第8話 選ばれし聖女の未来
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
昨夜の熱がまだ残っているベッドの上で、ヴァリスは片手で顔を覆い、深くため息をついた。
(……一晩中、煽られて……気がつけば何度も……っ。王太子が、何をやってるんだ俺は……)
その眼前では、すっきりとした笑顔を浮かべながら、ヴァリスの胸に顔を埋めるミリア。
「ごめん……初めてなのに、つい乱暴に……大丈夫なのか?」
ミリアは「えへ」と笑った。
それから身を起こし、頬に自分の唇をそっと寄せる。
「……理想の初めてだったよ」
囁きと共に、柔らかなキス。
快活で小悪魔的な彼女とは思えぬほど可愛らしい笑顔に、ヴァリスは思わず口元を緩めてしまう。
だが、その刹那。
「楽しそうで良かったですわね。……気持ちよかったですか?」
静かな声が部屋に響いた。
背筋に冷たいものが走る。慌ててドアの方を向くと——
そこには、青い瞳を静かに光らせたレイナが立っていた。
寝室に入ってきたレイナを見た瞬間、ヴァリスは頭の芯が真っ白になるのを感じた。熱の残るベッドの上、隣には布団をかけたまま上体を起こしたミリア。そして扉の前には、冷ややかに見える視線をこちらへ注ぐ、婚約者。
口を開こうとしたが、言葉が出てこない。
「レ、レイナ……これは……っ」
言い訳すらままならない。彼の中の罪悪感が理性を焼き、何より、レイナの気持ちを裏切ってしまったという現実が胸を締めつけた。
だが、次に耳に届いたのは——あまりにも場違いな、明るい声だった。
「レイナ〜、おはよう! やっぱり来てたんだ。……ほらっ♪」
隣でミリアが、にこにこと笑顔でレイナにピースサインを送っていた。
「え……」
思考が追いつかない。
ヴァリスは二人の顔を交互に見比べ、まるで夢を見ているような気分になる。
レイナの表情は、初めこそ固かった。
だがその鋭さがふっとほどけ、次の瞬間には、彼女は穏やかに微笑んでいた。
「そんなに怯えた顔をなさらなくてもよろしいのですよ、殿下」
優しく慈愛に満ちた、その笑み。婚約者の浮気現場を目撃した女のそれではなかった。
「私は……怒ってなどいません。むしろ、あなたは、私が思っていたより、はるかに誠実だったのだから」
その言葉は、ヴァリスの胸をじわりと温かく包み込んだ。
怒られると思っていた。責められるのだと。最低だと、拒絶されるのだと。
だが——彼女はそうしなかった。
レイナは椅子に腰を下ろし、落ち着いた声で語り始めた。
「むしろ、今回の件について謝罪を。考えがあったこととはいえ、殿下を謀ることとなり申し訳ございませんでした」
レイナは神妙に頭を下げ、そう謝罪の言葉を口にした。
「今回の件は、すべて私とミリアの間で決めた企み事でした。……本来なら、あなたが屋敷に戻った瞬間、彼女のもとへ行くのではと予想していましたの」
その瞬間、ヴァリスの眉がわずかに動く。
「けれど、あなたは政務を優先し、記録を整えてからも自室に戻っただけで、彼女のもとへ向かおうとはしなかった。……その慎み深さを、私はとても嬉しく思ったのです」
真っ直ぐな声音だった。
軽やかな皮肉や強がりなど、一切ない。まるで信頼の証として、彼女はそう言った。
ヴァリスの胸に、言葉にならない想いが込み上げる。
けれど、それでも訊かずにはいられなかった。
「……それでも、なぜ……俺にミリアを?」
ヴァリスの問いに、レイナはわずかに瞳を伏せ、隣のミリアと一度視線を交わしてから、静かに語り出す。
エルフェイン公爵家は、女系継承を原則とする名門貴族だ。
その血脈は代々、家の才覚と責任を女性が担い、婚姻によって相応しい家系の力を受け入れる形で保たれてきた。
本来、ミリアが家を継ぐにあたっては、騎士として勲功を立てた者か、伯爵家以下の婿を取るのが慣例だった。だが、彼女は“神に愛された聖女”として、あまりにも強すぎる力を持ってしまった。
「その力が、もし無思慮な相手と結びついたら——王国にとって、火種になりかねないのです」
力と血筋。ミリアが誰と子を成すかは、王家にとっても公爵家にとっても、避けては通れない政治の課題だった。
そして、三家——エルフェイン公爵家、アグレイア侯爵家、そして王家は、極秘裏に協議を重ねた。
最終的に導き出された結論。それが——
「あなたの子を、ミリアが授かり、次代の継承とすること。実績も人格も兼ね備え、政争の種にもならないあなたの血を、ミリアの後継として迎える……それが、最も平穏で、確実な選択肢でした」
その言葉に、ヴァリスは目を見開く。
思いもよらなかった未来。だが、同時に、それがどれほど緻密に考えられた策であるかも分かってしまう。
「本来は、あなたにも事前にお話しする予定でした。ですが……」
言葉を引き取ったのは、ミリアだった。
彼女は微笑みながら、しかしその笑みの奥に確かな覚悟を宿して言う。
「レイナとわたしで、自分たちだけで、ちゃんと話したいってお願いしたの。ヴァリス君には、言葉じゃなくて、“ちゃんと伝わる形”でわかってもらいたかったから」
その瞳は真剣だった。話の内容としても充分に納得がいくものでもあった。
そして、なにより誰かに強制されたからではない。政略の道具になったからでもない。彼女自身の意思がそこにあった。
それでも——
ヴァリスは、最後にどうしても訊いておきたかった。
「……それでいいのか? ミリア。自分だけを、ただひとりを、愛してくれる男じゃなくても」
ミリアの表情が、驚いたように一瞬だけ陰る。瞳が、ほんのわずか潤む。
しかし——彼女はすぐに、いつもの明るい笑みを浮かべてみせた。
「ふふっ……この国で、私に見合うのはヴァリス君ぐらいだからね!」
笑顔の奥に、ほんのかすかな涙の輝き。けれど、それは悲しみではなかった。
誰よりも聡く、誰よりも強くあろうとする“聖女”の、揺るがぬ決意の証だった。
ヴァリスは、その笑顔を、真っすぐに受け止めた。
* * *
それからしばらくして、ミリアは湯あみと着替えのために部屋を出て行った。静けさが戻った室内で、レイナがゆっくりと口を開いた。
「……私には、ミリアに聞いたことと同じことは聞かないのですか?」
——自分だけを、ただひとりを、愛してくれる男じゃなくても
すでに答えはわかっていそうな顔でレイナがそう告げる。
その問いに、ヴァリスは一瞬だけ考えたあと、柔らかく首を振る。
「聞く必要がないからね」
その答えに、レイナは満足げな笑顔を見せた。
ミリアがなぜ自分を選んだのか、ヴァリス自身にも理由はよく分からない。だが、最後に見せた笑顔は、確かに強い想いを感じた。
ミリアが自分を想ってくれている——それだけは疑いようのない真実だった。
そして、今回の一件はおそらく、ミリアの願いと希望を、レイナが理解し、支え、そして叶えようとした結果なのだろうとも察した。
レイナは、自分の感情よりも他者の想いを優先できる人だ。
しかも、それを無理なく、自然体で、本気で思って行動できる人間なのだ——と、改めて確信する。
何かに夢中になると周囲が見えなくなりがちな自分にとって、レイナのような存在は、まさに支えとなる。
「……やはり、キミは国母に相応しい」
思わずこぼれた言葉に、レイナはぱちりと瞬きをした。
そして、唇を軽く吊り上げて、冗談めかすように囁く。
「それならまずは、殿下がわたくしを本当の母にしてくださらなくてはなりませんわね?」
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