エピローグ:君と歩む、偽りのない明日へ
あの忌まわしい事件から、二年という歳月が流れた。
俺、天羽奏は、十九歳になり、今は大学の法学部に通っている。
かつてあれほど嫌悪していた「力」の存在。その意味を、正しく理解し、正しく使うために、俺は祖父と同じ道を目指すことにした。もちろん、今でも「普通」でありたいという気持ちに変わりはないけれど、守るべきものができた時、無力でいてはいけないのだと、あの地獄のような日々が教えてくれたから。
「奏くん、お待たせ!」
大学のキャンパスに響く、澄んだ声。振り返ると、そこには俺の日常を彩る、かけがえのない存在――白石栞が、柔らかな笑顔で立っていた。彼女も同じ大学に進み、今は俺の一番近くにいてくれる、大切な恋人だ。
「ごめん、栞。待たせちゃったかな」
「ううん、私も今来たとこ。さ、行こっか」
そう言って、ごく自然に俺の腕に自分の腕を絡めてくる栞。その温もりが、俺の心を穏やかに満たしていく。彼女といると、嘘や偽りのない、ありのままの自分でいられる。彼女は、俺の家柄や背景なんて気にしない。ただ、「天羽奏」という一人の人間を見て、信じてくれる。それだけで、俺はどこまでも強くなれる気がした。
俺たちが歩む未来は、明るい光に満ちている。
だが、光が強ければ、その分、濃い影もまた生まれる。
俺を裏切り、地獄に突き落とした者たちの「その後」を、俺は時折、父の部下がまとめたレポートで目にすることがあった。それは、彼らが支払うべき当然の代償であり、俺が忘れてはならない戒めでもあった。
黒瀬玲司は、少年院を出た後も、彼の人生に刻まれたデジタルタトゥーから逃れることはできなかった。「計画的痴漢冤罪の主犯」というレッテルは、彼がどこへ行こうともついて回った。まともな職に就くこともできず、日雇いの仕事を転々とする日々。かつての王様の面影はなく、彼は社会の片隅で、誰からも信用されず、過去の罪の重さに喘ぎながら生きているという。彼の父親の会社も再起不能となり、一家は離散したと聞く。
元担任の安井誠は、教員免許を剥奪された後、故郷に帰ったらしい。しかし、「生徒を見捨てたいじめ隠蔽教師」という噂は、狭い田舎町ではすぐに広まった。近所の目、親戚からの非難に耐えきれず、彼は家に引きこもり、酒に溺れる毎日を送っているそうだ。彼が何よりも望んだ「平穏」は、彼自身の手によって、永遠に失われた。
そして、かつて俺が愛した少女、花咲蕾。
彼女の人生もまた、坂道を転がり落ちるようだったと聞く。父親の失職後、一家は小さなアパートへ移り住み、彼女自身も高校を中退してアルバイトを始めた。しかし、ネットに晒された過去は消えず、どこで働いても「あの事件の女」だと陰口を叩かれ、長続きしない。心を病んだ彼女は、今ではほとんど家から出ることもなく、薄暗い部屋の中で、失った「ガラスの靴」の幻影を追い求め続けているという。
一度だけ、街で偶然、彼女らしき姿を見かけたことがある。華やかだった面影は完全に消え、虚ろな目で地面を見つめながら歩くその姿は、俺の知っている蕾ではなかった。俺は、何も言わずに、ただその場を立ち去った。俺たちの道が、もう二度と交わることはないのだから。
あの教室で、俺を嘲笑い、見て見ぬふりをしたクラスメイトたち。
彼らもまた、それぞれの形で「罪」を清算していた。内申書に刻まれた「いじめへの加担」という事実は、彼らの進学や就職に、重い足枷となった。希望の大学に行けなかった者、望んだ企業に入れなかった者。彼らは、あの時の「沈黙」や「同調」が、どれほど高くつくものだったかを、これから先の人生で、嫌というほど思い知るのだろう。
「奏くん?どうしたの、難しい顔して」
栞が、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「あ、いや……なんでもない。ちょっと、昔のことを思い出してただけ」
「そっか。……でもね、奏くん。過去は過去だよ。大事なのは、今と、これから。でしょ?」
そう言って、彼女はにこりと笑った。
その笑顔が、俺の心に残っていた最後の澱を、綺麗に洗い流してくれる。
そうだ。彼女の言う通りだ。
俺はもう、過去に囚われてはいない。あの経験は、俺を強くするための礎となった。痛みを知ったからこそ、人の温もりが、信じることの尊さが、身に染みて分かる。
「ありがとう、栞。……なあ、今日の帰り、少し遠回りしないか?綺麗な夕日が見える丘があるんだ」
「うん、いいね!行きたい!」
腕を絡める力が、少しだけ強くなる。
俺たちは、夕暮れのキャンパスを、確かな足取りで歩き出す。
偽りの愛に絶望した俺が、今、本物の愛を知り、偽りのない明日へと歩き出す。
俺の物語は、決して悲劇では終わらない。
なぜなら、俺の隣には、こうして君がいてくれるのだから。
それこそが、俺が手に入れた、何物にも代えがたい、最高のハッピーエンドだ。




