第7話 再会、そして誘惑の兆し
丘を越えると、春の陽光に照らされた田畑と、整備されたばかりの農道、そして奥に木造の屋根が点在する村の風景が広がった。
これから施策導入が予定されているのは、この村と周辺数村。水利の安定、土地の質、労働力の確保といった課題を抱えつつも、開墾の可能性を持った重要な拠点である。
ヴァリスは馬車から降り、道の先に見えた一人の少女へ目を留めた。
栗色の髪を高めの位置でポニーテールにまとめ、赤い薔薇の髪飾りを添えた快活な笑顔。
白のブラウスに深紅のスカート、胸元のリボンタイにはグリーンの宝石がきらめいている。
その姿は華やかさを纏いながらも親しみやすく、まるで"聖女"という語が似合わないほどに人懐こい雰囲気を醸していた。
「やっほー、王子様! おかえり〜!」
手を高く振り、軽やかに駆け寄ってくる。
「……久しぶりだな、ミリア」
ヴァリスは穏やかに返す。
だが、彼女の軽やかな呼びかけとは裏腹に、その存在はあまりに重い。
公爵家の後継者。神聖魔法の覚醒者。
そして、宗教国家ヴェルディア教国から"次期教皇候補"にまで推されかけた、"神に愛された姫"。
――その実像を、今、目の前にいる彼女は微塵も感じさせない。
「ヴァリスくん、ちょっと大人っぽくなったんじゃない? ほら、顔の輪郭とか、肩幅とか」
「……十年も政務を担っていればな。君こそ、変わっていないな。昔のままだ」
「うわ、なんかそれ嬉しいかも。あっ、でも成長期はちゃんと迎えたから安心してね?」
ぽん、と自らの胸元に手を添えながらおどけてみせる。
「……村の人たちの前では自重してくれ」
「ふふっ、はいはい。じゃあ、公爵令嬢モードに切り替えまーす」
そう言ってウインクを一つ。だが、次の瞬間にはその表情が引き締まる。
「改めて、ご足労ありがとうございます、ヴァリス王太子殿下。今回の件、公爵家としても大変意義深いと考えております」
声音も、言葉遣いも、空気までもが一変する。
先ほどまでの無邪気な少女の姿は消え、そこには貴族としての気品と、政治的判断力を併せ持った後継者がいた。
「公爵家の協力、感謝している。特にこの地は、今後の地域振興の起点となる可能性が高い。民の定着と労働意欲の向上、そのための福祉と衛生インフラの整備が、急務だ」
「ええ。実は公爵家としても、この一帯の未開拓区域の開墾を進めたいと考えておりまして。ですが、若者の定着率が悪く、離農者も多かった。そこに、今回の浴場整備や公的な慰労制度の導入は極めて有用です。安心と癒やしを土台にした生活環境の安定は、結果として労働力の確保にもつながりますから」
「……そこまで読んでいたのか」
「当然ですわ。わたくし、こう見えても一応“エルフェインの後継者”ですもの」
言って、ミリアはにこりと笑う。
あくまで柔らかく、だが自信に満ちた笑みだった。
――なるほど。
この娘、やはり只者ではない。
宗教的象徴でありながら、経済と社会構造を冷静に見据える視野と知性を持ち、しかもそれを"押し付けがましくない形"で伝える術も知っている。
見かけに反して、政務においては計算高い。
そのギャップが、ヴァリスの中で静かな敬意となって広がっていった。
「そうそう、レイナの話なんだけどさ」
唐突に話題を変える。
「……ん?」
「わたし、昔からレイナと仲良くてさ。あの子、ヴァリスくんに避けられてるって、ちょっとだけ思い込んで落ち込んでた時期もあったんだよ」
「……そんなつもりじゃなかったんだが」
「うん、知ってる。だからこそ、留学から戻ってきたときに、あの子が誰よりも幸せそうで安心したの。あんな風に笑えるなら、もう何も言うことないって思えたの」
ミリアはふんわりと笑った。
その笑みは、ただの友人のそれではない。
彼女の幸せを誰よりも祈り、見届けてきた者だけが持つ、静かな誇りに満ちていた。
説明会は、村の中心に張られた仮設の大テントで行われた。
村長、教会代表、青年団長を含めた十数名の地元代表たちが揃う中、ヴァリスは王太子としての立場を崩さず、丁寧に語りかけた。
「我々の目的は、村に秩序を乱すものを持ち込むことではない。健やかな身体と安らぎの場を用意し、安心できる社会基盤を築くことだ」
「快楽は、罪ではない」
十年前に制定したその理念は、今なお誤解と偏見に晒される。
だが、それでもヴァリスは、まっすぐに言葉を届け続けた。
ミリアも隣で支援する。
説明が穏やかに終わり、質疑応答へ。
「えーと、その制度ってのは、本当に来るんですか?」
青年団長の率直な疑問。
空気がわずかに張り詰める中、ミリアが立ち上がった。
「ご安心ください。王都では十年の実績があり、健康管理も契約体系もすべて法の下に整備されています。“癒やしの職”は後ろめたいものではなく、専門的かつ社会的な“技術”として制度化されています」
声は明るく、澄んでいた。
言葉には力があった。
それが“神に選ばれた聖女”の言葉だったからこそ、周囲は否定できなかった。
説得ではない。納得を誘う柔らかさと誇り。
説明会の終盤、ミリアは何気なく隣に腰を下ろしてきた。
正装のスカートがふわりと揺れ、肩がかすかに触れる。
「ふふ、ちゃんとやってるね。ヴァリスくん♡」
名乗りは丁寧なのに、口調だけが妙に馴れ馴れしい。
それがまた、妙に距離を縮めてくる。
「当然だ。君は、さっきのように……」
「ふふーん、褒められた?」
ヴァリスが続けようとした言葉は、かすかに止まった。
机の下で、彼女の指先が布地の上をそっとなぞっていた。
ひやり、とした感触。
「……っ、ミリア。何を……している」
「質問、来てるよ〜? ヴァリスくん、どう答えるの〜?」
顔は前を向いたまま、声も明るいまま。
誰も見ていないと知っていて、彼女は——
まるで、いたずらを楽しむような気配だけを残して、指先を引いた。
* * *
先ほど以降、ミリアの悪戯は鳴りを潜め、仮設テント内の会議は、既に山場を過ぎていた。
公衆浴場の建設に関する技術的懸念、給水経路や水質管理の責任区分、青年団の雇用と報酬体系、そしてもっとも繊細な公的慰労制度の導入に関しても、ミリアが持ち前の明るさと教義への理解をもって、丁寧に対応していた。
会議は和やかな空気へと移行しつつあり、今や質疑応答というよりは“確認と雑談”に近い雰囲気で、公務としては無事終わったと言って良い。
「では、これにて本日の話は終了といたします。今後ともご協力お願いしますわね」
ミリアの言葉で、拍手と共に会が締めくくられる。
村人たちは順に退室し、補佐官や近侍たちも姿を消す。
扉が閉まり、静寂が降りた瞬間——ミリアは耳元に顔を寄せた。
『……あたしの魅力も、ちゃんと知ってくれた?』
満面の笑顔。
そして、そのまま立ち上がると、
スカートを直し、まるで何事もなかったかのような足取りで、部屋の出口へと向かっていく。
扉の前で、くるりと振り返る。
揺れるポニーテール、赤い薔薇の髪飾り、いたずらっぽいウィンク。
『また、夜に部屋で待ってるからね』
ぱたん。
扉が閉まり、静寂が訪れる。
ヴァリスは、ただ脱力したまま、椅子に背を預けた。
(……あの悪戯公爵令嬢を……次こそは、“わからせて”やる……)
レイナへの罪悪感もありつつも、心にそう固く誓いながら、熱の余韻に包まれていた。
数刻前までの記憶が、まだ脈打つように肌に残っている。
清らかな聖女、ミリア・エルフェイン。
その正体は、男を翻弄する、小悪魔だった。
思い返すたび、肩がぴくりと震える。だが、ヴァリスは深く息を吐き、眉間を押さえた。
「……翻弄されたのは事実だ。けど……主体的に手を出したわけじゃない。うん、俺は被害者……」
言い訳のような独白を吐きながら、机の上に置いてある一つの魔導具に手を伸ばした。
それは薄い銀のフレームに、半透明の魔導水晶が埋め込まれた板。縁には魔術式が刻まれており、彼の触れた瞬間にふわりと青白い光を放つ。
──孤高の記録者。
魔力によって音声・思考を記録紙へ転写する、自動筆記型の魔道具。
十歳の頃。王城の書庫で読んだ失われた魔道文明の記録に、かつて“文官が千の命令を一日に捌いた”という記述があった。好奇心に駆られた彼は魔術師団と連携し、文献を掘り起こし、巨額の資金を費やしてその“失われた道具”を復元・運用可能な状態にまで整えた。
それ以降の効率、結果から考えると、王太子として、これ以上の投資はなかったと、彼自身が確信している。
「記録開始。午後の会合、出席者十五名……」
淡々と口述しながらも、机に向かうヴァリスの瞳には、すでに冷静な輝きが戻っていた。
彼は“政治の場”では誰よりも冷徹で正確な改革者だった。
公衆浴場案への反応。
青年団の代表は予想以上に協力的。特に近年、若者の定住率を問題視していた彼らにとって、「汗を流せる場」「人との交流」が整備されることは大きな魅力だった。
次いで、公的慰労制度への宗教的反応。
一部の老齢神官は渋面を浮かべたが、ミリアが神聖魔法の詠唱と共に「子を為し、未来へ紡ぐ行為は罪ではありません。そして、それは正しく誰も傷つかない形で行われることこそ、創世神が祝福してくれるでしょう」と講話したことで、場の空気が和らいだ。
あれほどの対応、影響力を持つ者が、この王国に他にいるだろうか? レイナと並ぶ才色兼備。その真価を見せつけられた形だった。
「……にしても」
記録を終えたファイルを閉じながら、ヴァリスは頬を押さえた。
あの耳元の声。
目の前で見せられた小悪魔的な表情。
レイナへの罪悪感はある。あるのだが——
「主体的に浮気したわけじゃないからな……っ」
そう呟いて立ち上がる。
* * *
宿として手配されたのは、エルフェイン公爵家の管理する離れ屋敷。
赤煉瓦と白木の外壁、葡萄の蔓が絡むアーチ門。室内は重厚なカーペットと西方風の調度でまとめられ、王族の宿泊にも十分耐えうる格式を持っていた。
応接を終え、専用の寝室へ案内される。ヴァリスは礼を述べ、扉を閉じる。
空間に一人きりとなった瞬間、ふぅ……と溜息が漏れる。
ベッドの上に腰を下ろすと、背筋が柔らかく沈む。天蓋付きの寝台、薄く香る花精油の香り。
騒がしかった昼の喧騒が、ようやく遠ざかっていく。
服を緩め、用意されていた茶を飲み干し、人心地ついた頃だった。
——コン、コン。
控えめなノックが響いた。
「どうぞ」
扉を開けると、そこにはミリアがいた。
いつもの笑顔は控えめで、唇の端だけが申し訳なさそうに歪んでいた。
「……さっきは……ちょっと、悪ノリしすぎちゃって……ごめんね?」
先ほどまでの挑発的な態度とは裏腹に神妙な面持ちのミリア。
ヴァリスは瞬間、気が抜けたように肩の力を抜いた。
「……いや、まぁ。もちろん悪い気はしなかったけどな」
頭を掻く、その動きに合わせてミリアが一歩近づいた。
甘く、乾いた花の香りが鼻をくすぐる。わずかに汗を含んだ体温の気配が、頬を撫でた。
そして、耳元に唇が近づく。
『でも、レイナには言わないから、安心していいよ……』
その囁きの余韻が残る間に、ミリアはくすりと笑った。
あまりにも小悪魔的な、さっきの再現。
それでいて、その表情は、目は、まるで子どもがイタズラの成果を誇らしげに見せるかのよう。
「おま……お前な……」
言葉を失いかける彼に、ミリアは笑う。
「冗談、冗談」
そして軽やかに踵を返し、扉に手をかけた。
「それじゃ、今日はお疲れさま〜。また明日ねー♪」
その背に、ヴァリスは手を伸ばした。
背中、腰、柔らかな香りを抱きしめるように——
ぎゅっ。
「……ミリアが、悪いんだからな……!」
耳元で呟かれたその言葉に、ミリアの頬がわずかに紅潮した。
扉の前、ふたりきりの空間に、熱の予感が静かに灯った。
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