平穏という名の砂上の城(担任教師 視点)
私、安井誠は、教師という職業を「安定した公務員」の一つとして選んだ。
熱血でもなければ、理想に燃えているわけでもない。生徒一人一人に深く寄り添うなんて、面倒なだけだ。私が求めるのは、定時で帰宅し、趣味の釣りに出かけ、何事もなく日々が過ぎていく「平穏」な毎日。それだけだった。
だから、クラスで起きる些細なトラブルは、私の平穏を脅かすノイズでしかなかった。いじめの芽、生徒間の恋愛のもつれ。そういうものは、見て見ぬふりをするか、適当なことを言って丸く収めるのが一番だ。事を荒立てて、保護者が出てきたり、学年主任に報告が上がったりする方がよほど面倒くさい。
二年三組は、比較的扱いやすいクラスだった。黒瀬玲司という分かりやすいリーダーがいて、彼がクラスを牛耳ってくれている。細かい統制は彼に任せておけば、クラスはそれなりにまとまる。多少、素行の悪さが目につくこともあったが、大きな問題を起こさない限りは黙認していた。それが、私のやり方だった。
そんな私の平穏が、少しだけ揺らいだ日があった。
生徒の一人、天羽奏が痴漢の容疑で警察沙汰になったのだ。
「面倒なことになったな」
それが、私の最初の感想だった。天羽は、普段から物静かで手のかからない生徒だった。良くも悪くも、印象が薄い。そんな生徒が、なぜ。
翌日から、クラスの雰囲気は一変した。黒瀬が中心となって、天羽へのあからさまないじめが始まった。もちろん、気づいていた。気づかないわけがない。だが、私は深く関わろうとしなかった。黒瀬に逆らって、クラスの秩序を乱す方が厄介だ。それに、警察沙汰になった天羽にも、何かしら原因があったのだろう。
「先生、助けてください」
ある日の放課後、天羽が私のところに相談に来た。その顔は青ざめ、精神的にかなり追い詰められているのが分かった。しかし、私はここで彼に肩入れするわけにはいかなかった。
「天羽、まあ、色々あったのは分かるが……君にも原因があったんじゃないのか?火のない所に煙は立たないと言うだろう。クラスの皆と、もう少しうまくやっていく努力をしなさい」
私は、用意していた模範解答のような言葉を並べた。要するに、「自分で何とかしろ」「私を巻き込むな」ということだ。私の言葉を聞いた天羽の顔から、すうっと表情が消えていくのが分かった。その瞳の奥に宿った深い絶望の色を、私は見ないふりをした。
これでいい。これで、面倒ごとは一つ片付いた。私の平穏は守られた。そう、安堵した。
天羽が学校に来なくなっても、私は特に何も感じなかった。むしろ、問題の種が一つ消えて清々したとさえ思った。クラスの雰囲気も元に戻り、私の日常は再び「平穏」を取り戻した。私は、自分の築いた砂上の城の上で、胡坐をかいていたのだ。その城の土台が、すでに足元から崩れ始めていることにも気づかずに。
運命の日。
それは、いつもと変わらない、退屈な朝のホームルームが終わった直後のことだった。
教室のドアが開き、見知らぬスーツ姿の男女が数人、入ってきた。ただならぬ雰囲気に、クラスが静まり返る。その後ろには、顔面蒼白の校長が立っていた。
「文部科学省の者です。二年三組担任、安井誠先生ですね?」
男が、私の名前を呼んだ。心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。文部科学省?なぜ、こんなところに?
「あなたには、生徒間の重大ないじめ事案に対する監督責任の放棄、及び隠蔽の疑いがあります。詳しいお話を伺いますので、こちらへ」
頭が真っ白になった。
いじめ?隠蔽?何のことだ?ああ、天羽のことか。だが、なぜ今更。なぜ、文科省が直々に?
訳が分からないまま、私は彼らに両脇を固められ、教室から連れ出された。生徒たちの好奇と、どこか嘲るような視線が背中に突き刺さる。屈辱だった。
特別に用意された応接室で、私は厳しい追及を受けた。
「あなたは、天羽奏くんへのいじめを認知していましたね?」
「なぜ、適切な対応を取らなかったのですか?」
「『君にも原因があったんじゃないか』。これは、教育者としてあるまじき発言です。被害者をさらに追い詰める、二次加害に他ならない」
私は必死で言い訳をした。
「いや、あれは生徒同士の些細なからかいで……」
「私なりに、クラスの和を保とうと……」
しかし、監査官の男は、私の言葉を冷たく遮った。
「言い訳は結構。我々はすべて把握しています。天羽くんが、痴漢冤罪の被害者であったことも含めてね」
冤罪?
その言葉が、頭の中で反響した。天羽は、やっていなかった?
では、黒瀬が嘘を?クラス全員が、一人の無実の人間を?そして私は、その片棒を担いでいた?
目の前が、真っ暗になった。
監査官は、一枚の書類を私の前に置いた。
「安井誠先生。あなたには、本日をもって懲戒免職処分が下されます。教員免許の剥奪も視野に、審査委員会が開かれるでしょう。あなたの教員人生は、本日、ここで終わりです」
懲戒免職。
その言葉が、現実のものとして理解できなかった。嘘だ。こんなこと、あるはずがない。私はただ、自分の平穏を守りたかっただけなのに。
「ど、どうしてこんなことに……。一人の生徒の問題で、なぜ国が動くんですか……!おかしいでしょう!」
半狂乱で叫ぶ私に、監査官は憐れむような、それでいて冷え切った目で言い放った。
「あなたは、自分が誰の逆鱗に触れたのか、まだ理解できていないようですね」
彼は、一枚のメモをテーブルの上に滑らせた。そこには、ただ二つの名前が書かれていた。
『天羽 宗一郎』
『天羽 征士』
その名前を見た瞬間、私は呼吸の仕方を忘れた。
天羽……宗一郎?あの、元最高裁長官の?天羽……征士?日本のITインフラを牛耳る、アマテラス・システムズの?
まさか。まさか、あの地味で物静かな生徒が?
全身の力が抜け、椅子から崩れ落ちた。
私は、ただの生徒を追い詰めたのではなかった。この国の司法と経済を裏から動かす、巨大すぎる権力そのものの、最愛の宝物に手を出してしまったのだ。
ああ、そうか。
天羽が助けを求めてきた時、彼の瞳の奥にあったのは、単なる絶望ではなかった。あれは、私という人間に対する、最後の「見極め」だったのだ。この教師は、自分を救う価値のある人間か、それとも切り捨てるべき無能な存在か。そして私は、そのテストに、見事に落第した。
平穏。私が何よりも望んだそれ(・・)は、脆い砂の上で築いた城だった。そして、その砂の持ち主が誰なのかを知ろうともせず、私はその上でふんぞり返っていたのだ。
すべてを失った今、独房のように静かな自宅の一室で、私は何度も考える。
もし、あの時、私がほんの少しでも「教師」であろうとしていたら。
もし、天羽奏という一人の生徒の声に、真摯に耳を傾けていたら。
私の人生は、こんな形で終わりを迎えることはなかったのだろうか。
だが、もう遅い。
私の耳には、あの日の天羽の、表情の消えた顔と、教室から連れ出される私を嘲笑うかのように見ていた生徒たちの視線が、罪の残響として、いつまでも、いつまでも鳴り響いている。




