第四話 さよなら、偽りの愛だった君へ
反撃のコンチェルトが奏でられてから数日後、俺を取り巻く世界は嘘のように静けさを取り戻していた。いや、正確には、俺がいた世界そのものが、音を立てて崩壊し、更地になったというべきだろう。
黒瀬玲司とその計画に加担した仲間たちは、強要罪、名誉毀損、偽証など、複数の容疑で警察に逮捕された。未成年とはいえ、計画性の高い悪質な犯行と判断され、彼らが少年院送致となるのはほぼ確実だと母は言っていた。
しかし、彼らへの本当の罰は、そこから始まった。
黒瀬の父親が経営していた中小企業は、一夜にして地獄に突き落とされた。主要な取引先が、まるで示し合わせたかのように一斉に契約を打ち切ってきたのだ。その中には、父の会社「アマテラス・システムズ」はもちろん、祖父と繋がりのある政財界の重鎮たちが影響力を持つ、数多の大企業が含まれていた。会社の資金繰りは瞬く間にショートし、手形の不渡りを起こして、あっけなく倒産。一家は多額の負債を抱え、世間の非難と債権者の追及から逃れるように、夜逃げ同然に街から姿を消したという。
そして、花咲蕾もまた、無関係ではいられなかった。
彼女は事件の直接の計画犯ではなかったため逮捕は免れたが、重要参考人として警察から何度も事情聴取を受けた。その過程で、彼女が俺の無実の訴えを無視し、黒瀬側に立って俺に不利な証言を周囲に吹聴していたこと、そして事件の直後に黒瀬と交際を始めていたことなどが、すべて明るみに出た。
ネットでは「痴漢冤罪の片棒を担いだ裏切り女」「悲劇のヒロインぶってた悪女」として、彼女の個人情報や写真も容赦なく拡散された。凄まじいデジタルリンチ。彼女は学校にも来られなくなり、家に引きこもるしかなくなった。
さらに、彼女の父親が勤めていた中堅の商社も、天羽家の見えざる手から逃れることはできなかった。アマテラス・システムズとの間で進んでいた大型の共同プロジェクトが、何の説明もなく白紙撤回されたのだ。会社は莫大な損害を被り、その責任を問われる形で、蕾の父親は懲戒解雇処分となった。信用も、職も、未来も、すべてを失った花咲家は、絶望の淵に立たされた。
そんなある日の夕暮れ時。
俺が自室で静かに本を読んでいると、インターホンが鳴った。母さんが応対に出たが、何やら揉めているようだった。しばらくして、母さんが俺の部屋に入ってきた。
「奏、花咲さんが来ているわ。あなたに会って、どうしても謝りたいと聞かなくて……どうする?」
俺は読んでいた本を静かに閉じ、立ち上がった。
「……会うよ。ここで、すべてを終わらせるために」
玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは、変わり果てた姿の蕾だった。華やかだった面影はなく、やつれきった顔で、焦点の合わない目をしている。俺の顔を見るなり、彼女はその場に崩れ落ち、アスファルトに額をこすりつけた。
「ごめんなさい……!ごめんなさい、奏くん……!」
泣きじゃくりながら、彼女は何度も何度も頭を下げた。
「私、知らなかったの……!奏くんが、そんな……天羽コンツェルンのご子息だったなんて……!元最高裁長官のお孫さんで、アマテラス・システムズの社長さんの息子さんだって、知ってたら……!私が、私が奏くんを裏切るわけないじゃない……!信じてたに決まってるじゃない!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の心は完全に凪いだ。
ああ、やはりそうか。
この期に及んでも、彼女が口にするのは、俺自身への謝罪ではなく、俺の「背景」を知らなかったことへの後悔だけ。俺を信じなかった理由が、俺が「普通」だったからだと、自ら証明してくれた。
「だからお願い……!もう一度……もう一度だけ、チャンスをください!奏くんの力で、うちの家族を助けて!お父さんの会社を元に戻して!お願いだから……!そしたら私、一生奏くんのそばにいるから!何でもするから!」
その浅ましい命乞いに、俺の中に残っていた最後のかすかな憐憫さえも消え失せた。
俺は、氷のように冷たい視線で、地面に這いつくばるかつての恋人を見下ろした。
「顔を上げて、花咲さん」
俺が彼女の名字を呼んだことに、彼女はびくりと体を震わせ、おそるおそる顔を上げた。その涙に濡れた瞳に、懇願の色が浮かんでいる。
「君が好きだったのは、『僕』じゃなかったんだね」
静かに、しかしはっきりと告げる。
「君が好きだったのは、君のわがままを聞いてくれて、君のステータスを傷つけない、都合のいいだけの『普通の彼氏』だったんだ。そして今、君がすがりついているのは、君の窮地を救ってくれるかもしれない、権力者の家の『天羽奏』だ。そこには、ただの高校生だった俺への想いなんて、一片も存在しない」
俺の言葉に、蕾ははっと息を呑み、顔から血の気が引いていく。
「僕の家がどうとか、もう関係ないんだよ。大事なのは、たった一つ。僕が心の底から『信じてくれ』と叫んだ時、君は僕を信じなかった。ただそれだけだ。君が信じなかった僕も、君を信じていた僕も、もうどこにもいないんだ」
俺は彼女に背を向け、静かに玄関のドアを閉めた。
「さようなら、花咲さん」
ドアの向こうから、絶望に満ちた慟哭が聞こえてきたが、俺の心が揺らぐことは、もう二度となかった。偽りの愛に、別れを告げた瞬間だった。
数ヶ月後。
俺は翠城学院を退学し、別の高校に転校していた。
天羽家の力を借りてしまったことへの葛藤がなかったわけではない。でも、父さんは言った。「力は、使うべき時に正しく使ってこそ意味がある。何より大切な家族を守るために力を使うのは、父親として、一人の人間として当然の責務だ」と。祖父も、「お前が経験した痛みは、いずれ人の痛みが分かる、本当の意味で強い男になるための礎となるだろう」と笑ってくれた。
俺は、初めて本当の意味で家族の愛情を知った気がした。
新しい学校での生活は、驚くほど平穏だった。前の学校での事件は、天羽家の力によって報道規制が敷かれ、俺のプライバシーは完全に守られていた。誰も俺の過去を知らない。俺はまた、「普通の高校生」として、新しい一歩を踏み出していた。
ある日の昼休み。
ざわめく廊下を歩いていると、角を曲がったところで、誰かとどんと肩がぶつかった。
「わっ!」
「あっ、すみません!」
相手の女の子が持っていた本が、ぱらぱらと床に散らばる。俺は慌ててそれを拾い集めた。
「ごめんなさい、前を見てなくて。大丈夫ですか?」
そう言って手を差し伸べてきた彼女の顔を、俺は初めて見た。
派手さはないけれど、知的で、澄んだ瞳をした少女だった。その瞳には、嘘や計算の色がない。ただ、純粋な心配の色だけが浮かんでいた。
「いえ、こちらこそすみません。はい、どうぞ」
拾い集めた本を手渡すと、彼女は「ありがとうございます」と柔らかく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、俺の心に、凍てついていた何かが、ふわりと溶けていくような不思議な感覚がした。
「俺は天羽奏。よろしく」
気づけば、俺は自然に自己紹介をしていた。
彼女は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに微笑み返した。
「私は白石栞です。こちらこそ、よろしくね、天羽くん」
忌まわしい過去は、決して消えないだろう。
でも、それを乗り越えて、前を向くことはできる。
本当の痛みを知ったからこそ、本当の優しさを知ることができる。
奏でることをやめていた俺の心が、今、新しい楽譜の最初のページを開こうとしていた。
俺の、本当の物語がここから始まる。
そんな確かな予感を胸に、俺は彼女に向かって、心からの笑顔で頷き返した。




