シャーティア湖のほとり
湖に行きたい。
「……ダメ、ですか?」
今も、じっと上目遣いで見てくる真剣な表情の妹の前で、ダメだと言う選択肢を選ぶことはとても難しい。
しかし幸いなことに、本当に普通……というか、ささやかな希望だった。
「構わないわ。行きましょう」
「……はい!」
ぐっ、と両の拳を握りしめて返事をするレティシア。
……実は湖で素潜り大陸記録を打ち立てたいとか、そういう大層な野望を抱いてはいないと思うのだが。
なぜ、そんなに気合いを入れているのだろう。
領都から少し離れた所に、シャーティア湖はある。
乗り合い馬車による定期便が出ていて、私達はそれに乗ってやってきた。
貴族用に比べるとやはり揺れるし、クッションも固いが、実は結構そういうのも慣れている。
シャーティア湖は、平地にある湖の中ではヴァンデルガント最大だ。どれぐらい大きいかと言えば、湖を一周するコースは本格的なトレッキングコースで、途中に休憩所や売店も設けられているほど。
ベルクホルン連峰からの雪解け水と湧き水の二本柱で構成される水は冷たく、水深は深い。さらに少し行くと一気に深くなる、いわゆる『かけあがり』のどん底。
マス類の漁場として適しているために、ヴァンデルガントのたんぱく質を、家畜だけではなく魚の面から支えている。
ただ、さすがに湖なので、獲り尽くさないために漁獲制限がある。
漁は早朝に限られ、漁師の数も出せる船の数も決まっている。
昼過ぎの今は漁師はおらず、それなりの人がいる。
それぞれ、湖畔を散策し、浅瀬のある一画では子供が水遊びに興じ、他でも、釣り竿を出し、ボートで漕ぎ出し……と、思い思いに湖を楽しんでいた。
領主としては、領地が平和で、領民が幸せそうにしていることに、静かな満足感を覚える。
それでも、この瞬間がいかに脆いか。
かつて遊学したことさえある隣国のルインズが『燃えた』ことを思えば、私は目を閉じるわけにはいかない。
「お嬢ちゃん、一口どうだい。試食はタダだよ」
「ありがとうございます!」
しかしちょっと目を離した隙に、屋台の黒髪の若いお姉さんに商品を勧められているレティシア。
見ると、魚の燻製だった。
「結構固いですね。でも美味しいです」
薄切りにしてから塩を強めに利かせ、干して水分を飛ばしてから、カラカラになるまで燻製した、マスチップスだ。
似たようなものはユースタシア王国中はもちろん他国にもあり、取り立ててヴァンデルガントやシャーティア湖の特産品というほどの品でもないが、地元の味には違いない。
地元の製材所にカンナが導入された時、それを見た職人が、魚の燻製を薄く削ることを思いついた――という逸話が示すように、実は製材技術が進歩した近年になって作られるようになった、意外と歴史の浅い品でもある。
しかし、どこも元祖や発祥の地を謳うために、いったい、いつどこで作り始められたものか、はっきりしない。
「アデル姉様は? 食べたことあります?」
「作ったことがあるわ」
……と、妹が聞いてきたのに、思わず素で答えてしまった。
「え、お嬢ちゃんが?」
店員の黒髪お姉さんが意外そうな顔になる。
私達は、貴族とまではいかずとも、ちょっといいとこのお嬢さんぐらいには見えているだろう。
特にシエルは良い仕立ての外出着だし、レティシアが可愛いので。
「……お姉様の過去も謎ですよねえ」
「あなたほどじゃないわよ」
私のはただの、教育係の教育方針によるものだ。
燻製作りの時期は臨時雇いが増えるので、私のようないつもは目立つようなお嬢様でも、潜り込みやすい。
店員のお姉さんが、シエルを見た。
「……複雑なご家庭で?」
「家庭の事情で離ればなれに暮らしていて、全員母親が違うんですよ」
しれっと語るシエル。
あくまで設定だが、嘘でもない。
「ヴァンデルガントに縁があるもので、今日は観光に」
やはり嘘ではない。
私とレティシアは領主の血に連なる者だし、彼女も血縁こそないが、生まれた時から私と縁がある。
「そう……じゃあ、今日は楽しんでいってね」
黒髪のお姉さんが、シエルに微笑み、シエルも微笑みを返した。
「ありがとうございます。お礼と言ってはなんですが、大袋を一つ」
「まいど!」
大袋。
シエルが銀貨一枚と引き換えに受け取った、マスチップスが入った薄く粗い紙袋が、自然に私達の前に差し出され、レティシアが手を伸ばす。
……私も手を伸ばして、チップスを一枚取る。
露店を後にして、湖に向かって歩き出すシエルの後を追いながら、チップスを口に入れた。
パリッと割れ、口の中で噛んでいく内にしっとりとした質感が戻り、薫香が口の中いっぱいに広がる。
懐かしい味だ。端切れが臨時雇いのおやつ代わりだった。
しかし実は、作る時に一生分、魚の燻製の匂いを嗅いだ気がしていたので、ちゃんと買って食べたことがない。
臨時雇いの仕事は基本的に下処理で、ひたすらマスの頭を取って内臓を出して洗ったら、干し網に並べて……としていると、近くの燻製小屋で燻製される匂いが、煙と共に風に乗って流れてくる――そんな記憶が、味と匂いをきっかけに鮮明に思い出された。
その時は、もう一生食べることもないと思ったものだが。
人の一生というのは思ったより長く、そして予想外に満ちている。
生まれた時から決まった道を歩んでいた私でさえ、怪しげな運命に新しいシナリオを渡された。
――歩きながら軽食を食べることさえ、当たり前にはできなかった。
……でもそれは、私が勝手に、貴族らしい振る舞いを意識しすぎていただけだったのかもしれない。
お茶会で、騎士団長を抑えるために王子が暴走した結果、実現した肉コーナーのことを思い出す。
王族として、似たような教育を受けているはずの第一王子様からしてアレだ。
そして妹は、誘われたからとはいえ、新しいものを――未知のものを、あっさりと受け入れてみせた。
他の令嬢達も、興味を惹かれて、教えられてきたマナーとは違う焼き肉ゾーンに足を踏み入れ……楽しそうにしていた。
私だけが、ずっと立ち止まっている気がした。
薄暗い陰の中で。
妹や他の令嬢達……少し年下なだけなのに、彼女達は、光の下を歩んでいる気がした。
私が歩む道の先には、何もない。断頭台で道が終わる。
彼女達が、未来を作る。
――妹は、誰と、どんな道を歩むのだろう。
【月光のリーベリウム】のシナリオは、それぞれの【攻略対象】と結ばれて、ほんの少し未来のユースタシア王国を垣間見るだけで終わる。
もう少し詳細に、政治的な事情を教えてほしいのだが、予言の書ではなく、恋愛物語なのだから仕方ない。
「おね……アデル姉様?」
……いけない。物思いに囚われて、物理的に立ち止まっていた。
シエルとレティシアが少し先で私を待っていた。
追いつこうと、歩き出そうとした時、レティシアがシエルから燻製臭のする袋を受け取って、駆け寄ってきた。
「アデル姉様、どうぞ!」
満面の笑顔と共に、袋から取り出されたマスチップスが差し出される。
その笑顔に見とれるのと同時に、状況が理解できず固まった。
「これは、なんの真似ですの?」
「口調戻ってます、アデル姉様」
……あ、そうか。視察のための演技か。
――いや、演技だとしてどういう状況だこれ。
「……アデル姉様が元気なく見えて。美味しい物食べたら元気になるかなって」
最初に出てくるのがそれなのか。
「え、いや。そっちの袋」
「どうぞ」
袋を後ろ手に隠し、持ったチップスをぐい、と差し出してくるレティシア。
妹の押しが強い。
――私は、公爵家の令嬢として育てられた。
……ただ、今は視察中で。
彼女は、設定の上でも、もちろん本当にも妹で。
妹が手にして差し出しているのは、地元の軽食で。
心に言い訳をしつつも、素直に妹が差し出したマスチップスを口に収めた。
パリパリもぐもぐと食べる私に向けて、にこ、とする妹。
彼女が持つ大袋に手を伸ばし、私も一枚取る。
……今は、視察中で。
設定上、姉妹の仲を悪いものとする要素はない。
そして私が手にしているのは、地元の軽食だ。
「おね」
「ほら」
口を開こうとする妹の口元に突きつけた。
「……いいの?」
「今は、いいの」
妹が無言で食いついた。
その様子も愛らしくて、彼女の手から大袋をそっと奪い取ると、もう一枚を妹の口元に運ぶ。
レティシアも一枚抜いて、もう一度差し出してくるマスチップスを口で受ける。
お互いに無言だ。
口の中に、水分を奪っていく、薄くした燻製があるから。
そういう言い訳に甘えて、名付けられない感情を抱くのを自分に許す。
もしも、私達二人が同じ気持ちでいるなら。
……私に何かを食べさせようと差し出してくるレティシアの気持ちが、分かったかもしれない。




