ガラスの靴と、灰色の現実(花咲蕾 視点)
私の恋人、天羽奏くんは、本当に優しい人だった。
怒ったところなんて見たことがないし、いつも私のことを一番に考えてくれる。彼と一緒にいる時間は、穏やかで、暖かくて、安心できた。まるで、陽だまりの中にいるみたいに。
でも、いつからだろう。その「優しさ」が、少しだけ物足りなく感じるようになったのは。
クラスの中心にいる黒瀬玲司くんみたいに、強引で、情熱的で、ちょっと悪い雰囲気がする男の子が、キラキラして見えた。奏くんとの関係は、まるで凪いだ海みたいで、刺激がなかった。
「たまには、嫉妬してくれたりとかしてもいいんだよ?」
カフェでそう言った時、奏くんは照れたように笑うだけだった。それが、奏くんの良さだって分かってる。でも、心のどこかで、もっとドラマチックな恋愛に憧れていた。お姫様みたいに、一人の男の子から情熱的に愛されたい。そんな、幼い夢を見ていた。
だから、あの日、満員電車で事件が起きた時、私の心はぐちゃぐちゃに揺れた。
黒瀬くんが、奏くんを指差して「痴漢だ」と叫んだ。奏くんの、信じられないという顔。周囲の、冷たい視線。
頭では、奏くんがそんなことをするはずがないと思おうとした。でも、黒瀬くんのあの真剣な眼差しと、泣きじゃくる被害者の女の子の姿が、私の心をかき乱す。
「……本当に?」
電話口で、思わずそう言ってしまった。
奏くんの無実を信じることよりも、周りから「痴漢の彼女」だと思われることの方が、怖かったのだ。
学校での奏くんは、まるで別人のようだった。みんなから無視され、悪口を言われ、日に日にやつれていく。彼が私に助けを求めるような視線を向けるたびに、私は目を逸らした。彼のそばにいたら、私も同じように扱われる。それが怖くて、たまらなかった。
そんな時、ヒーローみたいに現れたのが、黒瀬くんだった。
「俺が蕾ちゃんを守るから。あんな奴のこと、忘れろよ」
力強い腕で抱きしめられ、優しい言葉を囁かれて、私は簡単に彼の腕の中に落ちてしまった。傷ついた心を癒してくれる、頼もしい王子様。そう、本気で思った。奏くんにはない、強引さと情熱が、私にはとても魅力的に見えた。
雨の中、彼とキスをした時、私はこれで良かったんだと自分に言い聞かせた。穏やかだけど退屈な日常よりも、スリリングで刺激的な恋愛の方が、ずっと素敵だって。
奏くんがいなくなり、私は名実ともに黒瀬くんの彼女になった。クラスのみんなも祝福してくれて、私はまるで物語のヒロインになったような気分だった。
そう、私の人生は、ここから輝かしいものになるはずだった。
その全てが、ただの勘違いだったと気づくのに、時間はかからなかった。
テレビで流れた、衝撃的なニュース。黒瀬くんたちが、奏くんを陥れるために計画した、卑劣な痴漢冤罪のすべて。
私は、王子様だと思っていた男が、ただの卑劣な犯罪者だったことを知った。そして、私が裏切った奏くんが、完全な被害者だったことも。
世界が、ひっくり返った。
警察に呼ばれ、事情聴取を受けた。「奏くんを信じなかったんですか?」「黒瀬容疑者と、いつから交際を?」と、刑事さんから投げかけられる質問の一つ一つが、私の胸に突き刺さった。
学校での立場も一変した。昨日まで私に優しかった友達は、手のひらを返したように「あんたもグルだったんでしょ」「最低」と私を責めた。私は、痴漢の共犯者、裏切り女として、クラスで孤立した。奏くんが味わった苦しみを、今度は私が味わうことになった。
家に帰っても、地獄だった。
お父さんの会社が、大変なことになっていると聞かされた。大事な取引が、理由も分からず打ち切りになったらしい。家の空気は、鉛のように重かった。
そんな時、私はネットで、ある記事を見つけてしまった。
『天羽コンツェルン』『元最高裁長官 天羽宗一郎』『アマテラス・システムズCEO 天羽征士』。
そして、その記事に添えられていた、一枚の家族写真。そこに写っていたのは、私が知っている、あの優しい笑顔の奏くんだった。
理解が、追いつかなかった。
あの、地味で、普通で、物静かだった奏くんが?日本を動かすような、とんでもない家系の御曹司?
頭を鈍器で殴られたような衝撃。
もし、もしも私が、このことを知っていたら。
私は絶対に、奏くんを裏切ったりしなかった。彼を信じ、彼のそばにいたはずだ。そうすれば、私は今頃、誰もが羨む本物の「お姫様」になれていたのに。
私が手放したのは、ただの優しい彼氏じゃなかった。誰もが夢見る、ガラスの靴そのものだったんだ。
私は、いてもたってもいられず、奏くんの家へと走った。
もう一度。もう一度やり直したい。私が選ぶべきだったのは、偽物の王子様じゃなくて、本物の王子様だったのだと、伝えなければ。
「ごめんなさい!奏くんがそんな凄い家の人だって知ってたら、私、絶対に裏切ったりしなかった…!」
泣きながら、土下座して、必死に謝った。
でも、私の前に立つ奏くんは、もう私の知っている彼ではなかった。その瞳は、絶対零度の氷のように冷たく、私を憐れむ色さえ浮かんでいなかった。
「君が好きだったのは、『僕』じゃなかったんだね」
その言葉が、私の心臓を抉った。
違う、そんなつもりじゃ……。そう言いたかったのに、声が出なかった。彼の言う通りだったから。私は、奏くん自身を見ていなかった。ただ、「私の彼氏」という役割を彼に押し付けて、自分の都合のいいように見ていただけだった。
玄関のドアが、無慈悲に閉められる。
その瞬間、私は、自分が人生で最大の過ちを犯したことを、骨の髄まで理解した。
全てを失った。
友達も、恋人も、家族の幸せも、そして未来も。
灰色の現実だけが、目の前に広がっている。
もし、あの時、損得勘定なんかじゃなく、ただ、彼の「信じてくれ」という一言を、信じてあげられていたら。
でも、もう遅い。
ガラスの靴は、私の目の前で粉々に砕け散った。
シンデレラにさえなれなかった私は、ただ、降り注ぐ絶望の灰を被ることしかできないのだった。




