帰りの馬車
「あふ……」
市街地を抜け、一定の速度で平坦な道を行く馬車の揺れが眠気を誘い、思わずあくびがこみ上げてきたので、私は手で口元を覆った。
一緒に居るのはシエルとレティシアだけだが、仮にも公爵家当主の振る舞いとしては気が抜けた部類なのは間違いない。緩んでいる。
包帯が巻かれた右手は、昨日より良くなっていて、けれど少しだけ痛んだ。
この包帯は妹を守った姉としては、勲章のようなものだ。
が、同時に公爵家当主としては、規範を逸脱した証明でもある。
「お姉様。眠いのですか?」
「ええ、まあ、ね」
初日以降、あまりよく眠れなかった。
レティシアが寝かせてくれなかったのだ。
隣に可愛い妹がいると、つい見ていたくなる。
レティシアは寝付きがいい。寝相はちょっと悪いが、元気でいいと思う。
ただ、寝返りを打ったレティシアが、ベッドの真ん中に指で引いた線を越え……抱きついてきたらどうしようと考えている間にごろりと戻り……という一連の動きは、心臓に悪い。
熟睡したら、私は寝返りを打った拍子にまた抱きついてしまうのではないか――と、思ってしまった。
自分の寝相と意志力など信じられないと潔く諦めて、大人しく部屋を分ければよかったのかもしれないが、その場合、シエルになんと説明したものか。
――「寝ている間に、無意識に妹に抱きついてしまいそうなので、妹の部屋を別に用意なさい」とでも?
それはダメそうというぐらいは、悪役令嬢でなくとも分かる。
ならば私がすべきは、警備上の問題などから同性の親族として同じ部屋、同じベッドで休みつつ、過度に親密な様子は見せないことだ。
鋼のような意志力で耐えつつ、妹の寝顔を眺めるのはほどほどにして、目を閉じて身体は休めつつ、たまに眠りが深くなり、はっと、今抱きついていないか不安で飛び起き、どきどきする動悸を、妹の寝顔や背中を見ながら鎮める。
そんなことを繰り返しながらの断続的で浅い睡眠では、それはまあ眠気が取れきらないのも無理はない。
「お姉様、お姉様」
「なに?」
私のことを可愛く二回呼ぶ可愛い妹を、顔をしかめてじろりと睨む。
眠気による不機嫌さもあり、今、いい感じに睨めた。
「どうぞ」
「……だから、なに?」
本当に分からず、繰り返した。
今のも、なかなか良いつっけんどんさだった。
しかし、妹が何をどうぞと言っているのか、さっぱり分からない。
「よりかかっていいですよ。行きの馬車で、私にしてくださったみたいに」
妹が何をそんな可愛いことを言っているのか、さっぱり分からない。
よりかかる? 肩に?
思わずシエルを見てしまう。たすけて。
シエルはにこ、と小さく微笑んだ。
やはりシエルは頼りに――
「少し休まれてはいかがですか」
ならない……!?
私が、こんなにも必死に妹に嫌われようとしているのに、なぜ信頼のおける当主補佐が手伝ってくれないのだ。
と、しっかりした命令はおろか、一言も説明さえしていないことを棚に上げて、心の中でぐちぐちと恨み言を言う。
そもそもレティシアの、私に対する妙な好感度の高さはなんなのだ。
当てにならない運命め。公式シナリオ仕事しろ。
思い返すと、承認の儀で転んだところをかばったり、ダンスレッスンや乗馬レッスンをしたり、昨日も酒場で助けたりと、好かれてもおかしくないことを結構している気もするが。
暖炉もない屋根裏部屋に放り込んだり嫌味を言ったり厳しくしたり、ちゃんと、いじわるもしているはず。
「え、あの……」
孤立無援になり、心細さを感じる。
いや、いつだってシエルは、私の味方だった。――きっと、今も。
そして……レティシアも、もしかしたら。
――それでも。
私は、アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ。
【月光のリーベリウム】の、【悪役令嬢】。
この役を演じると決めた。
この道を歩むと決めた。
妹の恋愛物語のお邪魔虫をすると決めた。
小悪党としての役割を全うすると――もう、決めたのだ。
気を引き締める。
特に意味もなく悪役令嬢らしく嫌味なことを言って、妹の健気な申し出をいやみったらしく断る前振りとして軽くため息をつき、すーっと息を吸った。
「えい」
えい……?
その私を、レティシアが腕を絡めるようにして引き寄せた。
勢いあまって、頭と頭がこつんと当たる。
ばさりと広がった私の長い銀髪をレティシアが手で整えた。
開けた視界に飛び込んできたのは、妹の短い金髪と、私と同じ青い瞳に、顔立ちは似ていながらも七十倍ぐらい可愛い笑顔。
頬と頬が触れ合いそうなほど、至近距離の。
「どうぞ、お姉様。……ここは身内だけですから、安心してゆっくりお休みくださいませ」
できるか。
刺激が強すぎて、反射的に目を閉じる。
……身内だけ、だから。
目をつむった闇の中で、妹の言葉を繰り返す。
シエルは私にとって身内のようなものとして。
妹にとってのシエルも?
妹にとっての私も……?
それでも。
何事か、言おうとして。
さっき、言ってやりたかった嫌味の残骸をかき集めて形にしようとして。
妹と密着しながらでは、それは上手くいかなくて。
ぽつりと、今の私の精一杯を呟いた。
「……邪魔になったら、押しやりなさい」
「はい。あ、いえ、しませんけど」
むしろ今すぐ押しやってほしい。
……自分からは、ちょっと、今のこの体勢を崩せそうにないから。
「お姉様を邪魔に思うなんてこと、ありませんよ」
そういう心の綺麗なこと言わなくていいから。
妹は、何度いじわるしても、嫌味を言っても、私に対して『メッセージ』を送ってくる。
自分は敵ではないから、安心してほしい、と。
……仲良くしたい、と。
しかし私は妹の敵だ。敵役だ。
やめられるはずがない。
この世界は【月光のリーベリウム】の舞台。
町中で、コンラートに出会わせてきた。
ソニアがいるからと選んだ薬草園には、ルイがいた。
フェリクスとは合同演習での責任者同士、顔を合わせない方が難しかったが。
そして私には、妹がいた。
それを私は、出会いの三年以上前から知っていて、その通りになった。
それが、この世に運命のある証。
私が役を降りたら、どうなる?
『代役』が用意される可能性がある。
そいつは、妹をいじめるかもしれない。
恋愛物語のお約束のような、たまに洒落にならないところがありつつも、全体には生ぬるい『いじわる』とは違う、明確な悪意を向けるかもしれない。
【攻略対象】達は、そうそうたる顔ぶれだ。
横恋慕や逆恨みする者がいないとも言い切れない地位の男揃いだ。
人の心の中は見えない。"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"にさえ。
私は、妹の敵だ。
私は、妹の敵でいる間だけ、妹の味方でいることを、運命に許される。
この立ち位置が一番、妹に対する悪意をコントロールできる。
レティシアはそれ以上何も言わず、むしろ私に身体を預けるようにしてきた。
歯車と歯車が噛み合うように、お互いの肩と肩、頭と頭が支え合って、丁度良い所に収まる。
まるで、そうするのが当たり前みたいに。
まるで、ずっと昔からそうしていたみたいに。
私は、気付かれないように肩の力を抜いた――
……と、それに合わせてか、妹が肩の力を抜いたのが分かる。
密着しているのだから、そっと力を抜いても、誤魔化せていなかったらしい。
でも、妹も緊張していたのか。
平気な顔で。当たり前みたいに。
……そんなこと、あるわけないのに。
うちの妹は、とても可愛い。
仕草の愛らしさときたら国宝級。言うことの可愛さは語り継ぎたいレベル。心根の綺麗さは聖女。
まるで運命に遣わされた【主人公】のよう。
でも妹は、ただの女の子だ。
今年で十七の。母を亡くし、懸命に、必死で、生きてきただけの。
誰が忘れても、私だけは忘れてはいけない。
攻略対象の誰がよりかかっても、私だけはよりかかっては、いけないのに。
こうしていては、いけないのに。
助けなくちゃ、いけないのだ。
私は、私だけは。
私は、お姉ちゃんだから。
十何年も、存在さえ知らずに生きてきて。
妹がいることを知ってからの三年間も、間接的な支援だけですませて。
苦境をシナリオに必要だと見ない振りをして、本当に苦しんでいないかさえも、確かめずに。
そんな風に、妹を傷つける運命に知らずして――知ってからも、それに加担した私には。
妹を幸福にする運命に従う義務がある。
いや、義務などではないのかもしれない。
ただ、私はそうすべきだと感じている。
――この子のお姉ちゃんを、名乗りたいから。
「……ねえ、お姉様」
「……なに?」
目を閉じたままで、妹の呟くような呼び声を聞いている。
頭と頭が触れ合っているせいで、頭の奥に直接聞こえてくるような声が、しっとりと心に染み込んでいく。
「私、こうしているの、好きです。ずっとこうしていたいぐらいに」
「……そう」
――よりかかって、よりかかられて。
それが、主人公の望みなら、今だけは。
ユースタシアの短い夏が終わる。
これから、あと一つ大きな恋愛イベントを終えれば、シナリオはラストまで駆け足で進んでいく。
そして観客は思うのだ。
もっとあんな風にのんびりと過ごしていたかった、と。
そして最後まで物語を主人公視点で辿り終えて思うのだ。
色々あったけど、ハッピーエンドで良かったな、と。
小悪党の死は路傍の石に同じ。
読み手に気にされるのはきっと最後の告白ゼリフであり、その後のこと。
物語でいえば、最後のページ、ラストフレーズを指で追って、本を閉じて、目をつむって、顔を上げて、辿ってきた物語のこれまでとこれからに思いを馳せる。
そこに、私はいない。
でも、それでいい。
ハッピーエンドが、来るのなら。
――ユースタシアの北部、気温の上がりきらない午前中の夏の日差しが、馬車のガラス窓を通して顔に当たるのが、心地よくて。
妹と一緒に肩を寄せ合うようにして、眩しい闇の中で目を閉じていると、眠くなってくる。
旅慣れぬ者なら不快に思うだろう振動さえも、今は眠気を誘った。
その、夢か現実かも曖昧な帰りの馬車の中で。
レティシアが、そっと手を握ってくれて。
私は、それを振り払えずに。
それどころか、指を絡めて握り返した気がするが。
悪役令嬢的には断じて認められないので、その記憶は、指の間に残る感触ごと、心の中で握り潰しておくことにした。
・あとがき
『挿絵イラスト』というより、『証拠写真』という趣がある。(挨拶)
こんにちは、水木あおいです。
1章のあとがきでは「2章では決着まで行く予定です。」と書いていたのは、なんだったんでしょうね。
これについて(活動報告以外で)書いたのは1章終わりの製作記末尾だったので改めて書いておくと、とりあえず3章があります。
3章も、引き続き今まで通り通常営業の予定です。
内容ですが、順当に【最後の舞踏会】や【断罪】()や【断頭台】()などを予定しています。(※順不同)
他に、【デートイベント】を予定しています。(次回予告の範囲のネタバレ)
ちなみに2章はあくまで【視察】です。
2章を経て、まだ妹の可愛さにも負けず【悪役令嬢】をやる気満々で、相変わらず目指しているのは断頭台のアーデルハイドお姉ちゃんですが。
3章では、今度こそ決着まで行く予定です。
あ……デートのお相手は未定ですよ……ええ……ネタバレ……ですから。
3章開始前に、製作記系番外編を1つ予定しています。
更新再開は、製作記ができあがり次第となります。
物は、さっき完成しました。
物は。




