カミラの店
店に入った途端、懐かしさに襲われた。
知っている店内――少しだけ、席の配置が変わっただろうか。
それでも、そこは八年前と同じ。『カミラの店』だった。
「いらっしゃいませ!」
白と赤の、肩を出して胸元が空いた制服を着た店員さんに迎えられる。
当然ながら見覚えのない顔だった。酒場のホールのメンバーの入れ替わりは激しい。当時の私のような日雇いバイトが働けたのも、人手不足になりがちだからだ。
変わらないものを、無意識に探してしまう。
カウンターの向こうで、調理をしながら指示を出している、くしゃりと波打つ赤髪の女性の姿を。
そして、見つけた。
――彼女も私を、見つけた。
一人だけ白いシャツに、黒い腰エプロン。この店における店長の印だ。
焦げ茶の瞳が、私を認めた瞬間、大きく見開かれた。
そして『名前』が呼ばれる。
「……アデル?」
当時の私の名前だ。
名前の短縮形の愛称としてではなく、偽名としてそう名乗った。
あまり本名からかけ離れていると、とっさに反応できないからと、シエルと相談して決めた『偽名』。
この街で、八年前に私が名乗った仮の名。
そして今日も、同じ名前を名乗っている。
だから今の私は『アデル』だ。
覚えていてくれた。
名前を、呼んでくれた。
私だって、分かってくれた。
彼女の顔をまっすぐ見られずに、ちょっと視線をそらしながら、指先でくるくると髪をいじる。
「……ええ。カミラ、久しぶり……」
彼女はカウンターから出てきて、ゆっくりと近づいてきて。
思い切り、抱きしめられた。
手にしていた麦わら帽子が、ぱさりと床に落ちる。
「……ごめんなさい。だま、して」
そんなことしか、言えなかった。
抱きしめ返すことは、できなかった。
それでも、振りほどくことも、できずに。
――声を震えさせないことさえ、できないで。
「……忘れちまったね」
彼女は酒気と煙に少しかすれた、酒場で働く者特有の声で、笑い飛ばした。
笑い飛ばして、くれた。
八年間の時間が、すっと溶ける。
カミラは私を解放すると、耳元に口を寄せて小声でささやいた。
「あのさ。あの特権……まだ、生きてるのかい?」
――私は彼女に、一度だけ領主としての便宜を図るという特権を与えた。
期限は設けていない。あの約束は、まだ有効だ。
「……ええ。私は、家名において誓いました」
少し落ち着いた。
――ようやく借りを、返せるのか。
仕入れルートの融通でも、税金の軽減でも……なんなら、ライバル店を傘下に収めるぐらいまでは。
様々なパターンを頭の中で考えて、未来を予測する。
それ相応の要求だろう。
なにしろ、ヴァンデルヴァーツの当主、そしてヴァンデルガントの領主へと望む内容だ。
彼女は、いたずらっぽく笑った。
「……今日は人手が足りないんだ。手伝ってくれるかい?」
「っ……」
なんで。
私は、領主なのに。
貴族だ。ユースタシアに三家のみ存在する公爵家の当主。王国の約一割を領有し、このヴァンデルガントを治める支配者階級なのだ。
だから、もっと望んでいいのに。
なのに、なんで、そんなささやかなことを願うのだ。
妹も、そうだった。
いじわるしているから萎縮しているのかもしれないが、与えられた資金を大して使っていない。
私が生きている間に妹に与えられる物は、貴族としての立場と、屋敷の屋根裏部屋と、"仕立屋"の服と、ダイレクトに金銭しかない。
貴族じゃない私に、価値なんてない。
私という存在は、ヴァンデルヴァーツ家を継ぐために生まれ、育てられた。
私の周囲の人間は、みんな、私の家名を見ている。
……自分でさえ。
ずっと、そう思ってきたのに。
「接客用の服、貸してくれますか」
「もちろんだよ」
小さく笑みを交わし合う。
終わったと、思っていた。
何もなかったと、思っていた。
あれは、遠い日の思い出で。
転がり込んだ酒場の店主が、私を娘みたいだって言って、可愛がってくれた温かい日々は。
一度だけ領主の名において便宜を図るという、冷たい取引になったと。
自らの力で築き上げた居場所を……家名に頼らずに手に入れた温もりを失うことさえ、『教育』の一環だと。
そう、思っていたのに。
……そうじゃなかった。
さっき落とした麦わら帽子を拾い上げると、軽く手で払った。
カミラが、私の背後のシエルに視線を向ける。
「シエルさん、久しぶりだね」
「ええ。――私も、お手伝いしましょうか?」
「ぜひ頼むよ」
かつて、シエル目当てで客が増えたと噂されるほどだ。
メイド長なのも伊達ではないし、もちろん接客の腕も鈍ってはいまい。
カミラは、そのままレティシアに視線を向けて、首を捻った。
「ええと、そっちの子は……」
レティシアが笑顔で答える。
「『レティ』と呼んでください。雇ってくださるなら頑張ります」
「接客の経験は?」
「パン屋と、八百屋と、食堂で一通り。酒場は初めてです」
……さりげなく知らない過去が。
「食堂で働いた経験があるなら大丈夫。頼むよ。……アデルとはどういう関係か、聞いても?」
「ええと……」
カミラ、シエル、そしてレティシアの視線が、私に集中する。
何と言えばいいのか、迷った。
伏せねばならない情報があったりなかったり。
それでも、一つだけ確信をもって言えることがある。
「妹です」
「え? ……父以外に身よりはないって話じゃなかったかい?」
「ええ。当時はそう思っていたのですが……後から腹違いの妹がいたのが分かりまして」
カミラは私が貴族であることを知っている。
それはつまり、爵位継承権や財産分与など、面倒なことになるのも分かっているということだ。
彼女は、私と肩を組むようにして顔を寄せた。
「……あんた、苦労してるねえ」
「……そうでも、ないです」
……庶民でも、腹違いの妹がいることが判明したら、面倒なことになりそうな気もする。
それに何より、苦労しているのはレティシアだ。
「妹に罪はありませんから」
まあ、妹が可愛すぎて苦労しているのだが。
カミラが苦笑した。
「あんた、いいお姉ちゃんしてるねえ」
「……そうでも、ないです。本当に」
私の中のいいお姉ちゃんは、悪役令嬢として妹にいじわるしたりしない。
でも、今日は少しだけ『いいお姉ちゃん』ができたような気もする。
視察のための設定に助けられ、さらに妹の全面的な協力によって、お姉ちゃん力が底上げされてのことだが。
ただ、今日の一番いいお姉ちゃんはシエルな気もする。




