フィクサーの茶室と、龍の目覚め(天羽宗一郎 視点)
わしは、天羽宗一郎。
かつては最高裁判所の長官などという、大層な役職を務めておったが、今では隠居の身。この離れの茶室で、移ろう季節を眺めながら、静かに茶をすするのが日課の、ただの好々爺じゃ。
政財界の者たちが、今なお「先生」などとわしを訪ねてくるが、それも昔の話。今のわしにとって最も重要なのは、この国の行く末でも、法律の条文でもない。たった一人のかけがえのない孫、天羽奏の健やかな成長。それだけじゃ。
奏は、不思議な子じゃ。
わしや、息子の征士が持つ、権力や富といった「力」に、まったく興味を示さなかった。むしろ、それを疎んじておる節さえある。あの子が望んだのは、「普通」の幸せ。友達と笑い合い、恋人と語り合う、そんなありふれた日常じゃった。わしは、そんな孫の生き方を、眩しく、そして少しだけ寂しく思いながらも、尊重してきた。龍の子が、自ら爪を隠し、猫として生きることを選ぶのなら、それもまた一興、と。
じゃから、あの日、息子の征士から電話があった時。
わしの穏やかな日常は、終わりを告げた。
『――祖父さんか?……ああ、俺だ。少し、話がある。奏のことだ』
受話器の向こうから聞こえる征士の声は、普段の冷静さを装ってはいたが、その奥に、地殻の底でマグマが滾るような、尋常ならざる怒りが含まれておった。
そして、征士から語られた事実――。
我が最愛の孫が、痴漢という汚名を着せられ、学校でいじめに遭い、信じた者たちに裏切られ、心をズタズタにされたという、信じがたい話。
電話を切った後、わしはしばらく、縁側から雨に濡れる庭を眺めておった。
茶室の空気は、しんと静まり返っておる。だが、わしの腹の底では、何十年も前に封じ込めたはずの、冷たい激情が、ゆっくりと目を覚ますのを感じておった。
愚かな。
実に、愚かな者たちよ。
眠れる龍の、逆鱗に触れるとは。
わしは、すっと立ち上がると、書斎の奥にしまい込んであった、一本の古い黒電話に手を伸ばした。これは、わしが現役時代から、この国の本当の舵取りをする者たちとだけ繋がる、特別な回線じゃ。
相手はすぐに出た。文部科学省の事務次官、田中君。わしがまだ若かりし頃、目をかけてやった男じゃ。
「やあ、田中君、久しぶりだね。朝からすまない」
わしは、努めて穏やかな好々爺の声を作った。こういう時は、感情を乗せてはならん。静かな言葉ほど、相手の心に重く響くものじゃ。
『宗一郎先生!とんでもない!こちらこそ、ご無沙汰しております。どうかなさいましたか?』
彼の声には、隠しきれない緊張が滲んでおる。それでいい。
「いや、大したことではないんだがね。私の孫が、私立翠城学院というところにお世話になっていてね。どうも、その学校で、いじめの隠蔽があったと耳にしてね。教師が生徒を守るどころか、一緒になって追い詰めるような、実に嘆かわしい事案だそうじゃないか。最近の教育現場というのは、そこまで腐敗してしまったのかねぇ」
わしは、茶をすするように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私の孫が」。その一言で、田中君には全てが伝わったはずじゃ。これは、単なるいち保護者からのクレームではない。この国の秩序を司ってきた男からの、最終通告じゃと。
『……承知いたしました。先生のお手を煩わせるようなことがあってはなりません。直ちに、最高レベルの調査団を派遣いたします』
彼の即答を聞き、わしは静かに受話器を置いた。
これで、教育現場における「処罰」は完了する。あとは、息子の征士と、嫁の詩織くんが、それぞれの戦場で「報復」を成し遂げるじゃろう。
詩織くんは、法という名の剣を振るう。
征士は、技術という名の巨大な網を張る。
そして、わしは、権威という名の天から、雷を落とす。
天羽家の人間を敵に回すということは、そういうことじゃ。
数日後、全ての騒動が片付いたという報告を受けた。
主犯の少年たちは法の裁きを受け、その家族も社会的制裁を受けた。孫を裏切った少女も、無責任な教師も、傍観していた者たちも、それぞれが犯した罪に見合った代償を支払った。
当然の結果じゃ。わしの心は、凪いだ湖面のように静かじゃった。
しばらくして、奏がわしのところに顔を見せに来た。
新しい学校に移り、少し痩せたが、その瞳の奥には、以前にはなかった強い光が宿っておった。
「じいちゃん。……ごめん。それに、ありがとう」
奏は、そう言って、わしの前で深く頭を下げた。
自分が守ろうとした「普通」の脆さを知り、そして、自分が背負うものの重さを、嫌でも理解したのじゃろう。
わしは、そんな孫の頭を、優しく撫でてやった。
「奏よ。力というものは、それ自体に善悪はない。ただ、そこにあるだけじゃ。重要なのは、それを何のために使うか。そして、その力によって生じる責任を、背負う覚悟があるかじゃ」
わしは、庭に咲く一輪の椿に目をやった。
「お前が経験した痛みは、消えることはないじゃろう。じゃがな、その痛みを知ったからこそ、人の痛みが分かる、本当の意味で強い男になれる。その傷は、お前がこれから多くの人間を救うための、勲章になるやもしれん」
奏は、黙ってわしの言葉を聞いておった。
その顔には、もう迷いはなかった。
「龍の子は、龍じゃ。猫のふりをしても、その本質は変わらん。いつか、お前がその爪と牙を、誰かを守るために振るわねばならん時が来る。その日のために、今は心を鍛えなさい」
そう言うと、奏は、力強く頷いた。
その目を見て、わしは確信した。
この子は、大丈夫じゃ。わしや征士とは違う。力に溺れることも、力に怯えることもなく、きっと、その巨大な力を正しく使いこなせる、新しい時代の「王」になるじゃろう。
再び一人になった茶室で、わしは新しい茶を点てる。
湯気の向こうに、最愛の孫の、強く、優しい未来が見えるようじゃった。
たまには、こうして龍の爪を研いでやるのも、年寄りの役目なのかもしれんのう。
わしは、誰にも聞こえないように、小さく笑った。




