第6話 神に愛された姫、ミリア
政務室の窓から差し込む陽光が、書類の山に優しく降り注いでいる。
窓辺の鉢植えに咲く小さな白花が、風にゆれた。
ヴァリスは椅子を回し、陽光の届かぬ机上へ視線を落とす。
その目には、すでに次なる国家改造の輪郭が映っていた。
──エルフェイン公爵家領、辺境村での公衆浴場施策導入。
新たな生活水準の基盤づくりにして、“地方の文化政策”第一号となる布石。
問題は、文化的反発だ。
風呂という概念そのものに抵抗がある地域。
裸を晒すことへの羞恥、性を語ることのタブー、そして──神聖なるものと俗なるものを峻別する宗教的倫理。
それらを乗り越えなければ、どれほど術式を整え、財政を割こうとも、制度は根付かない。
「……あの娘の協力が要るな」
ヴァリスは天井を見上げ、ひとつ息を吐いた。
ミリア・エルフェイン。
王国にその名を知らぬ者はほとんどいない。
彼女は幼い頃から大規模な改革を成し遂げたヴァリスと同様、いやそれ以上に国中の尊敬を一身に集めていた。
理由は、ただひとつ。
神に選ばれた存在だったからだ。
幼い頃は病弱だったミリアは、七つの年のある日、突然、神聖魔法に目覚めた。
その第一声が、老執事の臓腑の腫瘍を言い当て、癒しの詩によって消し去ったという逸話は、王都でも何度となく語られている。
その奇跡を皮切りに、ミリアは数々の病を癒し、怪我人を救い、死者すら悼んだ。
やがて、ザイラント教国から正式な招待状が届く。
──創世神ザイ=アリオスの正統信仰を掲げる神政国家。
そこにおいて、神聖魔法は、まさに“神の言葉”として扱われている。
当時の法王は言った。 『この方こそが、創世神ザイ=アリオスの聖女に相応しい。』
そこから彼女は七年、ザイラント教国で過ごすこととなる。
そして──次期法王の有力候補に推挙された、まさにその年。
「……公爵家がぶちギレて、即刻帰国させたんだっけな」
ヴァリスは苦笑した。
公爵家が“神の娘”を手放すはずがない。
それは一族の象徴であり、国家における宗教バランスの維持にも関わる。
神政国家にそのまま取られれば、王国の精神的主導権すら喪失しかねなかった。
ゆえに──
彼女は帰ってきた。
王都に戻ってきたミリアは、だが“神の娘”などと呼ばれる存在には、どうにも見えなかった。
栗色の髪をポニーテールにまとめ、軽装の上着にブーツ姿。
まるで旅人か、町の花売り娘のような装いで、王太子であるヴァリスのもとを訪れた第一声が、
『やっほー王子! あたし、また王都に帰ってきたよ! ……って、あれ? 硬い顔してんな〜。またお堅い改革でも考えてたんでしょ〜?』
それだった。
崩れる礼節。なさすぎる距離感。
だが、彼女は善意の塊であり、飾らない明るさと、誰にも分け隔てない接し方は、まさに“太陽”だった。
──それが、厄介だった。
悪気も邪気もない。
だが、ふとした瞬間に爆弾のような言葉を放り込んでくる。
無垢か、意図的か。
それを計算しているような風は微塵もなく、ただ楽しげに微笑むだけ。
だからこそ。
「……レイナの前では絶対に近づかないって、決めてたんだが」
あの夜、すべてを交わし、ようやく伴侶として一線を越えた──そんな矢先に、“もうひとつの危機”が訪れるとは。
だが、避けてはいられない。
農村への性文化の浸透。
そのための布石として、彼女の協力は不可欠だ。
人々の信頼。宗教との接点。光の象徴。
それらすべてを体現する存在が、ミリアなのだから。
「……まずは、レイナに話しておかないとな」
ヴァリスは椅子を離れ、立ち上がった。
愛する婚約者に、何も告げずにミリアへ接触するのは──それこそ、誠実さに欠ける行為だ。
レイナは信じてくれている。
だからこそ、その信頼に甘えるのではなく、真正面から伝えるべきだと思った。
「やれやれ……女性関係に悩む日が来るとは。二十年、童貞貫いてたってのに……」
ぶつぶつと小言を呟きながら、政務室を後にする。
扉の向こうに、もう一人の“聡明なる女”が待っている。
ヴァリスは決意を固めながら、その先の廊下を歩き始めた。
* * *
レイナの私室は、政務室と同じ王城の東翼にある。
石造りの廊下を渡りながら、ヴァリスは歩調を無意識に整えていた。
重厚な扉の前で、深呼吸。
そして軽くノックし、開け放つ。
「レイナ、少し話がある」
「どうぞ」
紅茶の湯気が立ち上る部屋の奥、窓辺の椅子にレイナが腰掛けていた。
白いドレスに薄桃色のガウン、髪は半ばほどほどに結い上げられ、朝よりもやや柔らかい印象だ。
「あら、今度こそ可愛がってもらいにいらしたのかしら?」
茶目っ気のある微笑み。
「……違う。真面目な話だ」
ヴァリスは部屋に入り、正面の椅子へと腰を下ろした。
「エルフェイン公爵領での施策導入にあたり、領主家の協力を得ようと思う。公衆浴場と、それに付随する制度の……浸透を図るには、どうしても顔が要る」
「ミリアのことね?」
あっさりと、核心を突かれた。
ヴァリスは一瞬、言葉を失う。
「……ああ。彼女の影響力は大きい。民衆からの信頼、宗教との接点──何より、光の象徴としての力を持っている」
「ふふ。そうね、ミリアはまさに“神に愛された娘”だもの」
レイナはカップを口元に運び、香りを楽しむように目を細める。
「……その口ぶり。やっぱり君は、彼女と面識が?」
「ええ。というか、親友よ。彼女が神聖王国に行っている間も手紙のやり取りをしてたし、戻ってからも何度も夜通し語り合った仲。まさか、あなたがそれを知らなかったなんて」
口元に手を添え、くすりと笑う。
「……知らなかった」
「まったく、王太子殿下は女心に疎いこと」
少し呆れたような声音だったが、責める響きはなかった。
「でも、大丈夫。ミリアなら、安心して任せられるわ。あの子、見た目も話し方も砕けてるけど……実は、誰よりも繊細で思慮深いのよ」
「そうか……よかった。君がそう言ってくれるなら、安心して頼める」
肩の力が抜けたのを、ヴァリス自身も感じた。
この瞬間ほど、レイナの存在を心強く思ったことはない。
「じゃあ、俺は──」
立ち上がったヴァリスが扉へ向かおうとしたその時だった。
背中に、ふわりと柔らかな温もりが寄り添ってくる。
「……レイナ?」
返事の代わりに、後ろから腕がまわされた。
腰に細い腕が絡みつき、身体がそっと引き留められる。
「……ミリアに誘惑されても、大丈夫なように」
レイナはそう囁き、そっと頬を寄せた。
その声音には、甘さと信頼と、少しの牽制が込められていた。
ヴァリスはゆっくりと振り返り、彼女を抱き寄せる。
「大丈夫。君だけだよ」
心からの声でそう言って、もう一度、彼女の額に口づけた。
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