第三話 反撃のコンチェルト――裁きの時は来た
俺が心身の疲労から深い眠りに落ちていた、ほんの数十時間。
その間に、水面下では世界が根底からひっくり返るほどの、激しい潮流が生まれていた。俺が守ろうとした「普通の日常」とは隔絶された、天羽家の本当の力が、静かに、しかし圧倒的な規模で動き始めていたのだ。
最初に動いたのは、母・詩織だった。
翌日の朝、俺がまだ自室で眠っている頃、彼女は一人の弁護士として、俺が連行された警察署に姿を現した。トレードマークの白いスーツに身を包み、背筋を凛と伸ばして受付カウンターに立つ。その姿を見た若い警察官は、面倒なクレーマーか何かだと思ったのだろう。ぞんざいな態度で応対した。
「はい、なんでしょうか。お忙しいので手短にお願いします」
「先日、こちらの署で私立翠城学院の生徒、天羽奏くんを痴漢の容疑で任意聴取されましたね。彼の弁護人として参りました、天羽詩織と申します」
母が静かに名刺を差し出した瞬間、その場にいた警察官たちの顔色が変わった。『弁護士法人ステラ 代表 天羽詩織』。その名前を知らない法曹関係者はいない。数々の冤罪事件を覆し、権力の不正を暴いてきた人権派のカリスマ弁護士。「法廷の最後の女神」の異名を持つ彼女の登場に、署内の空気は一瞬にして凍り付いた。
奥から慌てて出てきた署長クラスの幹部は、滝のような冷や汗を流しながら母を応接室へと通した。
「これはこれは、天羽先生!まさか先生自らいらっしゃるとは……」
「私の息子が、不当な扱いで心に深い傷を負わされたと聞いております。早速ですが、昨日の聴取記録、及び関連するすべての捜査資料を開示していただきたい。それと、駅の防犯カメラ映像は確保されていますわね?」
母の口調は穏やかだったが、その瞳は一切の妥協を許さない光を宿していた。俺の曖昧な供述と、黒瀬たちの証言だけで安易に捜査を進めていた警察官たちは、顔面蒼白になる。杜撰な初動捜査、誘導尋問まがいの聴取。それらがすべて、この「最後の女神」によって白日の下に晒される恐怖に震え上がった。母は彼らの動揺を見透かすように、一つ一つの矛盾点を冷静かつ的確に指摘し、即時の徹底的な再捜査を強く、強く要求した。
その頃、都心にそびえ立つ超高層ビルの最上階。
父・征士が率いる巨大IT企業「アマテラス・システムズ」の心臓部では、非常招集されたトップクラスの技術者たちが、スクリーンに映し出された膨大なデータと格闘していた。
「CEO直々の特命だ!あらゆる手段を講じろ!ターゲットは黒瀬玲司、及びその周辺人物。通信記録、SNS、位置情報、金の流れ、隠された個人情報、過去の犯罪歴に至るまで、デジタル空間に存在するすべてを洗い出すんだ!」
プロジェクトリーダーの檄が飛ぶ。ここは、日本の通信インフラやサイバーセキュリティを一手に担う、影の国家機関とも言うべき場所。彼らが「ホワイトハッカー」と呼ばれるのは、その絶大な力を、あくまで法の範囲内で、国の秩序を守るために使うからだ。だが今回、彼らの敬愛するCEOの逆鱗に触れた愚か者に対しては、その力の行使に一切の遠慮はなかった。
まず、事件当日の満員電車の防犯カメラ映像が、軍事レベルの超解像度化技術によって解析された。ノイズまみれの不鮮明な映像は、まるで映画のワンシーンのようにクリアになる。そこには、俺が電車に乗り込む前から、黒瀬が仲間らしき数人と、そして被害者役の女とアイコンタクトを取り、立ち位置を確認し合っている様子がはっきりと映っていた。俺が背後から押された瞬間、女がわざとらしく叫び、黒瀬がすぐさま俺を指差すまでの連携は、完璧に計算された「演技」であることを何よりも雄弁に物語っていた。
さらに、データ復元チームは、黒瀬たちのスマートフォンから過去に削除されたメッセージアプリのやり取りを完全に復元した。
『例の件、明日の放課後決行な』
『天羽マジうぜぇから、これで完全に終わらせてやる』
『蕾ちゃんは俺がいただくわw』
『被害者役のミカ、報酬は弾むからちゃんと泣けよ』
痴漢冤罪を計画した生々しいやり取り。報酬の約束。そして、蕾を手に入れるという卑劣な動機。すべての証拠が、デジタルの刻印として、揺るがしようのない形でそこにあった。
そして、とどめの一撃は、静かに、しかし最も重く振り下ろされた。
離れの屋敷で朝の茶をすすっていた祖父・宗一郎は、一本の電話をかけた。相手は、旧知の仲である文部科学省の事務次官。日本の教育行政のトップに立つ男だ。
「やあ、田中君、久しぶりだね。朝からすまない」
『宗一郎先生!とんでもない!こちらこそ、ご無沙汰しております。どうかなさいましたか?』
受話器の向こうで、恐縮しきった様子の事務次官の声が響く。
「いや、大したことではないんだがね。私の孫が、私立翠城学院というところにお世話になっていてね。どうも、その学校で、いじめの隠蔽があったと耳にしてね。教師が生徒を守るどころか、一緒になって追い詰めるような、実に嘆かわしい事案だそうじゃないか。最近の教育現場というのは、そこまで腐敗してしまったのかねぇ」
祖父の口調は、どこまでも穏やかだった。だが、その言葉に込められた意味を、事務次官が理解しないはずがない。元最高裁判所長官にして、今なお政財界に絶大な影響力を持つ日本のフィクサー、天羽宗一郎。その最愛の孫が、理不尽ないじめに遭っている。これは単なる一個人の訴えではない。国家を揺るがしかねない、重大な警告だった。
『……承知いたしました。先生のお手を煩わせるようなことがあってはなりません。直ちに、最高レベルの調査団を派遣いたします』
電話が切られてから、わずか数時間後。
翠城学院には、文部科学省と教育委員会からなる物々しい雰囲気の特別監査チームが乗り込んできた。彼らは校長や教頭を通り越し、真っ先に二年三組の担任、安井誠のもとへ向かった。
「安井先生、あなたには生徒間のいじめを認知しながら、適切な対応を怠り、事実を隠蔽した疑いがあります。詳細にお話を伺いたい」
突然の査察に、安井は狼狽した。いつものように「まあまあ、大したことでは…」と言い訳しようとしたが、監査官の鋭い眼光に射抜かれ、言葉に詰まる。彼の事なかれ主義、無責任な対応、いじめの隠蔽体質は、用意された数々の証拠と共に徹底的に追及され、彼はなすすべもなく崩れ落ちた。
時を同じくして、母・詩織は、アマテラス・システムズから提供された完璧な証拠一式を、懇意にしている大手報道機関にリークした。
『悪質な高校生グループによる計画的痴漢冤罪事件、その卑劣な手口とは』
『ヒーローを演じた主犯格、裏の顔は…』
衝撃的な見出しと共に、黒瀬たちの計画したメッセージのやり取りや、高解像度化された防犯カメラのキャプチャー画像が、夕方のニュース番組で大々的に報じられた。
ネットの世界は、一瞬で燃え上がった。
匿名掲示板やSNSでは、驚異的な速さで黒瀬玲司の顔写真、氏名、学校名が特定され、拡散されていく。彼のSNSアカウントは、非難と罵詈雑言の嵐で埋め尽くされ、過去の悪事を暴露する投稿も次々と現れた。まさにデジタルタトゥーという名の、決して消えない烙印が、彼の人生に刻み込まれた瞬間だった。
学校は完全に機能不全に陥った。問い合わせの電話が鳴りやまず、校門の前には報道陣が詰めかける。安井は即日、懲戒免職処分が決定した。そして、俺をいじめていたクラスメイト、見て見ぬふりをしていた傍観者たち。彼らの家庭にも、学校から「いじめへの加担」という重い事実が連絡された。子供の将来が閉ざされることを恐れた親たちはパニックに陥り、互いを非難し合い、醜い責任のなすりつけ合いを始めた。
俺が、何も知らない静かな部屋で眠っている間に。
俺を嘲笑い、踏みつけ、苦しめた者たちへの裁きは、法の力と、テクノロジーの力によって、着々と、そして情け容赦なく執行されていた。
もう、誰にも止めることはできない。
これは、天羽家に手を出した愚か者たちが支払うべき、当然の代償なのだから。




