第一話 甘い日常と、崩壊の足音
放課後の喧騒が、まだ窓の外に満ちている。
夕暮れ前のオレンジ色の光が教室に差し込み、机や椅子が長い影を落としていた。ほとんどの生徒が部活や帰路につき、がらんとした空間に、俺、天羽奏と彼女である花咲蕾の二人だけが残されていた。
「奏くん、日直の仕事、お疲れ様。手伝うことある?」
「ううん、もう終わるから大丈夫。蕾こそ、待たせちゃってごめん」
黒板を綺麗に拭き終えた俺が振り返ると、蕾は自分の席に座ったまま、にこりと微笑みかけてきた。ゆるくウェーブのかかった髪が、西日に照らされてキラキラと輝いている。その笑顔を見るだけで、一日の疲れなんてどこかへ吹き飛んでしまう。彼女と付き合い始めて、もうすぐ一年半。この穏やかで、ありふれた日常こそが、俺にとって何よりの宝物だった。
「ぜーんぜん。待ってる時間も好きだよ。二人きりだし」
いたずらっぽく片目をつぶやく蕾に、俺の心臓が少しだけ速く脈打つ。こういう不意打ちが、彼女は本当に上手い。
「……そういうこと、あんまり外で言うなよ」
「えー、なんで?今、ここには奏くんしかいないじゃん」
「そうだけど……」
照れ隠しに日誌の最後の項目を書き込んでいると、がらりと教室のドアが開く音がした。そこに立っていたのは、俺たちが一番会いたくないであろう人物だった。
「お、まだいたんだ、二人とも。仲良いねぇ」
軽薄な笑みを浮かべて入ってきたのは、黒瀬玲司だった。サッカー部のエースで、クラスの中心人物。その派手な立ち居振る舞いは、目立つことを何よりも嫌う俺とは正反対の人間だ。
「黒瀬くん。忘れ物?」
蕾が人懐っこい笑顔で尋ねる。彼女は誰に対しても壁を作らない。それが彼女の美点であり、時として俺の胸をざわつかせる原因でもあった。
「んー、まあそんなとこ。それより蕾ちゃん、今日の帰り、駅前の新しいカフェ寄ってかねぇ?インスタで超バズってんの」
黒瀬は俺の存在などないかのように、ごく自然に蕾の隣の席に腰を下ろし、馴れ馴れしく話しかける。その距離の近さに、俺は眉をひそめそうになるのを必死でこらえた。
「ごめんね、今日は奏くんとデートの約束してるから」
「えー、マジ?天羽とか、つまんなくね?映画とか行っても、黙って見てるだけだろ」
黒瀬は俺の方をちらりと見て、嘲るように言った。こういう物言いは、今に始まったことじゃない。彼は俺の持つ物静かな雰囲気を、なぜか「弱さ」や「つまらなさ」と結びつけて揶揄する。
「そんなことないよ!奏くんはすっごく優しいし、一緒にいると安心するんだから」
蕾が少しむきになって反論してくれる。その言葉は嬉しかったが、黒瀬は全く意に介していないようだった。
「『優しい』ねぇ。それって、男として他に褒めるとこがねぇってことだろ。ま、蕾ちゃんがいいならいーけどさ」
彼はそう言うと、わざとらしく大きなため息をついた。そして、立ち上がり際に蕾の肩を軽くポンと叩く。
「じゃ、また明日な、蕾ちゃん。天羽も、彼女のこと退屈させんなよ」
捨て台詞を残して、黒瀬は教室から出ていった。嵐のような男だった。残されたのは、気まずい沈黙と、俺の胸の中に渦巻く黒い靄のような感情だけだ。
「ごめんね、奏くん。黒瀬くん、いつもあんな感じで……」
「いや、蕾が謝ることじゃないよ。行こうか、俺も終わったから」
俺は努めて平静を装い、微笑んだ。ここで不機嫌な顔を見せても、蕾を困らせるだけだ。争い事は好まない。波風を立てるくらいなら、自分が少し我慢すればいい。そうやって、ずっと生きてきた。
天羽家――祖父はかつて司法の頂点に立ち、父は日本の情報社会を裏から支える巨大企業のトップ。そんな家に生まれながら、俺はその力を笠に着ることを何よりも嫌悪していた。自分の力で手に入れたものではない権力や富をひけらかす人間にはなりたくなかった。だから、家のことは誰にも話さず、ごく普通の家庭で育った、ごく普通の高校生として振る舞っている。この穏やかな日常は、俺が自ら選び取った、守るべきものなのだ。
「うん!」
俺の言葉に、蕾はぱっと表情を明るくする。その笑顔を守れるなら、黒瀬のような男に少しばかり侮辱されることくらい、どうということはない。俺はそう、信じていた。
駅までの道を二人で並んで歩く。さっきまでの気まずい空気はすっかり消え、他愛もない話で笑い合った。新しくオープンした雑貨屋を覗き、お揃いのキーホルダーを買う。小さなカフェで、新作のケーキを半分こにして食べる。
きらきらと輝く宝石のような、ありふれた幸せな時間。
「ねぇ、奏くん」
ケーキの最後の一口を口に運びながら、蕾がふと呟いた。
「ん?なに?」
「奏くんって、本当に優しいよね。怒ったりしないし、いつも私のこと一番に考えてくれるし」
「当たり前だろ。好きなんだから」
少し照れながらそう言うと、蕾は嬉しそうに目を細めた。だが、その瞳の奥に、ほんのわずかな物足りなさのような色が浮かんだのを、俺は見逃さなかった。
「でもね、たまには……ううん、ほんのたまーにでいいんだけど、もっと強引でもいいんだよ?私が他の男の子と話してたら、嫉妬してくれたりとか」
「……嫉妬、してるよ。いつも」
「え、嘘ぉ。全然そんなふうに見えないもん」
くすくすと笑う蕾。彼女はきっと、黒瀬のような分かりやすい情熱や独占欲を、どこかで求めているのかもしれない。俺のこの静かな愛情表現では、彼女を満足させられない時が来るのだろうか。そんな漠然とした不安が、胸の奥を冷たくかすめた。
でも、俺は俺のやり方でしか、彼女を愛せない。
「してるって。顔に出ないだけ。……ほら、そろそろ行かないと、遅くなる」
俺は話を逸らすように席を立った。蕾も「はーい」と素直に立ち上がり、俺の腕にそっと自分の腕を絡めてくる。その温かい感触が、俺の不安を少しだけ和らげてくれた。
駅のホームは、帰宅ラッシュのピークを迎えようとしていた。ひっきりなしに電車が到着し、大勢の人を吐き出しては、吸い込んでいく。俺たちが乗る予定の電車がホームに滑り込んできた時、そこはすでに人で溢れかえっていた。
「うわ、すごい人……。一本、見送る?」
蕾が不安そうな顔で俺を見上げる。
「そうだね。そうしよっか」
俺がそう言いかけた時だった。
「ううん、大丈夫だよ。早く帰りたいし、乗っちゃおう!」
蕾はそう言うと、ぐいと俺の腕を引っ張り、開いたドアへと向かっていく。それが、運命を分ける選択になるとは、知る由もなかった。
無理やり乗り込んだ車内は、息が詰まるほどの混雑だった。俺は蕾が押し潰されないように、彼女をドアのそばの壁際に立たせ、自分が盾になるようにその前に立った。電車の揺れに合わせて、身体がぎゅうぎゅうと押し付けられる。人々の汗や香水の匂いが混じり合い、不快指数は最高潮に達していた。
ふと、背中にぐっと強い圧力を感じた。誰かの身体が、意図的に押し付けられているような、そんな不自然な感触。だが、この満員電車だ。そんなことは日常茶飯事だろう。俺は特に気に留めず、ただ早く次の駅に着くことだけを願っていた。
その時だった。
「キャアアアッ!」
鼓膜を突き破るような、甲高い女性の悲鳴。
それは、俺のすぐ真後ろから聞こえてきた。
瞬間、車内のざわめきがぴたりと止み、全ての乗客の意識が一点に集中する。まるでスローモーションのように、誰もが音の発生源を探して視線を動かした。
俺が何事かと振り返ろうとした、その時。
「こいつです!今、こいつがこの人を触りました!」
聞き覚えのある、しかし憎悪に満ちた声が車内に響き渡った。
声の主は、黒瀬玲司だった。いつの間に乗り込んできたのか、彼は俺のすぐ後ろに立っていた。そして彼の指は、まるで断罪の槍のように、まっすぐに俺の胸を指していた。
「え……?」
俺の口から、間の抜けた声が漏れた。
何を言っているんだ、こいつは。俺が?俺が触った?
黒瀬の隣では、派手な化粧をした若い女が、顔を覆って泣きじゃくるふりをしている。
思考が完全に停止した。頭が真っ白になり、状況が理解できない。
しかし、周囲の乗客たちは、黒瀬の言葉を疑いもしなかった。
「最低……」
「高校生だろ、こいつ」
「警察に突き出せ!」
「顔、覚えといたぞ」
侮蔑、嫌悪、敵意。あらゆる種類の負の感情が込められた視線が、無数の針となって俺の全身に突き刺さる。違う、俺じゃない。そう叫びたいのに、喉が張り付いたように声が出ない。
俺は助けを求めるように、目の前に立つ蕾を見た。彼女は、目を大きく見開いて、信じられないものを見るような顔で俺と黒瀬を交互に見ている。その瞳には、明らかな混乱と……そして、ほんのわずかな疑いの色が浮かんでいた。
やがて、無情にも電車は次の駅に到着し、プシューという音と共にドアが開く。
「痴漢です!誰か駅員さんを!」
黒瀬の叫び声に、ホームにいた駅員が二人、血相を変えて駆け寄ってきた。
「お客様、どうされましたか!」
「こいつです!こいつが痴漢しました!俺、見ました!」
駅員は黒瀬の言葉を鵜呑みにして、俺の腕を乱暴に掴んだ。
「ちょっと、あなた!事務所まで来てください!」
「ち、違います!俺は何も……!」
ようやく絞り出した声は、誰の耳にも届かない。抵抗する間もなく、俺はプラットホームへと引きずり出された。人々の冷たい視線の中、なすすべもなく連行されていく。最後に見たのは、電車のドアの向こうで、ただ呆然と立ち尽くす蕾の姿だった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
警察署の殺風景な一室で、俺は何度も同じことを繰り返し聞かれていた。心身ともに疲弊しきっていた。刑事は「家族に連絡しなさい」と高圧的に言ったが、俺は首を横に振った。こんなことで、あの人たちを巻き込むわけにはいかない。大事にしたくない。ただ、この悪夢から一刻も早く覚めたいだけだった。
唯一、連絡してもいいと思える相手。俺の無実を、疑いもせずに信じてくれるはずの、たった一人の存在。
俺は震える手でスマートフォンを取り出し、彼女の名前をタップした。数回のコールの後、電話が繋がる。
「……もしもし?」
蕾の、緊張した声が聞こえた。
「蕾……俺だ。あの、信じてほしいんだけど……」
声が震える。情けなくて、悔しくて、涙がこぼれ落ちそうになるのを必死でこらえた。
「俺はやってない。電車の中のやつ、あれは嘘なんだ。俺は絶対に、そんなことしてない……!信じてくれ……!」
頼むから。お前だけは。
祈るような気持ちで、俺は彼女の言葉を待った。世界でたった一人でも味方がいれば、俺はまだ戦える。
電話の向こうで、長い、長すぎる沈黙が流れた。
俺の心臓が、痛いほどに早鐘を打つ。
やがて、聞こえてきたのは、俺が最も聞きたくなかった言葉だった。
それは、俺の世界に、修復不可能な亀裂を入れる、冷たくて、重い一言だった。
「…………本当に?」
その瞬間、俺の足元が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。




