螺旋
厨房の換気扇が、油の切れた悲鳴を上げている。深夜二時。仕込みを終えた定食屋「あさひ」のカウンターで、健一はポケットからその真鍮の鍵を取り出した。ずしりと重い、冷たい金属の塊。持ち手には『Re:』の刻印。骨董市の老婆は言った。「あんたの背中、後悔で猫背になってるよ。一度だけ、伸ばしてみたくないかい」と。
健一は震える指で、虚空に鍵を差し込んだ。カチリ。あるはずのない鍵穴に、確かな手応えが吸い込まれる。ゆっくりと右へ回す。ギリ、ギリ、と何かが巻き上がる音。それは古びた柱時計のようであり、健一自身の軋む骨の音のようでもあった。
三回巻ききった瞬間、店内の空気が黄金色に色づいた。「あなた、お茶が入ったわよ」背後から声がした。心臓が跳ねる。振り返ると、そこには十年前に死別したはずの妻、陽子が立っていた。エプロン姿で、湯気の立つ湯呑みを盆に乗せている。「……ああ」健一の声は掠れた。これは幻だ。わかっている。けれど、湯呑みを受け取った時の指先の温かさ、陽子が笑った時にできる目尻の皺、出汁の染みた割烹着の匂い。そのすべてが、残酷なほど鮮明だった。健一はこの黄金の時間に溺れた。毎晩ネジを巻いた。現実での客足が減り、常連客に「大将、最近味がぼやけてるよ」と言われても、気にならなかった。現実こそが退屈な余生で、このネジの向こう側こそが、俺の本当の人生なのだから。
だが、代償は静かに体を蝕んでいた。ある夜、いつものようにネジを巻こうとした健一は、手首に鉛が入ったような重さを感じて鍵を落とした。床に転がる音が、ひどく遠く聞こえる。鏡に映る自分の顔は、蝋細工のように青白く、目には生気がなかった。魂が、削れている。
「……それでも、いい」健一は這いつくばって鍵を拾い、再び虚空へねじ込んだ。ギリ、ギリ。現れた陽子は、いつものように微笑んではくれなかった。悲しげに眉を下げ、じっと健一を見つめている。「あなた、もう十分よ」「何がだ。俺はここにいたいんだ。お前と」「ここは『もしも』の吹き溜まり。あなたの生きる場所じゃない」陽子がそっと、健一の手を握った。幻のはずの手が、痛いほど熱い。「美味しいご飯を作って。待っている人のために」
その言葉は、かつて彼女が生前、口癖のように言っていたものだった。自分の願望が見せる幻影なら、こんなことを言うはずがない。健一はハッとした。俺は、未練という鎖で、死んだ彼女をまた縛り付けていたのか。
涙が溢れた。健一は歯を食いしばり、挿さったままの鍵を掴んだ。巻くのではない。戻すのだ。ギリリ、ギリリ、と不協和音が鳴り響く。黄金色の景色に亀裂が入り、ガラスのように砕け散っていく。「ありがとう、あなた」最後に陽子の声が聞こえ、世界は深夜の厨房に戻った。




