表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦場は白麟姫のしらべ  作者: 三茶 久
第1章 星合、鈴の音とともに
23/25

結びの音色(4)

 揺れる旗印は金色の獅子。誇らしげにそれらをはためかせ、彼ら――イザリオン帝国軍は央蛇の戦場を数で押し切ろうとしている。

 左翼は持ちこたえるが、右翼はいまにも崩れようとしている。まもなく、夏絶たちの周囲にも敵兵が押し寄せるだろう。それまでに撤退しないと、まず間違いなく、戦場から離脱できなくなる。


 しかしどこへ? どこまで逃げたら良いのだろうか。本陣はあのザマだ。炎に巻かれ、兵糧すらも失ったであろう状況を見るに、いつまでも央蛇での戦を続けてなどいられない。

 このままだと、数多くの兵を失うだろう。ただでさえ数で押されているのに、これ以上、兵を減らされるわけにはいかない。


 しかし、この戦場にすでに指揮官は存在しなかった。

 いや、個別の部隊長などはそれぞれ指示を飛ばしているが、本陣が機能していない今、それぞれの部隊同士で連携がとれていない。イザリオン帝国軍からすると、後は個別に叩けば良いだけ。嘉国軍は実に倒しやすい敵となっているだろう。


(私の国が。いくら蔡将軍が倒れているからと言って、こうもあっさり――)


(他の者たちは、何をしている。皆を統率できる者など――)


 夏絶の背中に、冷たい汗が流れる。

 夏絶隊という少数の遊撃部隊。いままで、ほんの僅かな人数だけを率いて――いや、率いるも何も。自分は、ただ、剣を振っていただけだ。

 たったひとりで、数を倒せば良いとそれだけ考えていたに過ぎない。事実、自分に求められている仕事はそうだろうと信じて疑わなかった自分に、愕然とする。

 周囲の指揮が機能しなくなってはじめて、夏絶は、己は恵まれた存在だったことを思い知った。自分は、蔡将軍の采配により生かされていた。彼が殿にいてくれたから、自由に戦うことが出来たのだろう。



「チィッ……!」


 後ろに飛び退き、首を横にふる。

 もう、周囲の環境は変わってしまった。このままみすみす、やられて良いはずがない。目の前のイザリオン帝国兵に、一騎たりとも落とされるのが許せない。


 そのために己がするべきこと。それが心の奥底でちりちりと熱を持ち始め、衝動として突き動かそうとしてくる。

 もう、夏絶には、分かっている。

 いつまでも、黒忌だからと――誰よりもその立場に甘えていたのは、自分でしかなかったのだから。



 夏絶は全力で地面を踏んだ。


「亥胆! 梧桐! ……皆!」


 周囲の者たちに呼びかけ、そのままジャックに一振り。


「馬鹿め! そんな正面から受け止めて……」

「ふんっ!」


 ジャックが勝ち誇ったように笑うが、夏絶は気にしなかった。大剣と長剣、全力で正面からぶつかり続けて、どちらが有利なのかと問われれば、答えは明白だ。

 長時間のぶつかり合い。夏絶とて、もう限界なのは理解している。


 ガキィ――――……ン……!


 金属のぶつかり合う音が鳴り響く。力で押され負けた夏絶はそのまま、相手の脚を全力で蹴った。

 何事とジャックが怯んだと同時に、夏絶もそのままの勢いで後ろに退く。そして、ジャックではなく、周囲の者たちに向かって声をかけた。


「皆! この場を、任せても良いか!?」


 誰にも譲ったことのない、ジャックの相手。

 亥胆や梧桐がどれだけ腕利きとは言っても、相手は弧将ジャックだ。対抗できるとも思えない。

 それでも、夏絶は彼らに問うた。今こそ、己の本当の責務を果たすために。


「夏絶様?」


 信じられない。皆がそんな目を向けたのはほんの一瞬。夏絶隊の皆は、すぐさまジャックの前に集結する。そして夏絶の代わりに、亥胆が彼の剣を受け止めた。



 見たことがない光景だった。

 自分を護るために、こんなにも大勢の仲間が壁になってくれている。

 そうしてひと息ついたとき、ぴき、と僅かに手に伝わる感触に、夏絶は笑った。あの大剣を、真っ正面から受け止め続け、さきほどの、最後の一撃。夏絶とて感じ取っていた。もう、自身の得物が限界だったと言うことに。

 ぴりり、と夏絶の長剣にヒビが走る。その刃の真ん中に、はっきりと。


 それを目にした誰かが、あ、と声を上げた。制止の声が聞こえるが、夏絶は聞く耳など持たぬ。その剣を高く天へと突き上げ――、


「いつまでも、私が黒忌のままでいると思うな……!」


 ――地面へと、叩きつけた。


「!?」

「夏絶様!?」


 がらんがらん、と音をたてて、長剣の半身――刃が、こぼれ落ちる。

 まるで自殺行為ともとれる彼の行動に、誰もが言葉を失う。

 それでも夏絶は、誰よりも誇らしげに、微笑んだ。彼の背ほどもあったはずの長い刃は、今やその長さを半分ほどにしてしまったのに。


「貴様、気が狂ったかっ!」


 亥胆と梧桐の相手を煩わしそうにしながら、ジャックが声を荒げる。

 しかし、夏絶はその問いに、くるりと背を向けた。

 

「思い上がるな。私の戦場はここではない。お前の相手ばかりしてはおれんのでな」


 そうして、視線を前へ。夏絶の瞳には、もうジャックは映っていない。


「私には、このような武器など、必要が無かっただけだ!」


 誰も寄せ付けぬ武。

 敵も味方も関係ない。寄りつく者をすべて巻き込まんとする圧倒的な長さ。只の人ならば扱えるはずのないその重み。夏絶だからこそ有効に使えるのだと、誇らしく思っていた時もあった。


 しかし、それは違った。

 この長剣を持っていたからこそ、見えていなかったものがあった。圧倒的な個の力は、人を信用せず寄せ付けない棘となることがある。

 今更それを思い知り、唇を噛みしめる。


 戦うべき相手を、間違っていた。目の前の、小さな功を得て満足していたことにようやく気がついた。

 夏絶は、自分の命のために戦う。だから、この国を傾けてなどいられない。厄災など、受けるつもりがない。誰の代わりにもならない。

 利己的な考え方かもしれないが、夏絶にとってはそれがすべて。そして、そのためには、周囲の者たちを斬り捨てて良いはずもなかったのだ。



 柳己ほか数名で退路を確保するため奮闘しているのを横目に、戦場をざっと見渡す。

 視界はすこぶる悪い。それでも、味方のだいたいの配置を把握しては、夏絶は駆けた。


「死ねっ!」

「うわっ!」


 怯んだ嘉国兵へ、剣を振り下ろすイザリオン兵。

 名も知らぬ雑兵が命を奪われようとしているのを見つけて、夏絶は駆ける。そして小回りの利くその折れた剣で、相手を突き上げた。


「うぐぁっ」


 真横からこのような攻撃を受けるとは思っていなかったのだろう。イザリオン兵は焦った目を夏絶の方へ向けた瞬間、息絶える。真っ直ぐ首を突かれて、息をしていられる筈がない。


「あ、あなたは……」


 信じられない、と言った目で、彼も、彼の周囲の兵たちも、一斉に夏絶の顔を見た。次に、折れた剣を。そのような武器で、一体どう敵と戦おうというのかと、疑い混じりの瞳で。


「ぼんやりするな、阿呆!」


 しかし、夏絶は彼らを一喝した。

 そして真剣な眼差しで、さらに敵兵を蹴散らすものだから、余計に彼らは戸惑いを見せる。今まで夏絶が、関わりのない雑兵を気にかけたことなど、なかったことだから。



「退却する。皆、私の号令に従え! 真っ直ぐ南、一点突破をする!」


 突然全軍に対する指令を飛ばした夏絶。当然、彼の部隊外の兵は、困惑の顔を浮かべる。


「黒……いえ、高夏絶様、に、ですか?」


 問われる、夏絶に迷いはない。近くにいる部隊を捕まえては、部隊長に指示を出し始める。


「そうだ。これ以上逃げ遅れたら、全滅だ。徐庶雪からの号令は途絶えた。お前たちは、やつに見捨てられたのだ!」

「見捨て――」


 信じられない、といった目をするが、ここでぼんやりとしている暇はない。

 今、夏絶隊が全力でジャックを止めている。本陣も炎に巻かれて、まともに機能しているようには見えない。

 だからこそ、一刻も早く、夏絶は皆をまとめなくてはいけない。


「さあ、そこのお前。残された兵たちをかき集めろ。そして嘉国の旗を掲げよ! 皆、私に続け!」


 高らかに宣言しては、夏絶はまっすぐ南へと向かう。その長剣をかまえて。夏絶たちを取り囲もうとするイザリオン帝国兵を薙ぎ払い――。


「奮い立て、嘉国兵よ! 私が道を切り開く――早くっ!」


 指揮官に見捨てられた戦場で、誰とも関わりを持とうとしなかった呪われた王子は、ただひとりで、立ち上がる。



 皆は遠巻きで彼のことを見ているだけだった。

 自分とは住む世界が違うものだと認識しているだけだった。


 しかし、夏絶は、一歩前へと進む。

 王の奴隷だったはずのひとつの駒が、初めて――。


「私が、皆を率いる! 私を、信じよ! この嘉国の黒の王子が――民を護りぬいてくれよう!」


 ――ひとりの王子として、戦場へ、立ったのだった。





 ***





「皆! 私に続け! 残された嘉国兵の退路を確保せよ!」


 思わず耳を塞ぎたくなる大声に、こんな状況にも関わらず、千夜は苦笑する。

 図体もでかいだけに声もでかい。しかし、この声の大きさも、将たる才能。流石、蔡将軍、という言葉を噛みしめながら、千夜は前を向く。

 蔡将軍の声がわからぬ兵などいない。片腕がないながらも立ち上がった老傑に、誰もが顔を上げた。


「戦場に取り残されておるのは、我が精鋭と黒王子の部隊! 我が軍になくてはならぬ者たちである」


 しっかりと前を見据えて、蔡将軍は続ける。


「南の包囲は薄い! そこさえ破れば、彼らにも活路は開かれる! さあ、嘉国の者たちよ。我らの手で、我らの仲間を救い出すぞ……!」

「蔡将軍、見てくれ。前線の兵たちが!」


 彼らを救うために、千夜たちはやってきた。紫の旗を取り囲む金の獅子たち。しかし、それを突破しようと、かの地の兵たちは南に集結しようとしている。


 指揮官のいなかった本陣は、蔡将軍が起き上がるまで散り散りになっていた。前線の兵など、尚更だっただろう。本陣が燃え、その後の連絡が途絶えたのだから。


 左翼には北深をはじめとした蔡将軍の直属部隊もいる。気骨がある兵たちが多いのは千夜も知っていたが、他の部隊と連携がとれているようにも見える。

 これは、それぞれの部隊が個別に動いて得られた結果ではない。一体誰が、これだけの数を、この混乱の中、率いられるというのだろうか――。




「よし、このまま南の軍へぶつかる。千夜、少し速度を落とせ」


 千夜(・・)。童ではなく、ふたりのときは千夜と呼ぶ蔡将軍は、屋敷で、千夜に接するときと同じ顔をしている。

 千夜も素直に頷き、手綱をとった。その間に、蔡将軍はくいくい、と周囲に合図を送る。


 千夜たちを追い抜かし、少数の騎馬兵が一気に前に出る。そして、囲い込むことに躍起になっているイザリオン兵の後ろをとった。



「ぎゃあああ!」


 今度は嘉国兵に挟まれることになったイザリオン帝国軍の南包囲網は、更に薄くなる。確実に活路が開かれようとしていることに心が騒ぐが、喜んでいられるような状況でもない。

 皆は無事だろうか。夏絶隊の皆は。――舞術すら出来ない自分は、今、戦場で出来ることなど皆無。蔡将軍が立ち上がった今、彼の向かうべき場所に馬を進めることくらい。


 そして蔡将軍もまた、険しい顔で前を見つめていた。

 ちら、と彼の失われた右腕を見る。剣を佩いているものの、彼がそれを使用することは出来ないだろう。

 自分の立場に剣は必要ない、そうは言うものの、蔡将軍はもともとは戦場で真っ先に先陣を切る種の人間だったと聞く。この状況で、気持ちがはやるのも無理はない。



「蔡将軍、大丈夫だ」

「?」

「皆、あなたを信じている。ここに、ともに駆けてきてくれた者たちは、強い」


 ふん。千夜の言葉に少々不機嫌な返答するが、彼の左拳に、ぎゅっと力が込められたのを見逃しはしなかった。

 千夜も幾ばくか、気持ちが軽くなる。

 そして前を見たとき、薄くなりつつあった敵の包囲網が、ついに、ほころびを帯びる。



 一度決壊すれば、後は雪崩のように広がっていくだけ。

 おおおおお、皆が声をあげる。

 前線部隊と本陣で待機していた後方部隊。ふたつの部隊の合流に沸き立った。


「蔡将軍!」


 ついにやった! と、はやる気持ちを胸に彼の表情を見ると、彼は相変わらず厳しい表情をしたまま。反転する、と左腕を振っては皆に号令を出す。


「よし、このまま撤退する。全軍、西へ! 目指すは天祥門(てんしょうもん)。そこでイザリオン帝国軍の進行をくい止めてみせよう!」


 彼が示したのは、戦場から二日足らずでたどり着く、嘉国の国門だった。央蛇の路の終着地にして、嘉国へ至る最初の関門。今までそこまで敵を進めさせることなどなかったらしいが、いよいよ、国門としての役割を果たすときが来たのだろう。


「そこのお前、先頭を征け」


 蔡将軍に名指しされた青年は、目をきらきらと輝かせ、すぐさまその身を翻す。旗を持つ兵たちに、一気に旗を掲げよと声をかける。

 鬨の声とともに、嘉国軍は一気に反転した。元来た道を、今度は真っ直ぐ戻ってゆく。



「さて、我々は歩兵の尻を叩かんとな。千夜、前に進むぞ」

「ああ」


 決壊した敵の包囲網から雪崩れ込む自軍の歩兵たち。次に声をかけるべきは、央蛇で戦っていた彼らかと目を向け――ようやく、蔡将軍の口もとに笑みが溢れる。


「なるほど、アレが立ち上がったか」


 彼の視線を追ったとき、千夜もまた、目を丸めた。


 部隊も何も関係ない。入り乱れる嘉国兵を率いる黒の指揮官。

 大勢の兵とともに駆ける彼の姿を、千夜の目は、素通りすることなど出来なかった。

 それは、彼がいつもと違う表情をしていたからかもしれない。そして、彼がいつも持っているはずの長剣が、形を変えていたからかもしれない。


 今までは、誰もが遠巻きに、彼を見ているだけだった。

 遊軍を率いて戦場を駆けるが、彼は単なる禍に過ぎない。他の兵とは、相容れぬ、通りすがるだけの嵐のような人物だったはずなのに――。


「高、夏絶……っ」


 ぎゅっと、胸がつぶれる心地がした。


(無事、だった)


 当たり前だ。夏絶が、こんなところで倒れるはずがない。たった一騎になったとしても、彼は戦場に立ち続けるだろう。

 嘉国の禍を一身に浴びる、その日まで。


 だから、心配などしていなかった。いなかったというのに――。



「千夜」


 彼もまた、その黒曜石の瞳が溢れんばかりに目を見開いていた。

 数多の兵が南へ抜ける。そんな中、二人の視線は交差した。


 砂埃の舞う戦場。折れた長剣。

 彼は肩から血を流し、かなり厳しい戦を展開していたのだと瞬時に理解した。


 馬に乗った千夜と、皆とともに走ってきた夏絶。

 まるで周囲の時が止まったかのような感覚を覚えた。

 彼の身体は硬直し、しばし、唇を噛みしめたのち、無事だったのかとつぶやく。その僅かばかりの細い声は、たしかに千夜の耳に届いて、千夜は片手に持った杖を握りしめた。


 しゃらら、という細い金属音が、ふたりの間に響く。

 それに彼は、満足そうに目を細める。



「高夏絶、君が――」


 いつもの彼とは、違って見えた。

 彼は、あくまでも個人で戦場に居場所を作っているにすぎない。誰も彼も、夏絶の扱いに戸惑っていたし、仲間として受け入れるには見えない壁のようなものがあった。


「君だったのか」


 それなのに今。

 彼が、黒忌として皆に蔑まれた彼こそが、皆の中心に立っている。


 千夜の存在に目を向けた夏絶は、今度は蔡将軍へと視線を移した。

 大きな体躯の蔡将軍の馬。見上げるその目は、戸惑いからやがて、強い色彩に色を変える。

 唇を噛みしめる彼は、いつもの風雅な印象とは打って変わって、間違いなく、ひとりの武将だった。


「黒王子、よく持ちこたえた」


 蔡将軍のひとことに、黒曜石の瞳が見開かれる。

 しかし、それも僅かなこと。すぐさま彼は背を向け、皆に声をかける。



「蔡将軍は無事だ。全権を、あの将軍へ委譲する。蔡将軍!」

「ああ。全軍、撤退する! 前へ続け!」


「「応ッ!」」


 蔡将軍の号令に、全軍の士気はますます高く。猛き声をあげ、真っ直ぐ南へ――。



「黒王子、殿(しんがり)は、任せられるか」

「! 私がか?」

「そうだ。敵を押さえ込みながら逃げる、最も危険な役だ」


 蔡将軍の提案に、千夜は息を呑んだ。自分には何も口を挟む権利などない。しかし、再び押し寄せる不安に胸が苦しい。

 しかし、千夜の不安など知らずか、夏絶は、首を縦に振る。


「私より相応しき者が居るならば、名を上げるが良い」

「良い返事だ」



 にい、とふたりは笑いあった後、蔡将軍は己の左腕を腰に回した。

 

「千夜、これを黒王子に」


 左手を自由に動かすことに慣れない蔡将軍。彼が何をしようとしているのか瞬時に悟って、千夜もまた、彼の腰に手を回した。

 そこにつけられた金具を外して、彼の剣を鞘ごと手に取った。そして千夜はそれを、夏絶に向かって放り投げる。


「これは……」


 受け取るなり、夏絶は信じられない、と言った顔をした。

 蔡将軍が常に佩いていたその剣。託された、と感じたであろう彼は、ぎゅっと唇を引き結ぶ。


「――必ず」

 

 そして夏絶は、再び元来た道へと引き返す。皆を逃げるようにと誘導しながら、戦いの激しい後方へと。



「さあ、行くぞ、千夜」

「ああ」


 蔡将軍の命じるまま、千夜は、手綱をとった。すぐさま馬は反応し、他の嘉国兵とともに南へと進路を向ける。

 遠ざかる黒き背中。蔡将軍の剣を構えた彼は、最後に、誇らしげに笑って見せていた。しかし、あの傷で、武器を振るえるというのか。


 己の地位を確立するためではない。皆の、退却を助けるために。

 夏絶隊だけではない。嘉国軍、徐庶雪に見捨てられた者たち、皆を護るために、たったひとり、最後まで戦おうと言うのだろうか。



「高夏絶!」


 だから、千夜は叫ぶ。

 振り返り、彼の背中に向かって。どうか、届けと、声を張り上げる。


「――君に、武運を! どうか、無事で!」





 ***






「来ない……か」


 約束の場所で、ただひとり、万里は己の手を握りしめる。

 本当は、走ってでも彼女を探しにいきたい。しかし、今の己の立場がそれを許さない。


 アンリ・ルベルティア。墜星のアンリと呼ばれる自分が、たったひとりの娘を護るために、皆の動きを乱すわけにはいかない。

 ここで待つ――これだけが、彼に許される自由の、限界。



 かの地を炎に巻いた張本人である自分に、彼女の心配をするのは許されないのかもしれない。

 いや、正確には、嘉国の者に火を放つよう仲間を募っただけだけれども。

 それがどんなに卑劣なことかは分かっている。しかし、己の目的のためには、どんなに非道なことでもやってみせようと心に決めたのだから。



(どうしてだ。なぜ、お前は来てくれない、千夜)


(まさか、炎に巻かれて――だが、彼の陣には近づくなと、俺は――)


 無事でいてくれと、強く願う。くしゃりと、表情をしかめたところで、肩に手を置かれた。


「アンリ。お前はそろそろ行かねば。嘉国兵も撤退を始めた。遭遇などしたら」

「わかっているさ……!」


 やはり、昨日、無理にでもあの手を引いてくるべきだったか。

 出会ったときに手放しては、いけなかった。

 押し寄せる後悔に首をもたげながらも、万里は炎に背を向けた。そして、鎧を着た己の部下たちに、声をかける。



「わかっている……俺は、もう行くよ。エミール、後は頼んだ」


 まだまだ自分たちは、征かねばならない。嘉国を制し、雷王を討つために。



「千夜。お前に、幸運を。……どうか、無事で」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ