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悪役令嬢モノの王子に転生したので知識チートで令嬢たちを幸せにします  作者: 鳴島悠希


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第9話 幕間:風の記憶と聖女の誓い

 足音が、静かに廊下に響く。


 石の床の冷たさが、足の裏からじんわりと沁みてくるたびに、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。指先はまだ少し震えている。顔もきっと、赤いまま。


 でも——嬉しかった。

 昨晩、ヴァリスとひとつになれたこと。

 この身体で、あの人を受け入れたこと。


 触れられた肌のぬくもりも、耳元で囁かれた言葉も、どこもかしこも、まだ残ってる。


 息を吸い込む。吐き出す。

 それだけで、涙が出そうになる。


(ちゃんと、息が吸える。……あの頃と違って)


 わたしは昔、呼吸をするのが怖かった。

 物心ついた頃には、何の病か、もう咳が止まらなくなっていた。

 喉の奥が引き攣れ、胸がきしむ。息が吸えない。息ができない。


 病の原因も分からず、殺してほしいと叫んだことさえある。それほどの地獄にいた。


 ——父と母であるエルフェイン公爵夫妻は、常に優しく、見捨てることなどなかった。

 母は傍らで手を握り続けてくれたし、父は抱き上げて「大丈夫だ」と励ましてくれた。その温もりは確かにあった。

 けれど、周囲の人々の怯えた視線は、幼いわたしに絶望を教え込んだ。


 そんななか、もう一人の例外だったのが——レイナ。


 金色の髪。青く透き通る瞳。姿勢の良さも、言葉遣いも、幼いながらに完璧な淑女。

 でも、わたしにとってのレイナは、それ以上の存在だった。


『わたくしは大丈夫。それに、ミリアは御病気なんかじゃないわ! すぐに殿下が何とかしてくださるもの!』


 彼女は、そう言って、迷いなくわたしの手を取ってくれた。本来は避けるべき、この手を。


 そして、彼女は、その淑女然とした振る舞いとは裏腹に、いつも泥だらけになりながら、木剣を振っていた。


 侯爵令嬢、まして未来の王妃でありながら剣を学ぶ理由を尋ねると、彼女は誇らしげに答えた。


——『殿下は非常に賢いお方。わたくしは知恵ではお役に立てないからこそ、せめて剣を学んで、殿下を守るのです』。


 その堂々たる眼差しは、幼いわたしにとって眩しく、誇らしいものだった。

 そして、木剣を振り、綺麗な手を血豆だらけにしていたレイナ。


 そんな手を、わたしは初めて神聖魔法(ディバインアーツ)で癒やした。

 本当の最初の奇跡は、執事の難病を癒やしたのではなく、彼女の手を治したことだったのだ。


 その後、わたしの咳は、次第に落ち着いていった。

 皆は神聖魔法(ディバインアーツ)に目覚めたことで神の加護を授かったためだと言ったけれど、レイナだけは違った。


『殿下が、あちこちの“風”をきれいにしてくださってるの。お城も、お屋敷も、空気が変わったのですわ』


 彼女はそう信じていた。そして、わたしも確信した。レイナの言う“殿下”が“風”を変えてくれたのだと。


 十歳のとき、初めて政務の場でヴァリス王子を見た。

 年上の貴族たちに的確に指示を飛ばし、冷静に国の未来を考えている姿。

 私を地獄から救い出す風を与えてくれたその人。


 その瞬間、恋に落ちた。


 けれど、ヴァリスはレイナの婚約者。恋と友情の狭間で、わたしは苦悩した。


 だから、父に頼んでザイラント教国への留学を選んだ。叶わぬ恋ながら、せめて他の伴侶を持つことなく、聖女としての権限を得ることで遠くから二人を支えられるような力を得たいと願ったのだ。


 両親は、反対しなかった。むしろ「お前の望むように」と背中を押してくれた。分家から養子を迎えれば家は続くからと。

 女系の一族とはいえ、家名に影響があるであろう娘の我儘に、「そう難しいことではないよ」と笑ってくれた。お父さんも婿養子だしね、と母と一緒に父は笑ってくれた。


 自分勝手な願いに、迷惑をかけてしまった。それでも、笑って許してくれた二人のことを、わたしは今も忘れない。


 そして聖女認定の準備を進めていた十五歳のある日、留学先にレイナが突然、訪れた。

『アルヴェリアに帰りますわよ』と。胸を張る彼女の姿に、思わず胸が詰まった。


「どうして……どうして、そんな顔で来られるの……っ」


 抑えていた想いがあふれた。


「わたし……ずっと殿下を想ってるの……。誰よりも大事な友達が小さなころから愛してやまないことを知りながら、この身勝手な思いを消せないの……! レイナ、あなたがあんなに頑張ってるのを知ってて、応援したくて、なのに……どうしようもない……っ!」


 自分でも、こんなふうに泣きながら詰ってしまうなんて思わなかった。


 でも、それでもレイナは微動だにせず、わたしの苦悩をまっすぐに受け止めた。強く、誇り高く、そして美しく。


『もちろん、わたくしは貴女に殿下を譲る気などありません。殿下はわたくしの婚約者であり、正妃はこのわたくしです』


 強く言い切ったそのあとで、レイナはふっと微笑んだ。


『ですが、わたくしが殿下を愛し続ける為に、わたくしだけが殿下に愛されなければいけない、という条件は必要ではありません』


 レイナは優しい声色で続ける。


『ミリア、貴女はどうなのですか? 殿下が貴女だけを愛さなければ、愛し続けることはできないの?』


 わたしは言葉を失った。

 醜さも、狡さも、矛盾も、すべてを抱えたままのわたしに、それでもなお手を差し伸べてくれるこの人に——わたしは心の底から、負けたのだと悟った。


 そして、それが嬉しかった。心底、嬉しかった。

 だから、泣きながら首を振り、そんなことはないと伝えた。


 わたしの恋を、親友が救ってくれたのだと思った。


 そして、聖女認定を受けることなく帰国した。

 自分の我儘で振り回し続け、迷惑をかけた父母にも、そして、親友にも、借りは返さなければならないと心に刻んだ。


 そして昨晩、ついにわたしはその親友の計らいのもとで、ヴァリス王子と結ばれた。


『あとは、あなたの魅力次第ですわよ、ミリア。そこまで助けてほしいわけでは、無いですよね?』


 レイナのその言葉に大丈夫と胸を張ったものの、昨晩、彼が部屋に来なかった時には怖さで手が震えてしまった。けれど、すぐに彼の誠実さから来る行動だと気づけた。


 それに彼はわたしに問うてくれた。


『それでいいのか? ミリア。自分だけを、ただひとりを、愛してくれる男じゃなくても』


 最初に彼が口にした問いは、政略的な公爵家への配慮でもなく、婚約者であるレイナへの遠慮でもなく、わたし自身の気持ちの確認だった。

 そして、それはレイナがあの日、わたしに告げた言葉と同じだった。その事実が、胸を締めつけ、そして温める。


(——わたしは、この人に恋してよかった)


 綺麗な風を連れて現れて、わたしを救ってくれた人。

 世界一大事な親友が恋焦がれ、そしてその想いに応えて、世界を変えてくれる人。


 私の想いも神聖魔法(ディバインアーツ)も、レイナとヴァリス王子のために。

 そのためなら、この命どころか、神様(創世神)だって差し出せる。


 息を吸い込む。苦しくない。胸が、あたたかい。

 いま、これ以上の幸せなんて、どこにもないのだ。


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