新刊が出ておりますよ」
彫り込まれたような厳しい顔つきに柔和な微笑みを浮かべる彼は、この本屋の店主だ。
「今日はショーウインドウのそれが目に入ったから、寄らせてもらったわ。また後日、シエルが来ますから。ああ、案内は不要よ」
「左様でございますか。それでは、ご用があれば、声をおかけ下さい」
私は軽く頷く。
そしてぐい、と腕を引いて、私の腕に掴まったまま固まり気味のレティシアを促した。
「れ、レティシア・フォン・ヴァンデルヴァーツと申します。初めまして」
軽くスカートをつまんで挨拶するレティシア。
別に挨拶しろと促したつもりはなかったのだが。
少し声がうわずったが、所作は優雅で、誰も彼女のことを"裏町"出身だとは思うまい。
「ご丁寧な挨拶、痛み入ります。お嬢様を当店にお迎えできること、まことに光栄にございます。ごゆっくりどうぞ」
それでも、誰もが彼女の"出身"のことを知っている。
彼もそうだろうが、それを口にすることはない。
私が大貴族かつ上客というのはもちろんだが、レティシアに対しそんな振る舞いをする理由がない。
人の心というのは、簡単には変わらない。
それでも、レティシアの噂を通じて、多くの人が"裏町"の存在を意識するようになった。
彼女への同情心が、いずれ『役に立つ』。
噂の内容を正確には把握していないが、私の悪評とセットだろう。
「……お姉様。ここは、よく来られるんですか?」
他に客のいない静けさの圧によるものか、こそっ、と小声でささやくようにして聞く妹。
ささやき声も好きだな、と思いながら答える。
「自分で来るのは、そういえば久しぶりね。昔はよくシエルと一緒に来ていたけれど、最近は彼女に一任していたから」
考えてみれば、シエルはずっと私と一緒にいるのだ。好みが似てくるのは、当然というものかもしれない。
私が読む本もだいたいは読んでいるだろうし、教育係として、そして当主補佐として、私が触れる情報のほとんどを把握しているのだから。
「貴族ともなれば、様々な知識が必要となるから。館の図書室だけで足りないと思えば言いなさい」
レティシアが頷く。
と、そこで小首をかしげた。
「……恋愛小説ってどう必要ですか?」
「……世俗の……恋愛観……流行を、ある程度把握しておくのも、必要よ」
ギリッギリで絞り出す。
あれは趣味だと言い切りたかったが、妹の前で見栄を張りたいのが姉心というものだ。
――少しの間、布や革、装丁も様々な表紙を見せて、大きく余裕を持って飾られた書棚を歩いて行く。
全てカウンターから見えるようになっているのは、さすがに取り扱う商品がデリケートなものだからだ。
これは見本で売り物は別にあるとはいえ、高級品には違いない。
レティシアの質問に答えたり、タイトルを話題にしたり。
一通り見て回ったところで、店を後にする。
ドアを開けたところで、背後から声がかけられた。
「ありがとうございました。……どうぞまた、お二人でお越し下さいませ」
「はい!」
妹が明るい声で言う。
私は、振り返って笑うのが精一杯だった。
「……機会があれば、ね」
水色のケープを翻すように踵を返し、ドアを大きく開けて外に出る。
レティシアと小声で話していたとはいえ、店内は静かすぎるほどに静かで、店外に出ると……王都の雑踏が、わーんと耳に響いた。
本が日焼けしないように、開けられている窓もなく、開かれた本をかたどった鉄製看板と、本そのものが飾られたショーウインドウがなければ本屋とは分からないような店構えは薄暗く、外の明るさに軽いめまいがした。
太陽を避けるように顔を背けながら、空を見上げる。
また、二人で?
こんな機会は、二度とない。
あってはいけない。
なんでレティシアの誘いに頷いてしまったのかさえ、分からない。
軽く頭を振って、雑念を振り払う。
迷いながらも、ドアを開けて店を出る時に離れていたレティシアに再び手を差し出して、また二人並ぶ格好になった。
どれほど並んだ時に収まりがよくて、共に歩くのが居心地が良くて、歩幅を合わせることさえ、幸せだったとしても。
こんな風にするのは、今日が最後。
間もなくだ。嵐が来る。
台風が来る際、風が止む時がある。――付近の嵐の種を全て喰らい尽くして猛威を振るう、前触れ。
私の妹を、台風の目にする。
私は、アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ。
【月光のリーベリウム】の、【悪役令嬢】としての役を受け入れた。
ならば、今日という日が終われば、後はシナリオ通り、断頭台へ行くだけだ。
「……あっ!」
いきなりのレティシアの声に、びくっとする。
「お姉様。ちょっと小腹とか空いていませんか?」
「別にそれほど」
首を横に振る。
「私はなんかすごくお腹が減ってきました。お昼にはまだ早いんですけど。軽く、歩きながらでも食べられるものとかいいと思いませんか。だんだんそんな風に思ってきましたよね」
この間、私は何も言っていない。
しかし、早口で矢継ぎ早にまくしたてるレティシアの圧に負けて、思わず頷いていた。
「……ですよね!」
笑顔で手を叩く妹。
ちょっと私には見えない何かを見て動いているような気がして怖くなった。
……が、幸いと言うべきか、"仕立屋"で慣れている。
いかに挙動が不審だろうが、私が愛すべきたった一人の妹だ。
レティシアが、キリッとした顔になる。
そういう顔も格好いいと思うのだが、なぜそんな戦場に赴く騎士のような。
「――あのお店とか、どうですか」
レティシアが、一つの屋台を指さした。




