第二話 信じたかった君は、もういない
蕾の「本当に?」という言葉は、凍てついた刃のように俺の心臓を貫いた。
電話が切れた後も、その声が耳の奥で何度も反響する。信じてくれと叫んだ俺の言葉は、彼女には届かなかった。一番信じてほしかった人間に、疑われた。その事実が、身体中の骨を軋ませるかのように、俺の全身を蝕んでいく。
結局、その日は両親にも連絡することなく、俺は警察署で長い夜を明かした。翌朝、証拠不十分で一応は解放されたものの、刑事の目は最後まで俺を犯罪者として見ていた。まるでゴミでも見るかのような、冷え切った視線。学校には警察から連絡が行くという。俺の日常は、もう元には戻らないのだと、嫌でも理解させられた。
重い足取りで学校の門をくぐった瞬間、俺は自分が処刑台に上る罪人のような気分になった。周囲から注がれる視線が痛い。ひそひそと交わされる囁き声が、悪意の槍となって俺に突き刺さる。
「あれ、天羽じゃね?」
「マジだ……よく来れるよな、あんなことして」
「うわ、近寄んとこ」
噂は、燎原の火よりも速く学校中を駆け巡っていた。俺が教室のドアを開けると、それまで騒がしかったクラスが、水を打ったように静まり返った。全員の視線が、俺一人に集中する。それは好奇と、侮蔑と、嫌悪が混じり合った、耐え難いものだった。
自分の席に着くと、机の上が惨憺たる有様になっていることに気づいた。
『痴漢』『変態』『犯罪者』『学校から消えろ』
油性のマジックで書かれた罵詈雑言が、机の天板を埋め尽くしている。引き出しの中を覗けば、ぐちゃぐちゃに破られた教科書と、生ゴミが詰め込まれていた。
「おー、来たのかよ、痴漢野郎」
声の主は、やはり黒瀬玲司だった。彼は取り巻きの数人と共に俺の席を取り囲み、見下すような笑みを浮かべている。
「なんだよそのツラ。反省してんのか?まあ、お前みたいなキモい奴が、蕾ちゃんみたいな可愛い子のそばにいること自体が間違いだったんだよ」
「……俺は、やってない」
絞り出すように言った俺の言葉を、黒瀬は鼻で笑った。
「はっ、往生際が悪いなぁ。この俺が、この目で見たって言ってんだ。それとも何だ?俺が嘘ついてるってのか?」
黒瀬の言葉に、クラスメイトたちが同調するようにざわめく。
「だよなー、黒瀬が見たって言うなら間違いないよ」
「天羽くん、普段おとなしいから、ああいうタイプが一番やりそう」
「花咲さんが可哀想……」
誰も俺の言葉を信じない。黒瀬というクラスの絶対的な権力者が下した「天羽は痴漢」という判決は、この教室においては覆ることのない真実となっていた。
俺は助けを求めるように、教室の隅に視線を向けた。そこに、蕾がいた。彼女は数人の女子生徒に囲まれ、俯いている。俺と目が合った瞬間、彼女はびくりと肩を震わせ、さっと顔を背けた。その仕草が、俺の最後の希望を無慈悲に打ち砕いた。
その日から、俺の地獄が始まった。
無視は当たり前。すれ違いざまにわざと肩をぶつけられたり、足をかけられて転ばされたりする。体育の授業ではボールを集中してぶつけられ、昼休みには俺の弁当がゴミ箱に捨てられていた。誰も、助けてはくれない。誰もが、見て見ぬふりをする。まるで、俺という存在が、この教室から消し去られるべき汚物であるかのように。
担任の安井に相談しても無駄だった。彼は心底面倒くさそうな顔で、こう言っただけだ。
「天羽、まあ、色々あったのは分かるが……君にも原因があったんじゃないのか?火のない所に煙は立たないと言うだろう。クラスの皆と、もう少しうまくやっていく努力をしなさい」
事なかれ主義。面倒ごとからの逃避。教師という立場を放棄した男の言葉に、俺は絶望した。この学校に、俺の居場所はもうどこにもない。
それでも、俺はたった一つ、蕾との繋がりだけは諦めきれなかった。放課後、人目を避けるように帰ろうとする彼女を呼び止める。
「蕾っ!待ってくれ、話がしたい!」
俺の声に、彼女の足が止まる。しかし、振り返ろうとはしない。
「……何?」
「何って……頼むから、俺の話を聞いてくれ。俺は本当にやってないんだ。あれは黒瀬が仕組んだ罠なんだよ!」
必死に訴える俺に、彼女はゆっくりと振り返った。その顔は憔-悴し、目の下には隈ができていた。
「罠……?どうして黒瀬くんが、そんなことするのよ……」
「それは……俺にも分からない。でも、俺がお前と付き合ってるのが気に入らなかったんだと思う。頼む、俺を信じてくれ。お前だけが頼りなんだ」
俺がすがるように言うと、蕾の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「……無理だよ」
その言葉は、か細く、しかし明確に俺の耳に届いた。
「もう無理!周りの目が気になるの!みんなが奏くんのこと、気持ち悪いって、犯罪者だって言ってるのに……私だけ、どうして信じろっていうのよ!?私だって辛いんだよ……!?」
彼女はそう叫ぶと、顔を覆って走り去ってしまった。
後に残された俺は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。周りの目。みんなが言ってるから。彼女の口から出た言葉が、何度も何度も俺の頭の中で繰り返される。彼女が信じるのは、俺という人間ではなく、周囲の評価だったのだ。俺たちの絆は、その程度のものだったのだ。
心の支えを完全に失い、俺は抜け殻のようになった。いじめは日に日にエスカレートしていったが、もう何も感じなかった。痛みも、悔しさも、悲しさも、全てが麻痺してしまった。
そんな俺を尻目に、黒瀬は「傷ついた蕾ちゃんを守る」というヒーロー然とした態度で、彼女に急速に接近していった。孤独と不安に苛まれていた蕾が、頼もしく見える彼の存在に惹かれていくのは、時間の問題だった。俺は、教室の隅から、二人が親しげに話す姿を、ただぼんやりと眺めていることしかできなかった。
数日後。その日は朝から冷たい雨が降っていた。
俺はもう、誰とも関わりたくなくて、授業が終わると同時に教室を飛び出した。傘もささず、雨に打たれながら、あてもなく校舎の裏手へと歩を進める。頭を冷やしたかった。このぐちゃぐちゃになった感情を、冷たい雨で洗い流してしまいたかった。
校舎の裏にある、普段は誰も寄り付かない体育倉庫の陰。そこに、二つの人影が見えた。
俺は思わず足を止める。
それは、黒瀬と、蕾だった。
二人は、降りしきる雨に濡れるのも構わず、互いを見つめ合っていた。
やがて、黒瀬が蕾の肩を抱き寄せ、何かを囁く。蕾は一瞬ためらうような素振りを見せたが、こくりと頷くと、自ら彼の首に腕を回した。
そして。
俺の目の前で、二人の唇が、ゆっくりと重ねられた。
時間が、止まった。
雨音も、風の音も、何も聞こえなくなった。
世界から色が消え、音も消え、ただ、目の前の光景だけが、モノクロの映像として脳に焼き付く。
俺が愛した少女が、俺を地獄に突き落とした男の腕の中で、幸せそうに微笑んでいる。俺からすべてを奪った男に、その身を委ねている。
信じていた世界が、完全に終わった音を聞いた。
心の中で、何かがぷつりと切れる。張り詰めていた糸が、もう二度と繋がることはないほど、無残に断ち切られた。
どうやって家に帰ったのか、全く覚えていない。
気づいた時には、ずぶ濡れのまま、自室の床に蹲っていた。冷たい雨粒が、涙なのか、それともただの水滴なのか、もう分からなかった。
「奏?どうしたの、そんなに濡れて!風邪をひくわ!」
俺のただならぬ様子に気づいた母さん――詩織が、心配そうに部屋に入ってきた。その背後には、険しい表情を浮かべた父さん――征士も立っている。
「……」
俺は何も答えられなかった。いや、答えようとしても、言葉にならなかった。ただ、嗚咽だけが喉から漏れ出てくる。
「奏、何があったんだ。話してごらん」
母さんが俺の隣に膝をつき、優しく肩をさする。その温もりに、堰き止めていた感情が一気に決壊した。
「う……あ……あああああ……っ!」
俺は子供のように、声を上げて泣きじゃくった。
痴漢に仕立て上げられたこと。学校で酷いいじめを受けていること。教師に相談しても無視されたこと。そして、蕾に裏切られ、彼女が黒瀬とキスをしていたこと。
途切れ途切れになりながら、俺は涙と鼻水でぐちゃぐchaになりながら、すべてを話した。
俺の話を黙って聞いていた両親の表情が、徐々に変わっていくのが分かった。母さんの優しい眼差しは、法廷で見せるという鋭い光を帯び始め、父さんの無表情だった顔は、絶対零度の氷のように冷え切っていた。
俺がすべてを吐き出し、泣き疲れて脱力したとき、母さんが静かに、しかし鋼のような意志を込めた声で言った。
「奏、もう大丈夫よ。あなたはよく耐えたわ。……これより、法の下で正義を執行します」
その声は、普段の優しい母さんのものとは全く違っていた。それは、幾多の不正を暴き、罪人を裁いてきた敏腕弁護士・天羽詩織の顔だった。
父さんは無言でスマートフォンを取り出すと、どこかへ電話をかけた。短い言葉で何かを指示している。その目は、巨大IT企業「アマテラス・システムズ」を率いる冷徹な経営者のものだった。
「……ああ、私だ。社の全部門に通達。最優先事項だ。サイバーセキュリティ部、データ解析部、特に優秀なホワイトハッカーを今すぐ集めろ。……そう、ターゲットは『すべて』だ」
そして、電話を切った父さんは、もう一件、別の番号にかけた。
「祖父さんか?……ああ、俺だ。少し、話がある。奏のことだ」
電話の向こうで、普段は好々爺然とした祖父――宗一郎の声のトーンが変わったのが、受話器越しにでも分かった。
しばらくの沈黙の後、父さんは静かに電話を切り、俺に向かって言った。
「奏。もうお前は何も心配しなくていい。少し休んでいなさい。お前を傷つけ、お前の心を弄んだ愚か者どもには、我々が相応の報いを与える」
その言葉は、神の宣告のように、静かな部屋に響き渡った。
離れの屋敷に住む祖父の書斎では、受話器を置いた天羽宗一郎が、窓の外の雨を静かに眺めていた。その瞳には、穏やかな好々爺の面影は微塵もない。かつて、日本の司法の頂点に君臨した男の、凍てつくような怒りが宿っていた。
「―――我が孫に泥を塗り、心を踏みにじった愚か者どもに、相応の報いを」
天羽家の、静かな、だが完全なる反撃の狼煙が上がった瞬間だった。




