王様の椅子と、崩壊の序曲(黒瀬玲司 視点)
俺、黒瀬玲司の世界は、いつだって俺を中心に回っていた。
恵まれた容姿、サッカー部でのエースという立場、そしてそこそこの会社の社長である親父の威光。それらがあれば、欲しいものは大抵手に入ったし、邪魔な人間は簡単に排除できた。クラスという小さな王国で、俺は紛れもない王様だった。
だから、天羽奏という男が、どうしようもなく気に食わなかった。
特に目立つわけでもなく、いつも静かに本を読んでいるような退屈な男。そんな奴が、クラスで一番可愛い花咲蕾と付き合っている。それが、俺の築き上げた世界の秩序を乱す、不快なバグのように思えた。蕾は俺の隣にこそ相応しい。俺という王様の隣に立つべきクイーンなのだ。
「優しさ」?「安心感」?
そんなものは、力のない負け犬が自分を慰めるための言い訳だ。女が本当に求めているのは、分かりやすい強さと情熱に決まっている。天羽のあの腑抜けた顔を見ているだけで、苛立ちが募った。
だから、計画した。
少し悪知恵の働く仲間と、金で動く女を使えば、あんな奴を社会的に抹殺することなど容易い。満員電車で実行したのは、誰が本当の犯人かなんて分かりようがないからだ。俺が「見た」と言えば、それが真実になる。この教室では、俺の言葉が法なのだから。
計画は完璧に成功した。
痴漢のレッテルを貼られた天羽は、あっという間にクラスの除け者になった。俺が少し焚きつければ、愚かなクラスメイトたちは喜んでいじめに加担した。皆、強い者に従い、弱い者を叩くのが好きなのだ。俺は「痴漢から蕾を守ったヒーロー」として、さらに株を上げた。すべてが、最高に愉快だった。
そして、俺の狙い通り、蕾は傷つき、俺に寄りかかってきた。
「もう無理だよ……奏くんのこと、信じられない……」
そう言って俺の胸で泣く彼女を抱きしめながら、俺は勝利を確信した。天羽が大切にしていた宝物は、今、この俺の腕の中にある。
雨が降る放課後、校舎の裏で蕾にキスをした時、全身を駆け巡ったのは、純粋な征服感だった。濡れた唇の感触、俺の腕の中で震える彼女の身体。これでようやく、すべてのピースが正しい場所に収まった。天羽奏という不快なバグは、完全にデリートされたのだ。
「俺が、蕾ちゃんを守るから」
そう囁くと、彼女はこくりと頷いた。ああ、なんて可愛いんだろう。やっぱり、お前は俺の隣が一番似合う。
その後の数日、天羽は学校に来なくなった。
「ビビって逃げたんだろ、ダッセェの」
仲間たちと笑い合い、俺はもう天羽のことなど意識から消し去ろうとしていた。終わった人間のことなど、どうでもいい。
異変の最初の兆候は、本当に突然やってきた。
朝のホームルームが終わった直後、教室のドアが開き、スーツを着た男女が数人、厳しい顔つきで入ってきたのだ。校長と教頭が、見たこともないほど萎縮してその後ろに続いている。
「文部科学省の者です。二年三組担任、安井誠先生ですね?」
中心に立つ男の言葉に、安井は「は、はい?」と間の抜けた声を上げた。何が何だか分からないという顔をしている。俺も、クラスの奴らも、ただ呆然とその光景を見ていた。
「あなたには、生徒間の重大ないじめ事案に対する監督責任の放棄、及び隠蔽の疑いがあります。詳しいお話を伺いますので、こちらへ」
有無を言わさぬ口調。安井は顔面蒼白になり、まるで罪人のように連行されていった。教室が、ありえないほどの静寂に包まれる。「いじめ」という言葉に、何人かのクラスメイトがびくりと肩を震わせた。俺は、胸の中に小さな、しかし冷たい棘が刺さったような不快感を覚えた。
なんだ?何が起きている?
その日の夕方。家に帰ってテレビをつけた俺は、我が目を疑った。
『悪質な高校生グループによる計画的痴漢冤罪事件』
そんなテロップと共に、ニュースキャスターが深刻な顔で原稿を読んでいる。画面に映し出されたのは、俺たちが電車で計画を実行している瞬間の、信じられないほど鮮明な防犯カメラの映像だった。俺が被害者役の女と目配せしている顔まで、はっきりと分かる。
さらに、俺と仲間がスマホでやり取りしたメッセージが、そのまま画面に映し出された。
『天羽マジうぜぇから、これで完全に終わらせてやる』
『蕾ちゃんは俺がいただくわw』
血の気が引いた。背筋が凍りつく。ありえない。こんなこと、あるはずがない。削除したはずのデータだ。画質の悪い防犯カメラのはずだ。なぜ、こんなものが。
その瞬間から、俺のスマホが狂ったように鳴り始めた。SNSには、俺の顔写真と実名が晒され、『死ね』『クズ』『人間のゴミ』という罵詈雑言の嵐が吹き荒れていた。非通知の着信が、一秒おきに画面を震わせる。恐怖で身体が動かなかった。
「玲司ッ!!」
親父が、鬼のような形相でリビングに飛び込んできた。
「お前、一体何をしたんだ!取引先から、一斉に契約を切るって連絡が来てるんだぞ!メインバンクからも融資の停止を言い渡された!会社が……会社が潰れる!」
親父の悲鳴のような声を聞きながら、俺はただ震えていた。
その時、玄関のインターホンが鳴った。モニターに映っていたのは、制服を着た警察官の姿だった。
ああ、終わった。
すべて、終わったんだ。
パトカーの後部座席に乗せられ、ゆっくりと遠ざかっていく自宅を眺めながら、俺の頭は混乱の極みにあった。
何がいけなかった?どこで間違えた?計画は完璧だったはずだ。
その時、脳裏にふと、天羽奏のあの静かな顔が浮かんだ。
いつも穏やかで、何を考えているか分からないような、あの顔。俺はそれを「弱さ」だと、「つまらなさ」だと見下していた。だが、もし違ったら?もし、あれが、俺のような矮小な存在など気にも留めない、圧倒的な強者の持つ「余裕」だったとしたら?
パトカーの窓から、一台の黒塗りの車が通り過ぎるのが見えた。後部座席に座っていたのは、白髪の老人だった。一瞬だけ目が合った気がした。その老人の瞳は、まるで深淵のように深く、俺の魂の底まで見透かすような、絶対的な威厳に満ちていた。
俺は、自分が誰に手を出してしまったのかを、その時、ようやく理解した。
冷たいコンクリートの壁に囲まれた、狭い部屋。
鉄格子の嵌った窓から見える空は、どこまでも灰色だった。
俺は、たった一つの椅子を奪おうとしただけだ。俺にこそ相応しい、王様の隣にあるべきクイーンの椅子を。そのために、邪魔な男を排除しようとした。ただ、それだけだったのに。
なぜ、俺の人生は、すべて破壊されてしまったんだ?
天羽奏。
あいつは、王様なんかじゃなかった。
王様を、国ごと、世界ごと、指先一つで消し去ることができる、神様のような存在だったんだ。
俺は、神様に喧嘩を売った、愚かな虫けらだったのだ。
後悔、というにはあまりにも重すぎる絶望が、俺の全身を支配する。もし、あの時、あいつに手を出さなければ。もし、あの時、蕾に関わらなければ。意味のない「もし」が、頭の中でぐるぐると回り続ける。
だが、もう遅い。
俺の王国は崩壊し、王様だった俺は、今や地の底以下の囚人だ。
あの静かな男の顔が、嘲笑うかのように瞼の裏に焼き付いて、離れない。




