沈黙の教室、罪の残響(クラスメイト 視点)
私の名前は三田村結衣。
このクラス――私立翠城学院高等部二年三組という小さな世界で、私は「その他大勢」の一人だった。特に目立つわけでもなく、かといっていじめられるわけでもない。数人の友達とグループを作り、流行りのスイーツの話をしたり、好きなアイドルの話をしたりして、波風の立たない毎日を過ごす、ごく普通の女子高生。
私たちのクラスには、絶対的な王様がいた。黒瀬玲司くんだ。
彼はかっこよくて、面白くて、クラスの中心だった。彼が「白」と言えばカラスでさえ白くなる。そんな空気が、この教室には確かにあった。だから、黒瀬くんが天羽奏くんのことを嫌っているのは、誰の目にも明らかだった。
天羽くんは、黒瀬くんとは正反対の人間だった。静かで、地味で、いつも一人で本を読んでいるような人。そんな彼があの可愛い花咲蕾さんと付き合っているのは、正直、クラスの七不思議の一つみたいに言われていた。
あの日、天羽くんが痴漢で捕まったという噂が流れた時、私は一瞬だけ「え、本当に?」と思った。あの物静かな天羽くんが、そんなことをするようには見えなかったから。でも、その考えはすぐに吹き飛んだ。
「俺、この目で見たんだよ。あいつがやったのを」
教室の真ん中で、黒瀬くんがそう断言したからだ。王様の言葉は、絶対だ。それに逆らうなんて、考えられもしなかった。周りの友達も「うわ、最悪」「天羽くんってキモいと思ってたんだよね」「花咲さん、可哀想」と口々に言い始めた。その空気に逆らうのは怖い。だから私も、頷いた。心の中の小さな疑問に蓋をして、「そうだよね、可哀想」と呟いた。
それから、天羽くんへのいじめが始まった。
机の落書き、教科書がなくなる、無視。最初は見て見ぬふりをした。そのうち、友達と一緒になって、彼が廊下を歩いている時にわざと聞こえるように「痴漢だ」と囁いたりもした。直接手は下していない。ただ、周りに合わせただけ。関わって、こっちが面倒なことになるのは嫌だったから。
天羽くんが助けを求めるように私の方を見たことがあった。でも、私はすぐに目を逸らした。怖かったのだ。ここで彼に同情的な態度を見せたら、次のターゲットは自分になるかもしれない。そう思うと、身体が竦んだ。ごめんなさい、と心の中で呟いて、私は彼を見捨てた。
やがて天羽くんは学校に来なくなり、担任の安井先生は「家庭の事情だ」とだけ言った。私たちは「やっと消えたね」と安堵した。そして、黒瀬くんと花咲さんが付き合い始めた時も、「やっぱりね」「お似合いじゃん」と祝福ムード一色だった。これで、私たちの教室は元通りの平和を取り戻したんだと、本気で思っていた。
その「平和」が、ガラス細工のように脆いものだったと知ったのは、本当に突然のことだった。
ある日のホームルーム後。スーツ姿の大人たちが何人も教室に入ってきて、安井先生を連れて行った。「いじめの隠蔽」という、聞いたこともないような重い言葉を残して。教室の空気が、今まで感じたことのないほど冷たく凍りついたのを覚えている。
「ねえ、いじめって……私たちのこと?」
「でも、私たちは直接何もしてないし……黒瀬くんたちがやったんじゃん」
友達と小声で囁き合う。そうだ、私たちは悪くない。悪いのは主犯の彼らだ。私たちは、ただ空気に従っただけ。そう自分に言い聞かせた。
でも、本当の恐怖は、その日の夜にやってきた。
何気なく見ていたテレビのニュースで、見慣れた駅の映像が流れた。そして、『悪質な高校生グループによる計画的痴漢冤罪事件』というテロップ。画面には、黒瀬くんたちが天羽くんを罠にハメる生々しいやり取りが映し出されていた。
『天羽マジうぜぇから、これで完全に終わらせてやる』
そのメッセージを見た瞬間、全身の血の気が引いた。
天羽くんは、やっていなかった。彼は、無実だった。
私たちは、無実の人間を、集団で寄ってたかって追い詰めていたのだ。
グループLINEは、大パニックになった。
『どうしよう、私たちも罰せられるの!?』
『私は何もしてない!見てただけ!』
『あんただって陰口言ってたじゃん!』
誰もが罪をなすりつけ合い、自分の無実を叫ぶ。さっきまでの友情なんて、どこにもなかった。
その夜、家に帰ると、リビングで待っていた両親に「学校から電話があった」と告げられた。いじめへの加担について、詳しい話を聞きたい、と。
「結衣、お前、一体何をしたんだ!」
父の怒鳴り声。母の泣きそうな顔。
私は、泣きながら言い訳した。
「私じゃない!私は何もしてない!みんながやってたから、私も合わせないと仲間外れにされると思って……!怖かったの!」
でも、父の目は冷たかった。
「みんながやってるから?それで、一人の人間が傷つけられていいという理由になるのか。お前は、自分の頭で考えることを放棄したんだ。それも立派な、罪だ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
結局、黒瀬くんたちは逮捕され、花咲さんも学校を辞めた。積極的にいじめをしていた子たちは、停学や退学などの重い処分を受けた。
私たち「傍観者」も、無傷ではいられなかった。内申書にはこの一件が記録され、大学の推薦を取り消された子もいた。私たちの未来に、一生消えない傷がついたのだ。
がらんとした教室は、まるで墓場のようだった。誰もがお互いを疑い、非難し合う。かつての王様はいなくなり、残されたのは、罪の意識と恐怖に怯える、卑しい家臣たちだけ。
私は時々、天羽くんのことを思い出す。
たった一人で、教室中の敵意に耐えていた彼の、あの静かな瞳を。助けを求めていた彼から、私が目を逸らした、あの瞬間を。
もし、あの時、たった一言でも「大丈夫?」と声をかけていたら。もし、ほんの少しでも、自分の心の声に従う勇気があったなら。
彼は、別の高校に転校したと聞いた。もう二度と会うことはないだろう。彼に謝る機会さえ、私たちには与えられない。
それが、私たちが犯した罪の、一番重い罰なのかもしれない。
この教室に残ったのは、崩壊した人間関係と、修復不可能な後悔の念。そして、「自分はただの傍観者だった」という、一生背負っていく罪の残響だけだった。




