女神の天秤と、母の祈り(天羽詩織 視点)
私は、天羽詩織。
法廷では「最後の女神」などと、少々大袈裟な異名で呼ばれることもある弁護士です。
数多の理不尽と戦い、権力に踏み躙られた人々を救うため、私はこれまで人生を捧げてきました。私の信じる正義の天秤は、常に弱き者、虐げられた者のために傾けられるべきだと信じてきました。
しかし、そんな私にも、たった一つだけ、天秤の均衡を失わせるほどの存在があります。
それが、私の最愛の息子、奏です。
奏は、夫である征士にも、私にも似ず、驚くほど穏やかで心優しい子に育ちました。天羽家の持つ力をひけらかすことを何よりも嫌い、自らの意思で「普通」であることを望んだ、私の誇りです。私たちは、そんな息子の意思を尊重し、過度な干渉はせず、彼が彼自身の力で人生を切り拓くのを、静かに見守ってきました。
彼が花咲蕾さんという、太陽のように明るい少女を恋人として連れてきた時も、私たちは心から喜びました。奏が選んだ人ならば、と。
だから、あの日、ずぶ濡れになって帰ってきた奏が、私の前で崩れ落ちた時。私の世界から、音が消えました。
痴漢冤罪、いじめ、教師の無責任な対応、そして、信じていた恋人からの裏切り。
途切れ途切れに語られる息子の告白は、まるで鋭利なガラスの破片のように、私の心をズタズタに引き裂いていきました。
私の可愛い奏が。誰よりも優しく、争いを好まない、あの子が。
なぜ、こんな地獄のような苦しみを、たった一人で耐えなければならなかったのか。
嗚咽を漏らしながら、すべてを吐き出す息子の背中をさすりながら、私の内側で、静かに、しかしどうしようもなく激しい怒りの炎が燃え上がっていくのを感じました。
「奏、もう大丈夫よ。あなたはよく耐えたわ。……これより、法の下で正義を執行します」
私がそう告げた時、私の頭の中では、すでにいくつもの訴訟と告発の段取りが組み上がっていました。これはもはや、単なる高校生同士のトラブルなどではない。計画的な犯罪であり、悪質ないじめであり、教育現場の重大な職務放棄だ。そして何より、私の、天羽家のたった一人の息子に対する、許しがたい冒涜行為でした。
隣では、夫の征士が、彼の持つもう一つの「力」を行使し始めていました。
私の武器が「法」であるならば、彼の武器は「テクノロジー」。二つが合わされば、この国で暴けない真実など存在しない。
そして、この家にはもう一人、すべてを覆すほどの絶対的な権威を持つ存在がいます。私の義父であり、奏の祖父である、宗一郎様。
天羽家の逆鱗に触れるということが、どういうことなのか。
息子を傷つけた愚かな者たちに、骨の髄まで理解させてやる必要がありました。
弁護人として警察署に乗り込み、杜撰な捜査を徹底的に糾弾した時も。
アマテラス・システムズが暴き出した完璧な証拠を手に、メディアに情報をリークした時も。
私の心は、驚くほど冷静でした。
これは、復讐ではない。これは「正義の執行」だ。私は、法を司る者として、当然のことをしているに過ぎない。そう、自分に言い聞かせながら。
しかし、心の奥底で、私は知っていました。
もし、被害者が奏でなく、見ず知らずの誰かであったなら、私はここまで迅速に、そして徹底的に動いただろうか、と。
私の持つ正義の天秤は、今、紛れもなく奏への「愛」という重りで、大きく、大きく傾いている。
それで、いい。
いいえ、それでなくては、ならない。
母親が、自分の息子を守るために全力を尽くして、何が悪いというのでしょう。
黒瀬玲司という少年とその家族が破滅し、花咲蕾という少女とその家族が絶望の淵に立たされ、安井誠という教師が職を失ったという報告を、私は淡々と受け止めました。彼らが犯した罪と、息子が受けた心の傷を考えれば、当然の報いです。情状酌量の余地など、微塵もありませんでした。
すべてが終わり、奏が別の高校に転校し、少しずつ元気を取り戻していく姿を見て、私はようやく安堵のため息をつくことができました。
しかし、同時に、新たな不安も芽生えていました。
今回の件で、奏は天羽家の持つ「力」の存在を、嫌でも知ってしまった。彼が望んだ「普通」の日常は、もう二度と戻ってこないかもしれない。彼が、この力を恐れたり、あるいは逆にこの力に溺れたりすることはないだろうか。
そんな私の不安を、夫は見透かしたように言いました。
「詩織、心配ない。奏は俺たちの子だ。力に呑まれるほど弱くはない。それに、痛みを知った人間は、本当の意味で強くなれる。あいつは、きっと大丈夫だ」
その言葉に、少しだけ救われた気がしました。
ある日の午後、新しい学校から帰ってきた奏が、少し照れたように、でも嬉しそうに、一人の女の子の話をしてくれました。廊下でぶつかったこと、本を拾ってあげたこと、その子の瞳がとても澄んでいたこと。
その話をする奏の横顔は、事件の前よりも、少しだけ大人びて、そして強く見えました。
ああ、この子は、もう大丈夫。
夫の言う通り、痛みを知り、それを乗り越えようとしている。
私は、法廷に立つ「最後の女神」であることをやめ、ただの「母親」として、静かに祈りました。
どうか、私の愛しい息子の未来が、今度こそ、偽りのない、本当の幸せな光で満たされますように。
そして、もし再び、彼の平穏を脅かす者が現れるのなら――
その時は、何度でも。
私は、女神の仮面を被り、私の持つすべての力で、立ちはだかる全ての悪を裁くでしょう。
それが、天羽奏の母である、私の宿命なのだから。




